谷川俊太郎『詩に就いて』(28)(思潮社、2015年04月30日発行)
「三つ目の章」の詩は手ごわい。ことばをつなぐ「論理」があるのか、ないのか、よくわからない。
「詩」とは「無関係」な女が出てくるという点では、この作品は「小景」「二人」に似ている。しかし、違う。この作品の「娘」は「初めて詩というものに触れた」。
「一つ目の章」では「詩に就いての総論」、「二つ目の章」では「詩とことばの関係」、「三つ目の章」では「詩を認めないひとと詩の関係」が書かれているのだろうか。
書き出しの「希望/絶望」の「対」の描き方は、かけ離れたものをことばでつなぐことで、ことばが活性化するという「詩の定型」を踏まえている。「急行」というのは、もう遠距離を結ぶ電車/列車にはないかもしれない。でも「特急」では急ぎすぎていて「詩の定型」から外れてしまうかもしれない。だから、この「急行」ということばの選び方も「詩の定型」といえるかもしれない。
おもしろいのは、詩に初めて触れた娘の反応。
「偽善」とは何だろう。
娘は詩をつまらない(わからない)と感じ、それ以上ことばにはつきあわなかった。夕食の支度に忙しかった。ことばよりも現実の方が大事だったということか。そうならば娘は「正直」なのである。「わからない(つまらない)」ものを「わかったふり」で受け入れなかったということ。
ここで「偽善」ということばが出てくるのは、谷川が「詩がわかる」というひとを「偽善者」と見ているということだろうか。「わからない/つまらない」のが詩なのに、と思っているのかな?
「偽善」の意味というよりも、「つかい方」が、よくわからない。
つまらなさ(わからなさ)を、二連目で、娘は言いなおしている。
娘は詩を「定義」して「大切な<how to live >という命題」に「関わる」ものと言っている。夕食をつくる娘にとって「胡瓜」はどうやって刻むかということが問題だ。どの大きさなら母親が食べやすいか。それは「知識」とも「直観」とも関係ないなあ。
この作品では、谷川は「娘」になって、詩と向き合っている。
どうやって生きるか、どうやっていのちをととのえるか、そういうことと無関係なことばの運動というものなどに「耐えて」つきあう必要はない。
こういう読み方でいいのか……。
どう読んでいいのか、私にはよくわからないが、この詩のなかで私が関心をもったのは、「偽善であるとはさらさら思わずに」と「胡瓜をスライスしながら娘は考える」の「思う」と「考える」の違いである。
「思う」と「考える」は似たことばだが、微妙に違う。娘は「思う」から「考える」へとことばの動かし方を変えている。
最初(一連目)では「詩(書かれていることば)はつまらない」と「思った」。二連目では、「詩(書かれていることば)」が人生の命題とどう関わるのか、それを自分の問題として動かしている。
「詩(書かれたことば)」は他人のもの(詩人のもの)だが、それを読んだ瞬間から他人のもの(詩人のもの)ではなくなる。自分の「ことば」として向き合わなければならない。そのことばをどう動かしていくか。自分のことばを実際に動かすことが「考える」。ことばと「考え」を一致させるために、両方をととのえるのが「考える」。「思う」は「間が刈る」ほどには、ことばを動かさない。一致かなくてもいい状態、ことばになりきれないものを含んでいる状態が「思う」ということだろうか。
ここには明確な形で肯定も否定も書かれていないが、私には、谷川が娘の態度を肯定しいるように感じられる。
少なくとも娘は「言葉」で何かを「でっちあげ」ようとはしていない。存在しないものを作り上げるのではなく、存在していることをことばでとらえなおそうとしている。存在とことばをかかわらせようとしている。「考える」ということをしている。
胡瓜をスライスすることは、ことばとしてととのえられていないありふれた行為だが、そのことばになっていない(ことばにする必要がない)ことのなかに、ほんとうはことばが動いている。「思う」ともまた違うことばの動きがある。ことばは「肉体」そのものとなって、そこにある。胡瓜をスライスするときの、ととのえられた「肉体」の動きは、「肉体の考え」である。「肉体」が「考えている」。「動き」をととのえて、いまの動かし方になっている。そのとき、包丁もまな板も、そして娘の手も、きっと詩なのだ。胡瓜をスライスする「肉体の詩」なのだ。「胡瓜という存在を/知識ではなく直観で捉える」というかわりに、「肉体」のなかに鍛えてきた「動き」そのものを動かしている。そこには「偽善」はない。「いつわり」がない。「正直」がある。正直な「考え方(考える力)」、習い、学びとった「力」がある。
この胡瓜をスライスする娘の「肉体の詩」に比べると、「同人」に出てきた「詩を言葉から解放したい」「あれが詩よ 書かなくていいのよ」は、「詩の真実」を語っているようで、「偽り」かもしれない。詩人は「偽り」をいう人間のことかもしれない。
胡瓜
希望から絶望までの荒れ野を
詩人たちは思い思いに旅していた
中には絶望駅から希望駅行きの急行に
身一つで飛び乗る奴もいて
駅に着いたらポケットから詩を取り出して
街頭で売ったりしている
それを買ったお人よしの娘は
初めて詩というものに触れたものだから
そのつまらなさに耐えることを
偽善であるとはさらさら思わずに
惚けた母の夕食の支度に忙しい
胡瓜をスライスしながら娘は考える
詩人たちは胡瓜という存在を
知識ではなく直観で捉えるというが
そんなことが可能なのだろうか
大切な<how to live >という命題と
