詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論(3-2)

2011-09-13 23:58:59 | 現代詩講座
 「言葉には意味がある」、けれどその「意味」はいつも一定ではなく、相手との関係によって変わる、別の意味になることがある。それは同じ言葉をつかって別の意味を伝えることができるということかもしれない。
 さっき言った「比喩」、「○○さんは花のようだ」といえば「花」という言葉で「美しい」という意味を伝えることですね。

 で、2連目。

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

 「あなたが美しい言葉に復讐されても」。これは、かっこいい1行ですね。なんとなく、あ、ここに詩があると感じます。--でも、意味はよくわからない。わからないというと、ちょっと違うかなあ。河邉由紀江の『桃の湯』で「ふわーっ」という言葉を自分のことばで言いなおすとどうなるか、とういことを言ったけれど、それによく似ている。直感的にはわかるけれど、自分のことばでは言いなおそうとすると面倒くさい。きちんと言い表せないようなものがある。考えると、自分がじれったく感じる。そういう感じですね。
 この1行がかっこよく見えるのはなぜだろう?

質問 なぜ、かっこよくみえるのかな?
「復讐」という言葉が、ふつうのつかい方と違う。ふつうは、汚い言葉なら復讐されるがわかるけれど、「美しい言葉」との組み合わせがふつうと違う。

 そうですね。ふつうつかっていることばとは違うからですね。「復讐」が独特ですね。「復讐」は、またまたわきにおいておいて……。(こんなふうにしていったんわきおくと、何をわきに置いたのか忘れてしまってだんだん話がずれて言ってしまうことがあるんですが……。)
 まず、「美しいことば」。たとえば「オレンジの薔薇のなかに沈んでゆく午後の倦怠感」というような言葉(これは、ちょっとでまかせだから、美しくないかもしれないけれど)、それは「復讐」なんかしませんね。「復讐され」ということは起きないですね。
 田村が「美しい言葉」は書いているものが具体的には何を指すかはわからないけれど、美しい言葉は一般的に「復讐」などしない。ところが田村は「復讐される」と書いている。とてもかわっている。
 こういうとき、「美しい言葉」のなかで何が起きているのか。あるいは「復讐」という言葉のなかで何が起きているんだろう。

 いま、私は美しい言葉の「なか」でと言ったのだけれど、この「なか」で何か思い出しませんか? 「なか」ということばにこだわって考えたことがありましたね。なんでしたか?
 「言葉のなかには意味がある」。私たちは、そう考えました。
 そうすると、「美しい言葉のなかにある意味」が「復讐」したんですね。「意味」に復讐されたんですね。
 「美しい言葉の中の意味」が、「美しい」というだけの「意味」を超えて、別の「意味になった」。その別の意味になったものが復讐したんだと思います。「美しい」と信じていたのに、「美しい」だけではない何かが、復讐してきたんですね。
 もしかするとそれは「美しい」を超越した美しさかもしれない。想像できない美しさ。想像しなかった美しさ。
 想像を超えてしまっているので、そのとき起きたことがなにかわからず、わからないままに「復讐された」と感じたのかもしれませんね。

 1連目で、田村は「意味が意味にならない世界を生きていたら/どんなによかったか」と書いていたけれど、ここでは逆のことが起きている。「意味が意味になる世界」を「あなた」と「ぼく」が生きている。「美しい言葉」が「美しい言葉」のまま「ある」のではなく、「復讐」の言葉になる。「美しい意味」が「復讐」の「意味」に「なる」。
 3行目の「きみが静かな意味に血を流したところで」というのは、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と同じようなことを言おうとして繰り返されたものですね。その2行は「ぼくとは無関係だ」「無関係だ」という述語で統一されていますから。
 この連は1連目のようなスタイルで書くと、

あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に復讐されて
そいつは ぼくとは無関係だ

 ということになります。
 1連目では「言葉」と「意味」を強調たかったので、それを繰り返し、2連目では「無関係」を強調したいので「無関係」を繰り返していることになります。
 こんてふうに書き換えてみると、「美しい言葉」は「静かな意味」、「復讐される」は「血を流す」が同じことをいおうとしていることがわかります。
 いいたいことを、ひとは何度も繰り返し書くものです。うまく書けないというか、何かいい足りないと感じたら、何度でも繰り返す。だから繰り返し書かれていることがらをていねいに読んでいくと、そのひとのいいたいことがわかるようになります。
 で、この2行を重ね合わせると、美しい言葉のなかにある静かな意味に復讐されて血を流しても、ということになる。2連全体で田村がいいたいのは、「美しい言葉のなかにある静かな意味に復讐されて血を流しても」、それは「ぼくとは無関係だ(ぼくには責任がない)」ということになります。
 ここで「血を流す」という表現が出てくるけれど、これは実際の「血」ではないですね。「比喩」ですね。「傷つく」ということだと思います。「傷つく」といっても、これもまた「比喩」ですね。どんな言葉にも、肉体を傷つけ、血を流させるようなことはできない。

質問 では、血を流すのは、どこ? 人間のからだのなかの、何が血を流す?
「感情、かな」

 そうですね。「感情」が血を流すのだと思います。「からだ」との対比と、とりあえず、その「感情」を「こころ」と読んでみましょう。「こころ」が血を流す、仮定しましょう。
 で、少しもどります。
 「意味が意味になる」、あるいは「言葉が意味になる」。そういうことを考えたとき、その「意味」が「なる」場所は、どこ? 場所はどこ、というのは変な質問だけれど、どこで言葉は意味になるのだろう。ある言葉の意味が別の意味になるのだろう。
 「頭」のなか。あるいは「心」のなか。
 いま、私たちは、美しいことばに復讐されて血を流すのは「こころ」だと考えました。だから、言葉が、その意味が、別の意味になるのは「頭」のなかではなく「こころ」のなかで別の言葉になるんですね。そう考えることができると思います。
 ということは、田村がここで言っているのは、「美しい言葉のなかにある静かな意味が、別の意味になり、その意味が復讐してきて、あなたのこころが血を流しても、ぼくには無関係だ」ということになる。

 こころが血を流す--にもどります。

 質問 こころが血を流す--これは、どういうことだろう。どういう状態の「比喩」なのだろう。どういうときに、こんなことが起きるだろう。どういうとき、こころは血を流しますか?
 「衝撃をうけたとき」

 そうですね。私も、衝撃を受けたときだと思います。衝撃にはいろいろな種類があるけれど、哀しい時、苦しい時と考えると、血を流すがわかりやすいですね。
 涙が流れる、も哀しい時、苦しい時と考えるとわかりやすいですね。嬉し涙というのもあるけれど。
 反対にうれしいときにも「血」ではなく、また別なものが流れるかもしれない。
 でも、とりあえず、ここではこころが衝撃を受けた時、心がふるえる、おおきな範疇のことばで言うと、感動する。そういうときにこころが血を流すといっていると考えましょう。
 そして、そのこと、美しい言葉のなかにある静かな意味に感動しても、ぼくには無関係である--田村はそういいたいのだと思います。

 繰り返しになるけれど、このとき大事なのは、「復讐する」(こころに傷をつけるのは)「美しい言葉」「静かな意味」ということです。
 乱暴な言葉、死んでしまえとか、馬鹿野郎ではない。大嫌いでもない。乱暴な言葉、荒々しい意味がひとを(こころを)傷つけるというのはふつうのことですね。それでは詩にならない。
 美しい言葉、静かな意味が、復讐する--ということろに、詩がある。ふつうと違ったことを書いているところに詩があるということになります。詩とは、ふつうとは違ったこと--ふつうは見落としていること、その人だけが見つけた何かを書いている。そして、そのその人だけが見つけたものというのは、まだ、だれも言っていないので、どうしても不自然なことばになってしまう。この不自然さのなかに、かっこよさがある。不自然さをかっこよくすれば詩になるということですね。

 またまた繰り返しになるけれど、重要なことなので指摘しておきます。ひとはいいたいことをいうとき、なんどでも繰り返しになります。言いなおします。
 2連目の1行目「美しい言葉」を3行目で田村は「静かな意味」という表現に書き直している。「言葉」と「意味」は同じことを指している。「美しい」と「静か」も同じことを指しています。「言葉」と「意味」が同じであることを知って1連目の「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」を言いなおしてみると、

