中島悦子「カメレオンの粉」ほか(「孔雀船」76、2010年07月30日発行)
中島悦子「カメレオンの粉」も、きのう読んだ岩佐なをの「御案内」と同じように何が書いてあるかわからない。ただし、その「わからない」はずいぶん性質が違う。
「スーク」がわからないといえばわかるけれど、カメレオンが生きているところの部族(?)のようなものだろう。私はいいかげんな読者なので、それくらいで満足する。だいたい、カメレオンも実物を見たことはないから、ほんとうにいるのかどうか知らないのだから……。
で、そのカメレオン。中島は「空白のカメレオン」と書いている。これは、わからないねえ。ふつうのカメレオンがいるかどうかも私は知らないのにこんなことを書くと変だけれど、このときの「わからない」は実は、そんなものいるわけないだろう、でたらめ書くなよ、である。
が。
でたらめ書くなよといいながら、矛盾したいい方になるが、このでたらめ、「空白のカメレオン」が、この詩のなかではいちばんよくわかるのだ。
変でしょ?
変だけれど、詩では、こういう変なことがいちばん大切だ。
空白のカメレオンは「空白の」ということばと「カメレオン」ということばでできている。この「できている」ということのなかに、詩、がある。あることばと別なことばが結びつく--いや、結びつかせてしまう。そのときの、その「結びつき」のでき方のなかに、岩佐のことばを借りていえば、ことばとことばの「結びつき」の「スキを衝きスキマを通ってややってくる」何かがある。それが、詩。
実際には存在しない(生きていない)のに、「空白の」と「カメレオン」が結びついたとき、そこにいままで存在しなかったものが、存在してしまう。ことばは、不在を存在させてしまう。その力--それが、詩。
そういうものが、いま、この瞬間にある。--これは、何よりも明白に「わかる」。
ここも、おもしろいねえ。わからないけれど、わかる、という部分だ。
「という幻想」ということばがなければ、この作品はもっと楽しい。というか、それって「幻想」って書いてしまえば、詩じゃなくなってしまうよ。
「幻想」ではなく、虹色の粉も、「空白のカメレオン」も現実。ことばがつくりだした現実であるときに、詩、になる。
それが「幻想」にもどるとき、詩は消えてしまう。
詩は読みたいけれど、幻想は読みたくないなあ。幻想なんて、どんなにリアルだ、リアルだと本人がいったって、そりゃあそうでしょう。その人のものであって、そのひとにとってリアルでないものなんて、何もない。そうではなくて、そのひとのものなのに、読者のものになってしまうもの--それが詩。
詩は、読んだひとのもの。
*
尾世川正明「フラクタルな回転運動と彼の信念」。1連目が非常におもしろい。
ことばの運動が、前に書いたことばをひきずりながらゆっくり進む。ゆっくり進むと、なんだかわからないがヘンに歪む。何かが「近づいたり遠のいたりする」感じがする。書かれていることばは全部わかるが、そしてそこに書かれている「意味」も半分くらいはわかるつもりだが、この半分くらいわかるというあいまいななかに、ひきずりこまれ、あれ、何がわかって、何がわからないのかなあ、判然としないなあという感じがいいのだ。
中途半端。
尾世川が、彼のことばが中途半端というのではなく、読んでいる私のなかで、私のことばが中途半端になる。どこへ動いていくべきなのか--それがわからない。わかるのは、あ、尾世川のことばについていってみたいという気持ちが起きる、ついていくしかない、という気持ちになる。
誘われる。次のことばへ次のことばへと誘われるのだ。
「エンドルフィン」「下垂体」--聞いたことがあるけれど、よくわからない。(笑い--笑ってごまかすな、という声が、私のなかからも聞こえてくるのだけれど)、このよくわからないことばが効果的だなあ。
あ、私の中途半端にとって、という意味です。
引きずり込まれ、尾世川の書いていることを信じるしかない。そうすると、「腰」とか「足」とか、充分に知っていることばがでてきて、その一方で「腰は柔らかくしなり」って、ええっ、そうなの? そうかもしれない、と不思議な気持ちになる。
中島の書いていた「空白のカメレオン」と同じように、ことばにした瞬間、書いた瞬間、そういうものがあるかどうかは別にして、それが存在してしまう。腰はやわらかくしなるものでなければならない、と思ってしまう。
こういうことばの運動のなかに、詩がある、と思う。
*
望月苑巳「定家卿の花鳥風月スケジュール」も、うそとほんとうが交錯し、その「交錯」そのものが「事実」に、つまり詩に「なる」ことを証明している。
詩は、ことばによって、「なる」ものなのだ。
定家とウェディングドレスでは時代が違う。だから、定家がここに書かれているようなことをほんとうに思うわけではないだろうけれど、それをことばで思わせてしまうのだ。そして、そこからことばが自分勝手に運動を始める。詩人は、その運動につきしたがうことのできるひとのことである。
中島悦子「カメレオンの粉」も、きのう読んだ岩佐なをの「御案内」と同じように何が書いてあるかわからない。ただし、その「わからない」はずいぶん性質が違う。
沙漠に生きる空白のカメレオンを干物にする
カメレオンはまじないの粉になる。密かに飲ませるのに成功すれば、カメレオンの寿命と同じになるという。カメレオンの粉は、毒ではない。あくまでまじないの力によると、スークの呪術師に言い含められている。心の中の殺意が現実になりますように、なりますようにと。呪術師は灰茶の小さなカメレオンの干物を手品のように動かす。
「スーク」がわからないといえばわかるけれど、カメレオンが生きているところの部族(?)のようなものだろう。私はいいかげんな読者なので、それくらいで満足する。だいたい、カメレオンも実物を見たことはないから、ほんとうにいるのかどうか知らないのだから……。
で、そのカメレオン。中島は「空白のカメレオン」と書いている。これは、わからないねえ。ふつうのカメレオンがいるかどうかも私は知らないのにこんなことを書くと変だけれど、このときの「わからない」は実は、そんなものいるわけないだろう、でたらめ書くなよ、である。
が。
でたらめ書くなよといいながら、矛盾したいい方になるが、このでたらめ、「空白のカメレオン」が、この詩のなかではいちばんよくわかるのだ。
変でしょ?
