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最果タヒ『恋人はせーので光る』(リトルモア、2019年09月07日発行)
最果タヒ『恋人はせーので光る』。文字が小さいので、私のように目の悪い人間には読むのがかなりむずかしい。途中まで読んで、一休み。その一休みに、少し感想を書いてみる。
巻頭に「果物ナイフの詩」。横書き。
人を傷つけるとき、ぼくにはどうしようもな
く美しくなる部分が心にあって、嫌いにはな
れない。
この書き出しはとても魅力的だ。人を傷つけるときの「自覚」を書いているのだが、人を傷つけると「美しくなる」、だから人を傷つけることを「嫌い」になられない。
魅力の一つは、人を傷つけることを「美しい」と「嫌い」という「感情」のことばでとらえていることである。「感情」はどうしようもないものである。抑制できない。自然に生まれてくる。この自然さを肯定するというのは最果の思想であり、とくに新しいことを書いているとは思えない。
でも、私は、ここにひきつけられた。
なぜだろう。
もう一度読み直す。(詩のスタイルを無視して、一文にして、読み直す。)
人を傷つけるとき、ぼくにはどうしようもなく美しくなる部分が心にあって、嫌いにはなれない。
「心」ということばが、そこにある。私は、この「心」が気になった、そこにつまずいたのだとわかる。これが、この詩のキーワード、必要不可欠なことばだと思う。ただし、「必要不可欠」とはいっても、それは最果にとって必要不可欠なのであり、私には必要不可欠とはいえない。
言いなおすと。この一行を、私は、最初、
人を傷つけるとき、ぼくにはどうしようもなく美しくなり、(人を傷つけることを/あるいは、ぼく自身を)嫌いにはなれない。
と読みとばしている。そういう「意味」でつかみとっている。言い換えると、私なら、そう書いてしまう、ということだ。
でも、最果は、私のつかみとった「意味」以外のことを書いている。何かが「意味」の奥からあらわれてくる。
「部分」と「心」と「ある」。
あ、ここがポイントなのだと気づく。
「心」というものが「ある」かどうか、私にはよくわからない。何よりも「ある」としたら、「どこに」あるのか、それがわからない。それで、私は、わからないことは避けるようにしてことばを読んでしまう。
でも、読み直すと違ってくる。
最果は「心」というものに「部分」というものも「ある」ととらえていることがわかる。そこにも私はつまずき、「そうか」と思うのである。しかし、この「そうか」は、それ以上ことばにはならない。「そうか、最果は心というものをことばにしたいのだ」と気づいた、と言いなおせる。
でも、それはどんなもの? どこにある?
最果は、「心」をどんなふうに言いなおしているか。
言葉は人を殺せるし(当たり前だ)、
呼吸も、影も存在も人を殺すことができる。
それを、鋭くしてはいけない、木の鞘におさ
めるようにそっと、ぼくはそれらを肉体で包
んで、慎重に生きるだけだ。誠実や、愛と呼
ぶな、これは低く呻くように続くぼくの怒り
として、祈りとして、震えている。だれも、
誰かを傷つけずに、生きてくれ。
「言葉」が最初に登場する。「言葉は人を殺せる」は「心は人を殺せる」と言いなおしても「意味」はかわらないと思う。「言葉は」は「言葉で」であり、「心は」は「心で」でもあるのか。
「呼吸」「影」「存在」と、「言葉」ほど簡単には「心」とは入れ替えられない。入れ替えたときに「意味」になるかどうかわからない。それは「比喩」にとどまっている。抽象になっていない。そこに、なまなましさがある。
それを「木の鞘で包む」と補足し、さらに「肉体で包む」と補足するとき、そこに「心」が突然復活する。
肉体で「心を」包む
私は「心」を補って読む。そうすると「意味」がすっきりする。
「心」は「肉体」のなかにあるという言い方は論理の「定型」だし、「肉体」と「心」の対比は論理の運動の「定型」である。誰もが似たようなことを言う。共有されている考え方だ。
一方、最果は「心」を「誠実」「愛」と呼ぶなとも言う。すっきりした「意味」を拒絶する。
拒絶することで、詩に向かって加速する。飛翔する。
「呻く(呻き)」「怒り」と呼びたいのだ。ととのえられない何か、と呼びたいのだ。
しかし、それはさらに「祈り」と言いなおされる。
「誠実」「愛」が「祈り」ではなく、「呻き」「怒り」が「祈り」である。しかも、しっかりと存在するものではなく、「震えている」。頼るものがない、ということかもしれない。
それが「心」であり、「心の部分」でもあるのだが、「心全体」よりも「部部としての心」の方が「ある」を強く主張している。「部分」は「個」ということかもしれない。(孤という文字をあてると、抒情になってしまう。)
その「個」は共有されにくい。だが、美しいのだ、と最果は言っている。
あ、だんだん「意味」になっていく。
この詩の感想は、ここでやめておこう。最果は「心」というものを書いていると、私は気づいたとだけ言っておく。
四分の一くらい読んだところに「人はうまれる」という作品がある。この詩も横書き。
すべてを肯定したくなるほど、朝はまぶしい、人はまぶしい、
噴水のような公園で、公園のような家族たちが、花のように揺れている、
現実のようには思えない、それはぼくがその一員ではないからで、
でも、ぼくもまた人間だから、リードなどなくても公園を歩いている、
公園のような家族の中を、歩いている。
記憶を辿るように朝を迎えて、この先すべては走馬灯。
いつから、死んでしまった者があらたな命に生まれ変わると、
ひとは思い込んだのだろう。
遡る雨のように、一人だけ生まれてくる、
未来の果てから、ぼくらに会いに。
「現実のように思えない」という、この部分だけ取り出すと、非常に散文的なことば(詩からは遠いことば)だが、私にはこの詩のなかではいちばん鋭く感じられた。そこに、やっぱりつまずいたのだ。
「現実のように思えない」なら、なんだと思うのか。「走馬灯」や「輪廻(死んでしまった者があらたな命に生まれ変わる)」か。
私は、ふいに、最初に読んだ「心」を思い出してしまう。
「現実のように思えない」、「心のように思ってしまう」のである。そして、その「心」と最果はつながっていない。「ぼくが(は)その一員ではない」からだ。逆に言えば「心」がつながれは、あらゆることが「現実」になる。
最後の二行を、私は、次のように読み替える。
遡る雨のように、「心は」一人だけ生まれてくる、
未来の果てから、ぼくらに会いに。
詩とは「こころを書くもの」と言ってしまえばそれまでだが、最果は、だれにも共有されて来なかった「心の部分」をことばにしようとしている。「一人だけ」が「部分」とつながる。呼応する。「部分」がなければ「心」にはなれない、と言っているように聞こえる。
「部分」は最果の詩のなかでは、「傷」とか「血」とかの「比喩」になって姿を見せる。「傷」「血」は美しい肉体にとても似合う。美しさを築かせてくれる「否定」である。否定されるものがあって、その反動で美しさが生まれるという「論理」を、美しさを否定することで美しさが生まれるのなら、美しさを否定したものの中にこそ、ことばにならない美しさがあるからだと言いなおすこともできるだろう。
しかし、私の、こういう面倒くさい感想は、最果の読者には関係がないことだろうなあ。
*
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