詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀧井孝作全集第七巻

2013-02-27 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
瀧井孝作全集第七巻(中央公論社、1979年03月25日発行)

 昨年の年末から思い立って瀧井孝作を読んでいるのだが、とても奇妙なことに気がついた。瀧井孝作の文章はごつごつしていて、必ずしも読みやすいとはいえないのだが、一巻から五巻までの小説を読み終わり、あとは随筆だから早く読めるかな……と思っていたのだが、逆だった。短い随筆なのに、読めども読めども、進まないのである。むずかしいことが書いてあるわけではない。
 たとえば、きょう読んだ「碧梧桐の随筆」という文章。「晩年のものは、筆が枯れて、枯れ光がしたやうに冴え冴えして、ほがらかで、滋味が溢れて、幾度読んでも飽きのこない、名文になつてゐます」という紹介で始まる。「筆が枯れて、枯れ光がしたやうに冴え冴えして、」というような、「枯れる」の繰り返しのつかい方、ふつうなら整理して「枯れる」をひとつ減らすかな、というところを、繰り返すことで、意識を反復させて、ごつごつした生の実感にひきもどすようなことばの動きに瀧井の特徴があると私は思うのだが、実際にどんなふうに碧梧桐の随筆を紹介しているかというと……。

 昭和十年一月の東京堂月報に「子規居士と読売」といふ五六枚の原稿を出してゐます。これは文人の書斎のありさまが描かれてゐます。獺祭書屋と云つた、乱雑な投出した机のまはりは、子規ばかりでなく、碧梧桐にしろ、私共にしろ、同じやうだと、これを読んで吹き出しました。が、病子規の勉強ぶりを叙した末尾に至つては、襟を正して、頭がさがり、涙がわきました。

 具体的な引用がなく、内容の「要約」と「感想」をさーっと書いている。乱雑な机のまわりの描写に笑ったが、勉強ぶりを紹介している部分には頭がさがり、涙が出た。うーん。何も書いてないくらいに、何も書いていない。どうしてこんなに読むのに時間がかかるのだろうと、思ってしまうが。
 たぶん、何も書いていていくらいに見えるから、時間がかかるのだ。「病子規の勉強ぶりを叙した末尾に至つては、襟を正して、頭がさがり、涙がわきました。」には、いくつもの動詞がある。肉体の動きがある。「襟を正して」「頭がさがり」「涙がわきました」。この三つの動詞は、ひとつの文章におさまっているために「時間」の経過がないようにみえる。一瞬にみえる。けれど、勉強ぶりを書いた文章に出会い、はっと気がついて「襟を正す」ということがあり、それから「頭がさがる(頭をさげる)」までのあいだには、かなり長い「時間」がある。襟を正して、ことばを読み返す。そこには、何か反復というだけではとらえきれない「時間」と肉体の変化がある。襟を正すだけでは追いつかず、頭をさげるという動詞として肉体が動くまでには、肉体のなかをことばがなんども行き来している。さらにそれが「涙がわく」になるまでにも、おなじような繰り返しがある。
 繰り返して繰り返して、余分なものを捨ててしまって、繰り返しをつらぬいているものだけを、最小限度のことばで書いている。その繰り返しの「時間」に、無意識のうちに引き込まれてしまう。そこで、無意識のうちに「長い時間」をつかってしまう。そのために、読むのに「時間」がかかる。
 小説では、登場人物たちの動きが、もっと客観的に描写される。他人の肉体の動きとして書かれている。ところが随筆では、もっぱら自分の肉体の動きを書くので、自分(瀧井)にとってわかりきったことは省略されてしまう。しかし、その省略は、そのときの肉体の動きそのものまでは省略できない。勉強ぶりを読んで襟を正し、頭がさがり、涙がわいた--というときの「精神」の動きは、とてもまっすぐで、あっという間だが、肉体はあっという間にそういうことができるのではない。ところが、瀧井は、それが自分の肉体なので、まるで精神の動きのように簡潔に書いてしまう。小説には存在した肉体の動きが随筆では最小限度にとどめられているので、それを読者は自分の肉体で反復(復習?)しないといけない。そのために、とても時間がかかるのかもしれない。
 瀧井は、どうも、「反復(繰り返し)」という動詞で鍛え上げた何か、磨き上げられた何か(それは、整えられたを上回る結晶化のようなもの)を文章にしようとしている。そしてそれは他人の文章を読むときの「基準」のようでもある。
 碧梧桐がパリでマチスにあっている。そして、ふたつの文章を書いている。それに触れながら、こう書いている。

巴里の旅宿ですぐに書いた「マチスを訪ふ」といふ紀行の一章もあり、それは新鮮で溌剌としたスケツチですが、後の「アンリ・マチス」の方は、何年か経つて思ひ出のくり返された所のしんみりした姿が写されています。

 「思ひ出のくり返された所のしんみりした姿」という文のなかの「くり返す」。くり返すことで「しんみり」する。感情が「しっかり」と定着する。強固なものになる。「しんみり」を「強固」と呼ぶのは変だけれど、繰り返しよって「しんみり」が「しんみり」そのものになる。それ以外のものをはねのけて、純粋になる。そういうものを瀧井は信じているのだと思う。
 それは最初に引用した「筆が枯れて、枯れ光りしたやうに」の「枯れる」という動詞にもあらわれている。くり返すことで「枯れる」ということばそのものになる。それ以外のものはいらなくなる。そうなるまで、瀧井は肉体を繰り返し動かしている。そして、その肉体の繰り返しの運動を、小説ではないので、瀧井は省略している。読むときは、その省略された肉体の動きを再現しながら読まないといけないので、とても時間がかかるのだと気がついた。






無限抱擁 (講談社文芸文庫)
瀧井 孝作
講談社

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