それはどう関わることになるのだろうか
詩を売った奴はそんなこと我関せずで
紙と鉛筆の領地を我がもの顔で歩き回り
昨日と明日の谷間の今日
道路で騒いでいる子供らの心を
弾む言葉ででっちあげている
「三つ目の章」の詩は手ごわい。ことばをつなぐ「論理」があるのか、ないのか、よくわからない。
「詩」とは「無関係」な女が出てくるという点では、この作品は「小景」「二人」に似ている。しかし、違う。この作品の「娘」は「初めて詩というものに触れた」。
「一つ目の章」では「詩に就いての総論」、「二つ目の章」では「詩とことばの関係」、「三つ目の章」では「詩を認めないひとと詩の関係」が書かれているのだろうか。
書き出しの「希望/絶望」の「対」の描き方は、かけ離れたものをことばでつなぐことで、ことばが活性化するという「詩の定型」を踏まえている。「急行」というのは、もう遠距離を結ぶ電車/列車にはないかもしれない。でも「特急」では急ぎすぎていて「詩の定型」から外れてしまうかもしれない。だから、この「急行」ということばの選び方も「詩の定型」といえるかもしれない。
おもしろいのは、詩に初めて触れた娘の反応。
そのつまらなさに耐えることを
偽善であるとはさらさら思わずに
惚けた母の夕食の支度に忙しい
「偽善」とは何だろう。
娘は詩をつまらない(わからない)と感じ、それ以上ことばにはつきあわなかった。夕食の支度に忙しかった。ことばよりも現実の方が大事だったということか。そうならば娘は「正直」なのである。「わからない(つまらない)」ものを「わかったふり」で受け入れなかったということ。
ここで「偽善」ということばが出てくるのは、谷川が「詩がわかる」というひとを「偽善者」と見ているということだろうか。「わからない/つまらない」のが詩なのに、と思っているのかな?
「偽善」の意味というよりも、「つかい方」が、よくわからない。
つまらなさ(わからなさ)を、二連目で、娘は言いなおしている。
胡瓜をスライスしながら娘は考える
詩人たちは胡瓜という存在を
知識ではなく直観で捉えるというが
そんなことが可能なのだろうか
大切な<how to live >という命題と
それはどう関わることになるのだろうか
娘は詩を「定義」して「大切な<how to live >という命題」に「関わる」ものと言っている。夕食をつくる娘にとって「胡瓜」はどうやって刻むかということが問題だ。どの大きさなら母親が食べやすいか。それは「知識」とも「直観」とも関係ないなあ。
この作品では、谷川は「娘」になって、詩と向き合っている。
どうやって生きるか、どうやっていのちをととのえるか、そういうことと無関係なことばの運動というものなどに「耐えて」つきあう必要はない。
こういう読み方でいいのか……。
どう読んでいいのか、私にはよくわからないが、この詩のなかで私が関心をもったのは、「偽善であるとはさらさら思わずに」と「胡瓜をスライスしながら娘は考える」の「思う」と「考える」の違いである。
「思う」と「考える」は似たことばだが、微妙に違う。娘は「思う」から「考える」へとことばの動かし方を変えている。
最初(一連目)では「詩(書かれていることば)はつまらない」と「思った」。二連目では、「詩(書かれていることば)」が人生の命題とどう関わるのか、それを自分の問題として動かしている。
「詩(書かれたことば)」は他人のもの(詩人のもの)だが、それを読んだ瞬間から他人のもの(詩人のもの)ではなくなる。自分の「ことば」として向き合わなければならない。そのことばをどう動かしていくか。自分のことばを実際に動かすことが「考える」。ことばと「考え」を一致させるために、両方をととのえるのが「考える」。「思う」は「間が刈る」ほどには、ことばを動かさない。一致かなくてもいい状態、ことばになりきれないものを含んでいる状態が「思う」ということだろうか。
ここには明確な形で肯定も否定も書かれていないが、私には、谷川が娘の態度を肯定しいるように感じられる。
少なくとも娘は「言葉」で何かを「でっちあげ」ようとはしていない。存在しないものを作り上げるのではなく、存在していることをことばでとらえなおそうとしている。存在とことばをかかわらせようとしている。「考える」ということをしている。
胡瓜をスライスすることは、ことばとしてととのえられていないありふれた行為だが、そのことばになっていない(ことばにする必要がない)ことのなかに、ほんとうはことばが動いている。「思う」ともまた違うことばの動きがある。ことばは「肉体」そのものとなって、そこにある。胡瓜をスライスするときの、ととのえられた「肉体」の動きは、「肉体の考え」である。「肉体」が「考えている」。「動き」をととのえて、いまの動かし方になっている。そのとき、包丁もまな板も、そして娘の手も、きっと詩なのだ。胡瓜をスライスする「肉体の詩」なのだ。「胡瓜という存在を/知識ではなく直観で捉える」というかわりに、「肉体」のなかに鍛えてきた「動き」そのものを動かしている。そこには「偽善」はない。「いつわり」がない。「正直」がある。正直な「考え方(考える力)」、習い、学びとった「力」がある。
この胡瓜をスライスする娘の「肉体の詩」に比べると、「同人」に出てきた「詩を言葉から解放したい」「あれが詩よ 書かなくていいのよ」は、「詩の真実」を語っているようで、「偽り」かもしれない。詩人は「偽り」をいう人間のことかもしれない。
詩に就いて | |
谷川 俊太郎 | |
思潮社 |