「六月の朝」には、とても変なところがある。
ひじり坂と反対な山に
暗い庭が一つ残つている
誰かが何時種を播いたのか
コスモスかダリヤが咲く。
タイトルは「六月の朝」。6月に、コスモスやダリヤが咲く? コスモスかダリヤというけれど、コスモスとダリヤは見間違えるような花? まさかねえ。
どうしたんだろう。西脇は何を書きたかったのだろう。
ぜんぜん、わからない。(西脇ファンの人、教えてくださいね。)
西脇の名前がなかったら、この4行で、私はこの詩を読むのをやめていると思う。でも、西脇の全集のなかに入っているので、私は読みつづける。
そして、まあ、私はいいかげんな人間にできているらしく、いまさっき、これはいったい何? と思ったことを忘れて、やっぱり西脇のことばの動きは楽しいなあ、と引き込まれていく。
ヴェロッキオの背景に傾く。
イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。
ヴェロッキオ、イボタ。前者はイタリアの彫刻家・画家。後者は日本の(?)、初夏の白い花。ぜんぜん関係ないものが、カタカナの音のなかで交錯する。「意味」ではなく、「音」そのものが楽しい。濁音が意識を攪拌する。
そして、この音は、その前の「コスモスかダリヤが咲く。」の濁音と呼応しているのだ。「コスモスかダリヤ」というのは「実景」ではなく、この詩のことばの音楽を活性化するために、わざと書かれたことばなのだ。
「ひじり坂」「反対な山」「暗い庭」。この日本語たっぷりの音。そこから脱出するための、音の飛躍。そこにどんな植物が書かれていようが、それは「視力」を楽しませるものではなく、「聴力」を楽しませるためのものなのだ。だからこそ、せせら笑いが「きこえてくる。」なのだ。「繁み」に女を隠し、女を隠すことで、それまで見たもの、コスモス、ダリヤ(ほんとうは存在しない)を隠す。そこには何かを「隠す」繁みと、その奥から聞こえてくる「音」だけがある。
そういう操作をしたあとで。
よくみると
ニワトコにもムクの気にも実が
出てもう秋の日が悲しめる。
もう一度、「視力」にもどる。そのときは、濁音は隠れてしまう。清音が、いま、ここを、いま、ここから引き剥がしてしまう。秋へ。しかも、秋の日の「悲しみ」へと。
ここには視覚と聴覚の、すばやい交錯、錯乱、乱丁がある。
あ、乱調と書くつもりが、「乱丁」か。
私は脱線してしまうが、「乱丁」の方がいいかもしれないなあ。入り乱れて、それを無意識にととのえようとする精神がかってに動く。そのときの、軽い美しさ。美しさの軽さ。--西脇のこの詩には、そういうものがある。
それは、次々に展開している。音を遊びながら。
キリコ キリコ クレー クレー
枯れたモチの大木の上にあがつて
群馬から来た木樵が白いズボンをはいて
黄色い上着を着て上から下へ
切つているところだ キリコ
アーチの投影がうつる。キリコ
バットを吸いながら首を動かして
切りつづけている。
キリコ、クレー(画家)と木樵。「キリコ」「きこり」。かけ離れたものが、ことばの、その音のなかで交錯する。出会う。「群馬」「バット」というのはほんとうかな? ほんとうは違っているかもしれないけれど、ここでも「音」が選ばれている--と私は感じる。
音優先の、ことばの動き。それは、まだまだつづく。
おりてもらって
二人は樹から樹へと皮の模様
をつかつて永遠のアーキタイプをさがした。
会話に終りたくない。
彼はまた四十五度にまがつている
古木へのぼつていつた。
手をかざして野ばらの実のようなペンキを塗つた
ガスタンクの向うにコーバルト色の
鯨をみたのか
アナバースの中のように
海 海 海
群馬のアテネ人は叫んだ
彼のためにランチを用意した
ヤマメのてんぷらにマスカテルに
イチジクにコーヒーに
この朽ちた木とノコギリのために--。
いま、ここにある風景と、いま、ここにない風景が音のなかで出会い、動く。衝突のたびに、「永遠」がきらめく。永遠とは、不可能、あるいは、不在そのものかもしれないが、そういう意識を笑うように、最後にあらわれる「ノコギリ」。
あ、その音のなかに「キリコ」がいて「木樵(きこり)」がいる。まるで、「ノコギリ」というのは、「キリコ」と「きこり」「の・コギリ」みたい。「の」というのは「助詞」です、はい。
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