「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)(2017年05月20日)
39 *(砂の上に文字を書いては消し)
文字を書いては消す。そのたびにこころが動く。「ゆき、かえる」という往復の動詞でとらえているのだが、最後に「残る」「たち去る」という動詞に変わる。
「去る」は「行く」か。
「行く」は「帰る」と対になるが、対であることを拒絶するのが「去る」なのだろう。そして、「去る」は「残る」という対を要求する。
あるいは逆か。「行く」「帰る」という果のない運動のなかで生まれる「不安」が「残る」を誘い出し、それがさらに「去る」を誘い出すのか。
動詞が微妙に動いている。
「残る」のは「心」をなくした「肉体」か、それとも「去っていった心」を思う「心」か。
40 白あじさい
「白」が繰り返されることで、さらに「白く」なる。違ったものが、同じ何かによって、さらに強くなる。深くなる。
「行く」「帰る」の往復運動と、「残る」「去る」の永遠を思う。
いくつかのことばが動き、そのあと、
このときの「言葉」は「白」そのもの。「白」のなかを別の「白」が過ぎてゆく。そうすることで、それぞれの「白」がさらに「白く」なる。
「白」ではなく、「なる」という「動詞」がそこにある。あるいは、生まれてくるのか。「過ぎていつた」を「去つていつた」と読み替えたい。
誤読したい。
だが、どう「誤読」していいのか、明確なことばにならない。この瞬間「言葉のあわただしい夜」の「あわただしい」が生々しく迫ってくる。
「あわただしい/あわただしく」しか、わからない。いや、「あわただしい/あわただしく」が「肉体」としてわかってしまう。
「白」と「白」。繰り返されるとき、無数に生まれ、去っていく「白」がある。
39 *(砂の上に文字を書いては消し)
書くことと 消すことのあいだをゆきかえるぼくの心は
いつまでぼくに残るか
もし ぼくから去つていくなら何処へたち去るか
文字を書いては消す。そのたびにこころが動く。「ゆき、かえる」という往復の動詞でとらえているのだが、最後に「残る」「たち去る」という動詞に変わる。
「去る」は「行く」か。
「行く」は「帰る」と対になるが、対であることを拒絶するのが「去る」なのだろう。そして、「去る」は「残る」という対を要求する。
あるいは逆か。「行く」「帰る」という果のない運動のなかで生まれる「不安」が「残る」を誘い出し、それがさらに「去る」を誘い出すのか。
動詞が微妙に動いている。
「残る」のは「心」をなくした「肉体」か、それとも「去っていった心」を思う「心」か。
40 白あじさい
深夜
白磁の壺の中に一茎の白あじさいの花がさしてある
「白」が繰り返されることで、さらに「白く」なる。違ったものが、同じ何かによって、さらに強くなる。深くなる。
「行く」「帰る」の往復運動と、「残る」「去る」の永遠を思う。
いくつかのことばが動き、そのあと、
それらの言葉のなかを何かが過ぎていつた
言葉のあわただしい夜の上を
このときの「言葉」は「白」そのもの。「白」のなかを別の「白」が過ぎてゆく。そうすることで、それぞれの「白」がさらに「白く」なる。
「白」ではなく、「なる」という「動詞」がそこにある。あるいは、生まれてくるのか。「過ぎていつた」を「去つていつた」と読み替えたい。
誤読したい。
だが、どう「誤読」していいのか、明確なことばにならない。この瞬間「言葉のあわただしい夜」の「あわただしい」が生々しく迫ってくる。
「あわただしい/あわただしく」しか、わからない。いや、「あわただしい/あわただしく」が「肉体」としてわかってしまう。
「白」と「白」。繰り返されるとき、無数に生まれ、去っていく「白」がある。
嵯峨信之全詩集 | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |