詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(30)

2015-05-29 09:08:55 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(30)(思潮社、2015年04月30日発行)


放課後

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている
校庭に男女の生徒たちが静止(フリーズ)している
少年には瞬間の奥行きが見えているのだが
そこに何がひそんでいるかは知らない

ここに生まれてきて十数年
まだ青空も白い雲も少女たちも新鮮だ
少年は世界がここにあることが不思議で
平気で生きている人々になじめない

これからどうなるのだろうと考えると
すべてがまた激しく動き始める
和音に乗って旋律がからだに入ってくる
明日を畏れることから今日が始まる

 詩はつづけて読むものではない。しかし、読んでいると、いままでに読んだ詩を思い出してしまう。この「放課後」は、これまで「三つ目の章」で読んできた作品と趣が違う。詩を拒絶する「女(娘)」が出てこない。かわりに「少年」が出てくる。そしてその「少年」は

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている

 という不思議な言い方で表現されている。「詩」が「少年」、「詩」なのに「言葉を待っている」。しかし読むと、意識は「文法」通りには動いてくれない。少年が窓際にいる。少年は言葉を待っている。少年は言葉(思っていること/感じていること)が詩になるのを待っている。その姿が「詩」のように見える。そんなふうに「詩」と「少年」がいれかわる。どちらがどちらの「比喩」なのか、区別がつかない。 
 少年が感じている「詩」は「瞬間の奥行き」と言いなおされている。そしてそれはさらに「ひそんでいる」何か、と言いなおされている。「見えている」が「知らない」と矛盾した形で表現されている。この矛盾は「詩」と「少年」の、互いが互いの「比喩」である関係に似ている。「瞬間奥行き」をどう言いなおしていいのか「知らない」が、その「奥行き」のなかに何かがひそんでいるのが「見える」。
 この「奥」と「ひそんでいる」は「詩よ」に出てきたことばを思い出させる。

まばらな木立の奥で野生の詩は
じっと身をひそめている

 「野生の詩」とは、まだひとのあいだに流布していない詩であり、言い換えると「詩」になっていないことば、「未生の詩」とも言い換えられるだろう。
 この一連目を書いているのは谷川であり、谷川は「窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている」のを見ている、と読むのが一般的な読み方だと思う。書かれてはないが「主語」は「谷川」であり、それを補って読むのが自然だと思う。
 しかし、二連目以下はどうだろう。

ここに生まれてきて十数年

 「十数年」は「少年」の年齢と重なる。「主語」が二連目で「少年」にかわってしまっている。一連目の「少年」は谷川の記憶にある自分自身の姿で、二連目では記憶の少年にもどってことばを動かしている、ということかもしれない。しかし、そうすると「まだ青空も白い雲も少女たちも新鮮だ」の「まだ」が不自然だ。「まだ」はあくまで「少年」ではない谷川が感じる「事実(現在との比較)」であって、「少年」にはそれが「まだ」とは言えない。谷川は十代の「少年」にもどりながら、同時に「現在の谷川(八十代)」でもある。一連目で「少年」と「詩」の区別がつかなかったように、二連目では「少年」と「現在の谷川」が入れ代わり可能の状態でまじっている。
 この二連目では「詩」は、どう書かれているだろうか。言いなおされているだろうか。「世界がここにあることが不思議」と書かれている。「不思議」とは、ことばではっきり説明できない、論理的な形で言えないということと重なる。少年には、それが不思議なのだが、人々はそうではないように少年には見える。そして「平気で生きている人々になじめない」と感じる。この「平気で生きているひと」の「平気」を言いなおすと、「ひそんでいるもに気づかない」ということになるかもしれない。人々は「世界」の「奥」に「ひそんでいる」何かが見えない。何かが「ひそんでいる」ことを知らない。たとえば「野生(の詩)」のような強い力をもったものが。だから「平気」。
 そう読んでくると、ここでやっと「詩に無関心なひと」が登場する。「小景」「二人」「同人」に登場した女のように詩に対して冷淡であったり拒絶するわけではないが、詩から離れている人々がいる。
 三連目。「これからどうなるのだろうと考える」は、「少年」が自分の人生の不安を考えていると読むこともできる。また谷川が、詩はこれからどうなるのだろうと考えていると読むことができる。さらに「少年」が詩はどうなるのだろう(瞬間の奥行きにひそんでいる何かはどうなるのだろう)と読むことができる。「少年」と「谷川」は融合して、ひとつになっているのだから。
 詩がどうなるか、その答えよりも、私はその問いの周辺で動いていることばが、とてもおもしろいと思った。
 「これからどうなるのだろうと考える」と谷川は「考える」ということばをつかっている。「胡瓜」のなかで「胡瓜をスライスしながら娘は考える」と書いたときの「考える」と同じことば。
 「考える」とは自分のことばを動かすということだった。
 三連目では「考えると/すべてがまた激しく動き始める」と書かれている。この「動き始める」は一連目の「生徒たちが静止している」と「対」になっている。だから「すべて」とは「意味」上は校庭にいる生徒になるのだが、その見えている「世界(のなかの存在)」であるだけではなく、それを把握することばそのものが動き始めるのである。
 「考える」という行為をとおして自分のことばを動かすと、自分以外のことば、世界の奥にひそんでいたことばが動き始める。このときの「世界/ことば」の変化の表現が、とても谷川らしい。

和音に乗って旋律がからだに入ってくる

 「和音」という音楽用語がつかわれている。「旋律」ということばもある。ことばが動くとき、そこに「音楽」がある。谷川のことばと他人のことばが響きあい、「和音」になり「旋律」になる。それが「からだの外」で起きる現象ではなく「からだ」のなかで起きる。「旋律がからだに入ってくる」。
 一連目の一行目で書かれていた「言葉を待っている」とは「言葉がからだに入ってくるのを待っている」だったのだ。そこから世界が始まる。世界が動く。
 「明日を畏れる」とは「未知を畏れる」(ひそんでいる何かを畏れる)であり、「未生のことば」を「畏れる」でもある。
 「他人の言葉」が「からだに入ってきて」、谷川自身のことばと結びつき、新しいことばとなって誕生する、谷川の「未生のことば」が他人のことばによって授精し、胎児になり、生まれてくる--それが詩であるということか。
 こんなふうに考えると、谷川は「定型のことば」を頻繁につかう理由もよくわかる。「定型表現」をとおして谷川は「他人のことば」と出会うのだ。「他人のことば(定型)」のなかに生き続けている力(ひそんでいる力)を借りて、詩を「妊娠」するのである。
 「畏れる」は「ありがたく思う」「大切にする」ということでもある。

 この作品は、十代の谷川が詩に出会ったときの「瞬間」を、正直に書いたものなのだ、きっと。「ことば」が「音楽」となって「からだに入ってきて」、ことばとなって出て行く。そのとき、そこに詩がある。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社


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