詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(72)

2015-05-29 09:41:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(72)

119 炎の垣

自分の内部から満ち溢れるものに
自ら溺れることがある
生のはるか遠い水平線に鐘の音をききながら
いくたびとなく岸に泳ぎつこうとする

 「炎の垣」というタイトルだが、始まりは「炎」ではなく「水」から始まっている。「満ちあふれるもの」は「水」とは限らないが、「水平線」ということばと結びつくとどうしても「水」を連想する。
 この「炎」と「水」の「対立するもの」の組み合わせのように、何か不思議なものがこの詩のなかに動いている。
 四行目の「岸」というのは、どこにあるのか。「遠い水平線」の向こう側か。「内部から満ちあふれるもの」といっしょに「自分」から溢れ出て、どこにあるかわからない「岸」を目指して泳ぐのか。あるいは溢れ出たあと、遠い水平線に背を向けて、自分のいた「岸」を目指してもどるのか。
 この四行だけでは、前者に見える。
 しかし、五行目、

青春はこのようにして疲れてて外心円を狭めるのだろう

 を読むと、水平線のむこうにある「岸」にあこがれたけれど、たどりつけず自分のいた岸にもどってきたように読める。自分から出て、どこまで遠くへゆける。試みながら挫折し、自分の行動範囲の限界を知る。この「敗北感」が「青春」か。
 この「敗北」のイメージを、嵯峨は「炎」で言いなおしている。「水」を「炎」で言いなおすのは、なんとも不思議な矛盾だが、それが不思議であるがゆえに、「真実」なのだと感じる。「水」では言い表すことのできないもの、「敗北」しながらも、それを輝かせるためには「炎」がいる。この、激しい思いこそが「青春」だ。

たつたひとりいるところですべてが消尽されるのだ
せいいつぱいの高さで火を燃やして
その炎の垣のなかで若者は路を見失なう

 「炎」に「おぼれる」。「溢れ出ていく」のではなく、「炎の高さ」を目指す。「水平」から「垂直(上昇)」へ、動きの向きが変化し、変化することだ詩の世界が立体的になっている。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社


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