意味なんかおぼえるんじゃなかった

 になると思います。もっとていねいに言うなら

言葉に意味があるとういことをおぼえるんじゃなかった

 ということになります。
 そして、2連目の「あなたが美しい言葉に復讐されても」は、あなたが「美しい意味」に復讐されても、ということになります。「意味」というのは「言葉」のなかにあるもの、「復讐される」というのは「血を流す」「傷つく」だから、これはあなたが言葉のなかにある「美しい意味」に「傷ついても」ということになります。
 ある言葉、ある表現の、その表面的な「言葉」ではなく、言葉の奥にある「意味」を知って傷つく--これを別な表現で言うとどうなりますか?
 「衝撃」「感動」でしたね。
 衝撃、感動したというのは、言葉に関して言えば、言葉が胸につつき刺さる。胸にたとえばナイフが突き刺さると血が流れる。
 田村が「きみが静かな意味に血を流したところで」と書くときの「血」は比喩になります。感動したとしても、ということになると思います。

 3連目は、その「感動」を別な表現で繰り返しているだと思います。

あなたのやさしい眼のなかにある涙

 感動したとき、胸が「比喩」としての「血」を流すならば、目は、比喩ではなく、実際に「涙」をながします。「血」と「涙」は、ある意味で似通っています。
 でも、まあ、涙では「血」ということばを言いなおしたような感じにはなりにくい。ちょっと弱い。物足りない。感動して泣いちゃった、というのは軽い感じがしますね。
 だから田村は言いなおす。

きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛

 この1行、かっこいいですねえ。「あなたのやさしい眼のなかにある涙」というのは「やさしい」と「涙」、「眼」と「涙」が類似語というと変だけれど、想像のつく結びつきなので、そんなにかっこいい1行とはいえないですね。田村以外でも書けそうですね。けれど、「きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛」はかっこいい。
 かっこいい--というのは、ふつうではないことばのつかい方、でしたね。
 どこがふつうと違うか。「沈黙の舌」が違いますね。饒舌ということばはあるけれど、だまっているときは舌は動かないから、「沈黙の舌」というのは言われればわかるけれど、ふつうは思いつかない。さらに、その沈黙の舌から、「痛苦」が「おちてくる」がかわっている。饒舌、言葉から何かがおちてくる(鉢呂の失言を思い出してください)というのはあるけれど、沈黙から何かがおちてくるということは、ふつうは言わない。田村は、鉢呂が「失言」を落としたのに対して「痛苦」を落としたという。これもかわっています。かっこいいですね。痛苦は「おちない」。少なくとも、涙のように、誰かがみてわかる形、外部には落ちない。涙が「外」に落ちるのに対し、痛苦は内部に、だれも知らない「こころ」に落ちる。落ちるというより、内部に残りつづけるものです。
 こういう、考えてわかることがら、考えることで知ることができることを書いてあるから、かっこいいのかもしれませんね。ふつうは、考えないこと、言葉ではいえないことが書いてある--だから、かっこいい。
 「沈黙」というのは、感動しすぎて、言葉にならない。言いたいことがあるのだけれど、言葉にならない状態だと思います。言葉にならないというのは舌が動かないということでもある。舌を動かして言葉にしたいのに舌が動かない--その苦痛。苦しみ。そういうこともあるかもしれません。
 これは苦しみといっても、胸のなかでは、うれしいであるかもしれない。
 田村は、「逆説」をつかって、言いたいことを逆に隠す。そうすることで、その隠れているものの方へ読者が近づいてきて、そこで隠れているものを探し出す(探し出させる)というふうに言葉を動かしている。
 自分で発見した方が、強く印象に残るからですね。

 では、次の2行は何だろう。何の繰り返しだろう。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 これは、説明するのがとしてもむずかしいのだけれど、こういうとき、私は説明しません。ただ、自分の考えを言います。実際に詩を書いているときの「直感」としてわかっていることを言います。
 これは1連目の言い直しです。
 3連目の前半の2行は2連目の言い直し。そこで終わっているのだけれど、それだけでは言い足りないので、もう一度1連目にもどって言いなおそうとしている。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

というのは、田村は「ぼくたち」とここでは複数で書いているのだけれど(それは、「あなた」を書いてしまったから複数になっているのだけれど)、面倒なので田村に限定して言いなおしてみると、

