詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川逸子「消された物語」、増田耕三「蓮根」

2013-02-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石川逸子「消された物語」、増田耕三「蓮根」(「兆」157 、2013年02月05日発行)

 石川逸子「消された物語」には、何かこころに残るものがある。

晩秋の一日
消された物語を さがしに さまよう

紅葉の森 目立たない路地裏
よごれたゴミ捨て場 K刑務所の運動場
だれもふりむかない祠 古い反故紙に
うずくまっている 物語

目をこらすと
ふうっと立ちあがる
まだ 出を待っている
登場人物たち 動物たち 切り株や草原

 「うずくまっている」「ふうっと立ちあがる」「出を待っている」--そのことばのなかにある「肉体」。それは「物語」の肉体なのだが、同時に石川の肉体でもある。石川の肉体が覚えていることが、まだことばにならないまま、「物語」と共震している。
 ほんとうは、石川は「物語」を探しているのではなく、というか、石川の肉体の外、風景のなかに物語をさがしているのではなく、自分自身が物語になろうとしているのだ。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」というものに、石川自身の肉体を分け与え、--言い換えると、そういうものの肉体を借りて、石川自身の内部から、肉体が覚えていることを引き出そうとしているのだ。

目をそらせば
たちまち消えていってしまう
「行かないで!」
呼べばふりかえり ほほえんでくれるのか

 それは、「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」の声ではなく、石川自身の「肉体」が覚えている、石川自身の「声」のように、私には聞こえる。「行かないで!」と呼んだことがある。けれども、ふりかえりもしなければ、ほほえんでもくれなかった。そういう「こと」を石川は覚えている。
 その覚えている「こと」をことばにして動かしたい。「登場人物」「動物」「鳥」「切り株」「草原」を借りて「物語」にしたい。作者になって、自分の肉体が覚えていることを、見つめてみたい。

かつて たしたに 在り
辛うじて
物語 として のこり
それも いつしか 消されていったのだね

 「物語」は「行かないで!」に結晶している。「行かないで!」だけで、「物語」である。その「物語」さえ、「消されていった」。
 そうは書いてみたも、ほんとうは違うね。
 今度は「消されていった」という「物語」がのこる。肉体に刻まれる。そして、その「消されていった」という「物語」は「行かないで!」という「物語」のあいだを往復する。
 あるいは「さまよう」。

容易に消えるペンながら わずかでも よみがえらせないか
ねがい さまよう 晩秋の一日



 増田耕三「蓮根」は、私には石川の詩と「一対」になっているように感じられた。

裏庭のリュウキュウの根方に蓮根を埋める
おせち料理に使いそびれたものだが
黒ずんでもう食することもできない代物

鍬で穴を掘り二つの固まりを放り込む
正月という営みが人の心を乱すのか
ここ数日
心の襞のどこかがかきむしられるように騒いで
落ち着かない

もしかしたらそれは
台所の片隅に残されていた
蓮根の仕業だったのか
幾通りかの空洞が私を拒むように
静かに腐敗を深めて
私の心もまた
帰ることのできない道の途上に
迷い込んでしまったのだろうか

--三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます

埋めたはずの蓮根から
そんな言葉が漏れ聞こえるような気がした

 石川の作品では「出を待っていた」ものが、増田の作品では、増田の思いを突き破って出てくる。自己主張する。
 「幾通りかの空洞が私を拒むように」の「拒む」は、増田の肉体を(増田は「心」と書いているのだが)拒むということだが、この「拒む」は逆に言うと(?)、増田とは違った何かを主張したいということだ。
 それも「空洞」が。
 「充実した何か」(何かでいっぱいの何か)ではなく、それが「空洞」であり、なおかつ、そこには入ることができない。それはほんとうは「空洞」ではなく、増田の知らないことばでいっぱいであり、そのぎっしりつまったことばが増田を拒んでいるのだ。増田が「空洞」と思い込み、入ろうとしているところから噴出したがっている。
 そして、実際に、噴出する。

--三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます

 この「空洞の三十五年」。それは「空洞」ではなく、増田が信じている「物語」とは別の「物語」なのだ。
 「行かないで!」と呼んだ女は、いま「三十五年たった今でもあなたのことを恨んでいます」と、じわり「腐敗」のように滲み出てくる。--と書くと、石川にも増田にも叱られそうだが、ふと「物語」と「ことば」が、ふたつの作品のなかで重なって見えるのである。
 こういうことが起きるのは、たぶん「行かないで!」も「今でもあなたのことを恨んでいます」も、だれの肉体のなかにも残っていること、肉体が覚えていることだからだろう。肉体がおぼえていることは、いつでも、ことばになりたがっている。

定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房


水の街―続続競輪論
増田 耕三
土佐出版社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八木忠栄「草相撲」 | トップ | 瀧井孝作全集第七巻 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩(雑誌・同人誌)」カテゴリの最新記事