谷川俊太郎「ありがとうの深度」(「朝日新聞」2011年06月06日夕刊)
「ありがとう」ということばで私が思い出すのは、東日本大震災の被災者の「ありがとう」である。和合亮一の「詩の礫」も「ありがとう」から始まっていたが、このことばを大震災後、何度聞いた(読んだ)だろう。私は、なぜか、ふるえてしまう。最近、ようやく「早く助けてくれ」(早く復興を進めてくれ)という怒りの声を聞くようになったが、最初のころは「ありがとう」の声の方が多く聞こえた。それは、ほんとうに不思議な声だ。なぜ、ありがとう? もっともっと要求することがあるのに……と思ってしまうのだ。谷川は、そのことばをどんな具合に聞いたのだろう。
大震災の被災者の「ありがとう」は、どこからあふれてくるのか。あふれてくるというより、全身が「ありがとう」になってしまっている。「ありがとう」以外ではなくなっている--私にはそう感じられた。「ありがとう」のことばのなかに被災者が沈んでいるような感じである。被災者の中からことばがあふれてくるというより、ことばのなかから被災者がやっと顔を出すことができた、という感じ。「いのち」そのものという感じがして、私はふるえた。
谷川は、「ありがとう」を被災者のことばと限定しているわけではないが、あ、そうか、谷川はもどかしさを感じたのかと思った。言っても言っても言い足りないという気持ちを感じたのだと思った。「ありがとう」では伝えられないものがあるのだ。「感謝」というだけでは言い切れない何かがあるのだ。「感謝」の気持ちをあらわすことばが「ありがとう」しかないというもどかしさ。それを乗り越えてあふれてくる「ありがとう」。
最後の3行は、感じていることを説明するのがむずかしい。私が感じたことをことばにするのがむずかしい。
谷川は、「ありがとう」を「心の底=深度」と結びつける一方、その「心」を「超える」ものとして書いている。「心の底=深度」は、いわば下向きのベクトル、「超える」は上向きのベクトル。運動の方向が逆である。そのままでは、矛盾してしまう。
けれど、矛盾しているから、それはほんとうのこと、つまり「思想」なのだ。
心の底の底の底……深度が深くなると、その深さはわからない。深さがわかるのは、それが「浅い」とき、つまり「深さ」を測ることができる時だけである。「深さ」を測ることができないところまで「深度」が到達してしまうと、それは「心」ではなくなってしまう。「心」ではなくなるというと、変な言い方になるのだが、「心」が消えて別のものがふいにあらわれてくる。
それは、大震災の被災者たちが、悲しみと苦しみと絶望と怒りの中で、なんとかして生み出そうとしていたものに違いない。「ありがとう」ということばを通して、「微笑」のなかに生まれ変わろうとしていた--生まれ変わりたいという「祈り」のようなもの(ようなもの、としか書くことのできない、名付けられない何か)が、そこにあるのだ。
「ありがとう」は感謝のことばではなく、「祈り」のことばなのだ。再生への、「ことばにならない祈り」--うーん、「祈る」対象をもたない「祈り」なのだ。つまり、「神への祈り」(信仰による祈り)ではなく、一緒に「いま/ここ」に生きている「人間」と「人間」が結ぶべき「祈り=契約」のようなものだ。ひととひとが結ばれる、つながる。そこから「微笑」が始まる。見えない「心」を「超えて」、見える「微笑」が始まる--そうした瞬間への「祈り」。
谷川の書こうとしたことは、私の感想とはまったく違うことがらかもしれない。
だが、私は、谷川の「こころ」を知りたいのではなく、谷川のことばを通して考えたいことを考えるだけ。自分のことばを動かすだけだ。谷川のことばを手がかりに、私は、きょう、「ありがとう」から、そんなことを考えたのである。
「ありがとうの深度」は「ありがとうの震度」でもある。こころのなかで起きた変化--「ありがとう」の意味が「感謝」から「祈り」へと動いていく時に、世界はあたたかく生まれ変わるのだ。