もしぼくが言葉に意味があることを知らなかったら、意味を言葉で語ることを知らなかったなら、

 ということになる。もし、ぼくが意味を言葉で語ることを知らなかったら、「ぼくはただあなたが感動して涙を流しているのを眺めても、ただ立ち去るだろう。」それを言葉にして書くことはないだろう。言葉に意味があること、意味を言葉で語ることを「おぼえてしまった」ので、ぼくは(田村は)3連目の2行を書いてしまった。眺めて立ち去るのではなく、言葉にしてしまった。(いま、「おぼえてしまったので」と言ったのだけれど、これは、またあとでゆっくり説明します。)
 そして、ここから「反転」します。
 3連目は4行で構成されていて、その4行という構造は前の1、2連目と同じなので、見落としてしまいそうだけれど、実は3連目の3行目と4行目のあいだには、とても大きな「間」がある。ここから詩は合わせ鏡のようにして前半へもどっていく。
 大きな断絶があるけれど、そこに「行あき」(連の区別)がない--というのは、その引き返しというか、言い直しの意識が田村には当然のことでありすぎて、空きを意識できていないからです。--これは、河邉由紀恵の『桃の湯』の字数がそろった行を重ねて、突然空白をはさんで別の連へつづいていく詩の形とは反対の形式だといえます。ただ、これはきょう話したいこととは別の問題なので、きょうは省略します。
 どんなふうに言葉が「反転」していくか、引き返していくか、それを読んでいきます。
 言葉に感動している「あなた」を書いてしまった。言葉にしてしまった。だが、それはほんとうに「意味のある言葉」だったのか。「あなたのやさしい眼のなかにある涙/きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛」というのは、いかにも「現代詩」らしい言葉の動きなのだけれど……。
 田村は、「涙」という言葉に、まずもどって行きます。もどりながら、田村は自問する。自分自身に問いかけている。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 この1行は、この連でいちばん大事な問題点を含んでいます。
 「意味があるか」と田村は書いている。これは、いままでの「意味」という言葉がでてきたときとは違っていますね。1連目に「意味が意味にならない」ということばがある。意味は、「なる」ものである、というのがこれまで読んできたことがらです。
 でも、田村は、ここでは「ある」をつかっている。
 ここに、注目したいと思います。

 涙はなぜ流れる?
 「あなた」が美し言葉に復讐されて血を流した。「血」は「感動」の比喩でしたね。「涙」もまた感動の印です。
 感動というのは、言葉のなかにある「意味」に気がついて、こころがおこす現象だけれど、その「涙」のなかにほんとうに「意味」はあるのか。田村は問いかけている。
 これは、まるで「あなた」の「涙」に意味があるか、と問いかけているような感じがするけれど、そうではないのだと思います。自分に問いかけている。
 田村は「涙」ということばをつかってしまったが、そこに「果実の核ほどの意味があるか」。このとき「意味」は「意味」というより「実質」てきなもの、ですね。具体的な内容と言い換えることができるかな? ほんとうに感動に値することがあったのか、問いかけている。
 さらに「血」という言葉をつかったけれど、その「内容」はどうだったのか。その「血」という「比喩」に「夕焼けのひびき」があるか--これも「比喩」になると思うけれど、それがあるか。
 「比喩」、これは、つまり「言葉」ですね、その言葉のなかに「比喩」に匹敵するほどの「意味」はあるか。
 「比喩」は「意味」をつくりだすこと、「比喩」によって、言葉は別の意味に「なる」のだけれど、その「なった」はずの「意味」のなかに、ほんとうに「内容」は「ある」のか。
 田村は、とっても面倒くさいことを、自分自身に問いかけています。自分の書いてしまった「言葉」について問いかけて強います。


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2 コメント

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Unknown (あや)
2011-09-14 20:37:52
なんだかつらくて読めません。言葉がなかったらうそなんかつけない。
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美しい嘘 (谷内)
2011-09-14 23:54:04
美しい嘘--という話題は詩を読む過程では出てきませんでした。

でも、それがテーマだったかもしれませんね。

次の講座のとき、話してみます。
ありがとうございました。
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