八木忠栄「草相撲」(「潮流詩派」232 、2013年01月10日発行)
八木忠正栄「草相撲」はどこかの神社でみかけたこどもたちの相撲を描いている。
あ、ここがいいなあ。「草相撲も抒情的にかがやく」か。
「抒情的」って、どういう意味?
わからないけれど、そうか、「徳俵にひっかかった陽」か。あ、そうじゃなくて、徳俵にひっかかっているのは、こどもの小さな足。そして、その「かわいい土踏まず」に陽が射している。陽がひっかかっている。あ、これも違うね。土踏まずは徳俵を感じて、そこで踏ん張っている。そのとき足裏がのびる。土に汚れていない土踏まずが、輝いて見える。--説明すると、面倒くさいけれど、まあ、そういうことが「ぱっ」と目に浮かぶ。目という肉体が「覚えている」ことが、そのとき説明をはねのけて噴出してくる。
ふうん。これが「抒情」か。
最近読んだ、藤維夫の「抒情」とはずいぶん違う。藤の抒情は「精神的」だった。けれど八木の抒情は、どちらかというと「肉体的」。そして、そこに何か「健康」なものがある。
これは、いいなあ。
この「健康(肉体)」に、「はあ はっけよい」という掛け声が重なる。「はっけよい」は確かに「はっけよい」とだけでは、力がこもらない。思わず「はあ、」と言って呼吸をととのえ、それから「はっけよい」と声にする。「はあ」は、そこにいるひとの「呼吸」を「ひとつ」にするための準備なのだ。
「肉体」の無意識のリズム、動きがそのまま出ている。
この無意識の自然(肉体)を通ったあとだから、ことばが「徳俵に……」ときざに動いていっても、まるで「肉体」が自然に動いたかのように感じてしまう。八木の「意識」ではなく、「ことばの肉体」がぐいっと八木の意識を破って動いた感じがする。
ほんとうに、いいなあ。
でも、ちょっと不満もある。詩のつづき。
「軍配」はたぶん「行司」のことだろうなあと思うけれど、ここに突然「軍配(行司)」という「他人」が出てくるところが、どうもね。
1行独立した「はあ はっけよい」はもちろん行司の声だったのだろうけれど、その声に八木は「一体化」していた。それは同時にこどもたちとも一体化することであり、徳俵とも陽とも土踏まずとも一体化することなのに。
行司が出てきて「粋な」ことをつぶやいてしまってはね。
このときの「粋な」という感想は、八木のものであり、「粋」と批評した瞬間、一体感がなくなるでしょ? こどもたちは「粋」に相撲をとっているわけではない。「粋」かもしれないけれど、「粋」を意識していない。
「無意識」がもっている「美しさ」が突然、「意識」で定義されなおす。
あちゃあ、これでは、「抒情」はやはり「意識」の領域のことがらになってしまうではないか。
自分(八木)の肉体がこちらにあって、離れたところに別の肉体(もの/存在/こと)があって、その自分と他者との「あいま(あいだ)」で動く「意識」が抒情ということになってしまうじゃないか。
つまらないね。
繰り返される「はあ はっけよい のこった」は、もう「肉体」でなく、「意識」に組み込まれて輝いていない。八木の肉体から分離してしまった「風景」に見えてしまう。
「軍配は情状的に立ちまわる」と再び「抒情的」ということばを書かないことには(念押ししないことには)、抒情も確かめることができないということなのか。
「--軍配は……」以下をやめてしまえばおもしろい詩なのになあ。
八木忠正栄「草相撲」はどこかの神社でみかけたこどもたちの相撲を描いている。
まわしを締めたやせがえるども
境内にキャッキャッとあふれ
走りまわり たわむれやまない
東も西も待ったなし
あびせたおし
ちょんがけ
さばおり
やぐらなげ
うっちゃり
はあ はっけよい
徳俵にひっかかった陽は
かわいい土踏まずをくすぐり
草相撲もしばし抒情的にかがやく
あ、ここがいいなあ。「草相撲も抒情的にかがやく」か。
「抒情的」って、どういう意味?
わからないけれど、そうか、「徳俵にひっかかった陽」か。あ、そうじゃなくて、徳俵にひっかかっているのは、こどもの小さな足。そして、その「かわいい土踏まず」に陽が射している。陽がひっかかっている。あ、これも違うね。土踏まずは徳俵を感じて、そこで踏ん張っている。そのとき足裏がのびる。土に汚れていない土踏まずが、輝いて見える。--説明すると、面倒くさいけれど、まあ、そういうことが「ぱっ」と目に浮かぶ。目という肉体が「覚えている」ことが、そのとき説明をはねのけて噴出してくる。
ふうん。これが「抒情」か。
最近読んだ、藤維夫の「抒情」とはずいぶん違う。藤の抒情は「精神的」だった。けれど八木の抒情は、どちらかというと「肉体的」。そして、そこに何か「健康」なものがある。
これは、いいなあ。
この「健康(肉体)」に、「はあ はっけよい」という掛け声が重なる。「はっけよい」は確かに「はっけよい」とだけでは、力がこもらない。思わず「はあ、」と言って呼吸をととのえ、それから「はっけよい」と声にする。「はあ」は、そこにいるひとの「呼吸」を「ひとつ」にするための準備なのだ。
「肉体」の無意識のリズム、動きがそのまま出ている。
この無意識の自然(肉体)を通ったあとだから、ことばが「徳俵に……」ときざに動いていっても、まるで「肉体」が自然に動いたかのように感じてしまう。八木の「意識」ではなく、「ことばの肉体」がぐいっと八木の意識を破って動いた感じがする。
ほんとうに、いいなあ。
でも、ちょっと不満もある。詩のつづき。
--と軍配は粋なことをつぶやいた
危ういけんがみねに
陽も足うらも辛うじてのこった
はあ はっけよい のこった
軍配は抒情的にたちまわる
「軍配」はたぶん「行司」のことだろうなあと思うけれど、ここに突然「軍配(行司)」という「他人」が出てくるところが、どうもね。
1行独立した「はあ はっけよい」はもちろん行司の声だったのだろうけれど、その声に八木は「一体化」していた。それは同時にこどもたちとも一体化することであり、徳俵とも陽とも土踏まずとも一体化することなのに。
行司が出てきて「粋な」ことをつぶやいてしまってはね。
このときの「粋な」という感想は、八木のものであり、「粋」と批評した瞬間、一体感がなくなるでしょ? こどもたちは「粋」に相撲をとっているわけではない。「粋」かもしれないけれど、「粋」を意識していない。
「無意識」がもっている「美しさ」が突然、「意識」で定義されなおす。
あちゃあ、これでは、「抒情」はやはり「意識」の領域のことがらになってしまうではないか。
自分(八木)の肉体がこちらにあって、離れたところに別の肉体(もの/存在/こと)があって、その自分と他者との「あいま(あいだ)」で動く「意識」が抒情ということになってしまうじゃないか。
つまらないね。
繰り返される「はあ はっけよい のこった」は、もう「肉体」でなく、「意識」に組み込まれて輝いていない。八木の肉体から分離してしまった「風景」に見えてしまう。
「軍配は情状的に立ちまわる」と再び「抒情的」ということばを書かないことには(念押ししないことには)、抒情も確かめることができないということなのか。
「--軍配は……」以下をやめてしまえばおもしろい詩なのになあ。
「現代詩手帖」編集長日録 1965‐1969 | |
八木 忠栄 | |
思潮社 |