「ありがとう」ということばで私が思い出すのは、東日本大震災の被災者の「ありがとう」である。和合亮一の「詩の礫」も「ありがとう」から始まっていたが、このことばを大震災後、何度聞いた(読んだ)だろう。私は、なぜか、ふるえてしまう。最近、ようやく「早く助けてくれ」(早く復興を進めてくれ)という怒りの声を聞くようになったが、最初のころは「ありがとう」の声の方が多く聞こえた。それは、ほんとうに不思議な声だ。なぜ、ありがとう? もっともっと要求することがあるのに……と思ってしまうのだ。谷川は、そのことばをどんな具合に聞いたのだろう。
心ここにあらずで
ただ口だけ動かすありがとう
ただ筆だけ滑るありがとう
心得顔のありがとう
心の底からこんこんと
泉のように湧き出して
言葉にするのももどかしく
静かに溢(あふれ)れるありがとう
気持ちの深度はさまざまだが
ありがとうのひとことに
ひとりひとりの心すら超えて
世界の微笑がひそんでいる
大震災の被災者の「ありがとう」は、どこからあふれてくるのか。あふれてくるというより、全身が「ありがとう」になってしまっている。「ありがとう」以外ではなくなっている--私にはそう感じられた。「ありがとう」のことばのなかに被災者が沈んでいるような感じである。被災者の中からことばがあふれてくるというより、ことばのなかから被災者がやっと顔を出すことができた、という感じ。「いのち」そのものという感じがして、私はふるえた。
谷川は、「ありがとう」を被災者のことばと限定しているわけではないが、あ、そうか、谷川はもどかしさを感じたのかと思った。言っても言っても言い足りないという気持ちを感じたのだと思った。「ありがとう」では伝えられないものがあるのだ。「感謝」というだけでは言い切れない何かがあるのだ。「感謝」の気持ちをあらわすことばが「ありがとう」しかないというもどかしさ。それを乗り越えてあふれてくる「ありがとう」。
最後の3行は、感じていることを説明するのがむずかしい。私が感じたことをことばにするのがむずかしい。
谷川は、「ありがとう」を「心の底=深度」と結びつける一方、その「心」を「超える」ものとして書いている。「心の底=深度」は、いわば下向きのベクトル、「超える」は上向きのベクトル。運動の方向が逆である。そのままでは、矛盾してしまう。
けれど、矛盾しているから、それはほんとうのこと、つまり「思想」なのだ。
心の底の底の底……深度が深くなると、その深さはわからない。深さがわかるのは、それが「浅い」とき、つまり「深さ」を測ることができる時だけである。「深さ」を測ることができないところまで「深度」が到達してしまうと、それは「心」ではなくなってしまう。「心」ではなくなるというと、変な言い方になるのだが、「心」が消えて別のものがふいにあらわれてくる。
微笑
それは、大震災の被災者たちが、悲しみと苦しみと絶望と怒りの中で、なんとかして生み出そうとしていたものに違いない。「ありがとう」ということばを通して、「微笑」のなかに生まれ変わろうとしていた--生まれ変わりたいという「祈り」のようなもの(ようなもの、としか書くことのできない、名付けられない何か)が、そこにあるのだ。
「ありがとう」は感謝のことばではなく、「祈り」のことばなのだ。再生への、「ことばにならない祈り」--うーん、「祈る」対象をもたない「祈り」なのだ。つまり、「神への祈り」(信仰による祈り)ではなく、一緒に「いま/ここ」に生きている「人間」と「人間」が結ぶべき「祈り=契約」のようなものだ。ひととひとが結ばれる、つながる。そこから「微笑」が始まる。見えない「心」を「超えて」、見える「微笑」が始まる--そうした瞬間への「祈り」。
谷川の書こうとしたことは、私の感想とはまったく違うことがらかもしれない。
だが、私は、谷川の「こころ」を知りたいのではなく、谷川のことばを通して考えたいことを考えるだけ。自分のことばを動かすだけだ。谷川のことばを手がかりに、私は、きょう、「ありがとう」から、そんなことを考えたのである。
「ありがとうの深度」は「ありがとうの震度」でもある。こころのなかで起きた変化--「ありがとう」の意味が「感謝」から「祈り」へと動いていく時に、世界はあたたかく生まれ変わるのだ。
これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫) | |
谷川 俊太郎 | |
集英社 |
ありがとう・・・・・very,very,goodです!!!
(とても)