監督 ウェイン・ワン 出演 ヘンリー・オー、フェイ・ユー
離れてしまった家族のこころ。それを回復しようとする試み。中華鍋を買って、一生懸命、料理する老いた父が悲しい。その、料理そのものの、あじけない冷えた感じがとても悲しい。中華料理は世界一おいしい料理だというけれど、それがおいしいのは食べる人がしあわせであってはじめて生まれるおいしさだ。食べる人が、楽しくなければ、どんなに豪華でもおいしくはない。楽しい、とは、こころが通い合っているということだ。
こころを通い合わせるためには、語り合うことが不可欠だ。
父の部屋と娘の部屋。ふたつの部屋の扉が開かれている。壁をはさんで、父と娘が背を向けている。そういうシーンがあったが、このシーンが、この映画の父と娘の関係を象徴している。どんなに扉が開かれていても、そのあいだを「空気」がどれだけ自在に行き来しても、こころが通じ合うとはかぎらない。見える「空気」そのものが、部屋を区別する壁よりも強靱なのだ。分厚いのだ。
一方、ことばが通じなくても、語り合うことでこころを通わせるというシーンもこの映画にはある。父と娘ではなく、父とイラン人の老女性。互いにカタコトの英語で、ジェスチャーをまじえながら話しあう。その時間を楽しみに、ふたりは公園へやってくる。ベンチに腰掛ける。
けれど、それもまた、はかない幻。
懸命に語りあいながら、ほんとうのことを隠してしまう。家族の関係を隠してしまう。家族に愛されていな--ということを、こころを打ち明けて語ることができない。だから、父とその老女性は、ふいに別れてしまうことになる。
語る。そのとき大切なのは、「真実」を語るということである。しかし、その真実を語るということは苦しい。苦しいけれど、それを語るしかない。その一点にたどりつくまでを、この映画はていねいに描いている。
このていねいさは、たぶん脚本を読むともっとわかるかもしれない。そして、舞台の方がもっと切実につたわってくるかもしれない。舞台にのせれば、とてもいい芝居になると思う。そう思うけれど……。あ、映画では、苦しいねえ。映画独自の、映像で納得させるという部分が少ない。父親の、猫背を矯正するコルセット(?)のように、変になまなましい肉体にせまる描写もあるのだけれど、なんだかなあ……。
芝居で、目の前で役者が動く--そういう形で見れば、たぶん、もっともっと作品の抱えているものが切実に迫ってくるだろうなあ、と、そういうことばかり考えた。