変だけれど、詩では、こういう変なことがいちばん大切だ。
空白のカメレオンは「空白の」ということばと「カメレオン」ということばでできている。この「できている」ということのなかに、詩、がある。あることばと別なことばが結びつく--いや、結びつかせてしまう。そのときの、その「結びつき」のでき方のなかに、岩佐のことばを借りていえば、ことばとことばの「結びつき」の「スキを衝きスキマを通ってややってくる」何かがある。それが、詩。
実際には存在しない(生きていない)のに、「空白の」と「カメレオン」が結びついたとき、そこにいままで存在しなかったものが、存在してしまう。ことばは、不在を存在させてしまう。その力--それが、詩。
そういうものが、いま、この瞬間にある。--これは、何よりも明白に「わかる」。
童話のように虹色の目玉をしたカメレオンが、虹色の干物になって、虹色の粉になる。それが砂漠漠の砂に混ざっていくという幻想。カメレオンの心だけが混ざっていく砂漠。
ここも、おもしろいねえ。わからないけれど、わかる、という部分だ。
「という幻想」ということばがなければ、この作品はもっと楽しい。というか、それって「幻想」って書いてしまえば、詩じゃなくなってしまうよ。
「幻想」ではなく、虹色の粉も、「空白のカメレオン」も現実。ことばがつくりだした現実であるときに、詩、になる。
それが「幻想」にもどるとき、詩は消えてしまう。
詩は読みたいけれど、幻想は読みたくないなあ。幻想なんて、どんなにリアルだ、リアルだと本人がいったって、そりゃあそうでしょう。その人のものであって、そのひとにとってリアルでないものなんて、何もない。そうではなくて、そのひとのものなのに、読者のものになってしまうもの--それが詩。
詩は、読んだひとのもの。
*
尾世川正明「フラクタルな回転運動と彼の信念」。1連目が非常におもしろい。
ウォーキングの場所として公園の遊歩道があって
遊歩道が池をめぐるタマゴ型で少し波打っていて
周回中には対岸がいくどとなく近づいたり遠のいたりする
彼はむかしからそのことに深い意味をみつけていて
朝の運動は彼にとっては聖なる儀式のひとつになっているらしい
ことばの運動が、前に書いたことばをひきずりながらゆっくり進む。ゆっくり進むと、なんだかわからないがヘンに歪む。何かが「近づいたり遠のいたりする」感じがする。書かれていることばは全部わかるが、そしてそこに書かれている「意味」も半分くらいはわかるつもりだが、この半分くらいわかるというあいまいななかに、ひきずりこまれ、あれ、何がわかって、何がわからないのかなあ、判然としないなあという感じがいいのだ。
中途半端。
尾世川が、彼のことばが中途半端というのではなく、読んでいる私のなかで、私のことばが中途半端になる。どこへ動いていくべきなのか--それがわからない。わかるのは、あ、尾世川のことばについていってみたいという気持ちが起きる、ついていくしかない、という気持ちになる。
誘われる。次のことばへ次のことばへと誘われるのだ。
公園の周回路は一周が約2キロほどあるので
一周回ればからだがあったまって筋肉はしなやかに
二週回ればエンドルフィンは下垂体からあふれ
百周でも千周でも永遠に歩き続けられるような高揚感に
腰は柔らかくしなり足はバネのように軽く弾む
「エンドルフィン」「下垂体」--聞いたことがあるけれど、よくわからない。(笑い--笑ってごまかすな、という声が、私のなかからも聞こえてくるのだけれど)、このよくわからないことばが効果的だなあ。
あ、私の中途半端にとって、という意味です。
引きずり込まれ、尾世川の書いていることを信じるしかない。そうすると、「腰」とか「足」とか、充分に知っていることばがでてきて、その一方で「腰は柔らかくしなり」って、ええっ、そうなの? そうかもしれない、と不思議な気持ちになる。
中島の書いていた「空白のカメレオン」と同じように、ことばにした瞬間、書いた瞬間、そういうものがあるかどうかは別にして、それが存在してしまう。腰はやわらかくしなるものでなければならない、と思ってしまう。
こういうことばの運動のなかに、詩がある、と思う。
*
望月苑巳「定家卿の花鳥風月スケジュール」も、うそとほんとうが交錯し、その「交錯」そのものが「事実」に、つまり詩に「なる」ことを証明している。
詩は、ことばによって、「なる」ものなのだ。
苔むす石段を降りると
ウェディングドレスの裾に、結婚行進曲がまとわりついている
祝宴はとうに始まっていた。
定家は自分も願わくば
こんなところで式を挙げてみたかったと悔やむ
慌てて祝辞を得意の歌にしてみた。
掻きやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞたつ
定家とウェディングドレスでは時代が違う。だから、定家がここに書かれているようなことをほんとうに思うわけではないだろうけれど、それをことばで思わせてしまうのだ。そして、そこからことばが自分勝手に運動を始める。詩人は、その運動につきしたがうことのできるひとのことである。
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