嵯峨信之を読む(72)
119 炎の垣
「炎の垣」というタイトルだが、始まりは「炎」ではなく「水」から始まっている。「満ちあふれるもの」は「水」とは限らないが、「水平線」ということばと結びつくとどうしても「水」を連想する。
この「炎」と「水」の「対立するもの」の組み合わせのように、何か不思議なものがこの詩のなかに動いている。
四行目の「岸」というのは、どこにあるのか。「遠い水平線」の向こう側か。「内部から満ちあふれるもの」といっしょに「自分」から溢れ出て、どこにあるかわからない「岸」を目指して泳ぐのか。あるいは溢れ出たあと、遠い水平線に背を向けて、自分のいた「岸」を目指してもどるのか。
この四行だけでは、前者に見える。
しかし、五行目、
を読むと、水平線のむこうにある「岸」にあこがれたけれど、たどりつけず自分のいた岸にもどってきたように読める。自分から出て、どこまで遠くへゆける。試みながら挫折し、自分の行動範囲の限界を知る。この「敗北感」が「青春」か。
この「敗北」のイメージを、嵯峨は「炎」で言いなおしている。「水」を「炎」で言いなおすのは、なんとも不思議な矛盾だが、それが不思議であるがゆえに、「真実」なのだと感じる。「水」では言い表すことのできないもの、「敗北」しながらも、それを輝かせるためには「炎」がいる。この、激しい思いこそが「青春」だ。
「炎」に「おぼれる」。「溢れ出ていく」のではなく、「炎の高さ」を目指す。「水平」から「垂直(上昇)」へ、動きの向きが変化し、変化することだ詩の世界が立体的になっている。
119 炎の垣
自分の内部から満ち溢れるものに
自ら溺れることがある
生のはるか遠い水平線に鐘の音をききながら
いくたびとなく岸に泳ぎつこうとする
「炎の垣」というタイトルだが、始まりは「炎」ではなく「水」から始まっている。「満ちあふれるもの」は「水」とは限らないが、「水平線」ということばと結びつくとどうしても「水」を連想する。
この「炎」と「水」の「対立するもの」の組み合わせのように、何か不思議なものがこの詩のなかに動いている。
四行目の「岸」というのは、どこにあるのか。「遠い水平線」の向こう側か。「内部から満ちあふれるもの」といっしょに「自分」から溢れ出て、どこにあるかわからない「岸」を目指して泳ぐのか。あるいは溢れ出たあと、遠い水平線に背を向けて、自分のいた「岸」を目指してもどるのか。
この四行だけでは、前者に見える。
しかし、五行目、
青春はこのようにして疲れてて外心円を狭めるのだろう
を読むと、水平線のむこうにある「岸」にあこがれたけれど、たどりつけず自分のいた岸にもどってきたように読める。自分から出て、どこまで遠くへゆける。試みながら挫折し、自分の行動範囲の限界を知る。この「敗北感」が「青春」か。
この「敗北」のイメージを、嵯峨は「炎」で言いなおしている。「水」を「炎」で言いなおすのは、なんとも不思議な矛盾だが、それが不思議であるがゆえに、「真実」なのだと感じる。「水」では言い表すことのできないもの、「敗北」しながらも、それを輝かせるためには「炎」がいる。この、激しい思いこそが「青春」だ。
たつたひとりいるところですべてが消尽されるのだ
せいいつぱいの高さで火を燃やして
その炎の垣のなかで若者は路を見失なう
「炎」に「おぼれる」。「溢れ出ていく」のではなく、「炎の高さ」を目指す。「水平」から「垂直(上昇)」へ、動きの向きが変化し、変化することだ詩の世界が立体的になっている。
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