安田有「日々成長」(「LEIDEN雷電」3、2013年02月05日発行)
「誤読」の楽しみ--というものに、私はとりつかれている。「誤読」すると、そこに書かれていることがとても楽しくなる。
安田有「日々成長」は「誤読」しようがないような簡単・明瞭(?)な詩である。
子どもがとってきたおたまじゃくしが大きくなった。知らないうちに数も増えた。そういう詩である。「子ども」というのは安田の子どもである。--これはだれが読んでもそう思う。そして、私もそう思って読んでいたのだが。
この詩の最後がちょっとおもしろくて。
この最後の部分に対して感想を書こうと思って詩を読み返していたら。
あら、「誤読」してしまう。
1連目の「子ども」が安田の子どもではなく、トノサマガエルの子どもになってしまう。なぜだか、トノサマカエルの子ども(?)がおたまじゃくしを掬ってきた--という具合に感じてしまう。そんなことは現実にはありえないのだけれど、そう思ってしまって、それでこの詩がよけいに楽しくなる。
なぜこんな「誤読」をしてしまうかというと、最後の連に関係している。
というのは、安田の視点なのだが、どうも私はそれが安田の「肉体」ではなく、トノサマカエルの「肉体」、いやトノサマカエルが子どもだったときの、つまりおたまじゃくしだったときの「肉体」をくぐりぬけたことばに思えるからである。
金魚におしりをつつかれたことを安田の「肉体」は覚えているはずがない。安田は人間なのだから。それを覚えているのはおたまじゃくしだったことがあるトノサマカエルだけである。
で、私は、無邪気に泳いでいるおたまじゃくしを見ながら、トノサマカエルが「金魚に尻尾をつつかれないように、ね」と言っていると感じたのだ。
これは「非現実的」なことだから、せいぜいが、安田がトノサマカエルになって、そう言っているというのが、ぎりぎりの「読み方」なのだろうけれど。
私はなぜか、その「ぎりぎり」を越えてしまう。
そんなふうに安田が思ったとき、安田の「肉体」は人間の肉体ではなく、おたまじゃくしの「肉体」になっている。おたまじゃくしの「肉体」を共有している。それだけではなく、トノサマカエルの「肉体が覚えていること」も共有している。--人間の「肉体」よりもトノサマカエル、おたまじゃくしとつながる「肉体」の方が多くなって(?)、強くなって(?)安田の人間の肉体を超えてしまう。
この不思議なトノサマカエルとおたまじゃくしの肉体の感じ、その肉体が覚えていることをくぐりぬけてしまうと、そこにはもう「人間」は必要がない。
で、読み返したとき1連目の「子ども」を私はトノサマカエルの子どもと思ってしまったのだ。そしてさらに楽しくなったのだ。
でも、トノサマカエルの子ども(といっても、おたまじゃくしではなく、カエルになって成長したちびカエル)は、なぜ、おたまじゃくしなんか掬ってくる?
なぜ? それが問題。
そうなんです。子どものカエルはお父さん(たぶん)が「独り身」でやせていることが心配だった。自分を育ててくれるお父さんが、やせていて、独り身であるということが心配だった。子どもはきっとオスだね。
だから、おたまじゃくしを掬ってきた。おたまじゃくしがおとなになって、お母さんになって、お父さんと結婚して(あ、順序が逆か)、子どもがたくさん生まれて、賑やかになればいいなあ、そう思ったのだ。
そんな非論理的な、童話みたいなことがあるはずがない--のだけれど、私はどうしてもそう読んでしまう。「誤読」してしまう。
「独り身のやせ蛙」という感想が安田(人間)のものだとしても、そんなふうに人間以外のものに対して、それが人間であるかのように感想を持ったときから、安田の「肉体」はカエルになっている。カエルの「肉体」を共有している。
だからこそ、そのカエルの「肉体」が、そのままおたまじゃくしの肉体ともつながり、おたまじゃくしの肉体とつながることで、トノサマカエルの「肉体」が金魚におしりをつつかれたこと(覚えていること)を思い出すのだ。
それは
としかいいようのない、おかしみである。
もうすぐ春だ。おたまじゃくしが金魚におしりをつつかれているのを見ながら「ふふふふふ」と笑ってみたいなあ、と思う。そのとき私はトノサマカエル? それとも笑われるおたまじゃくし?
「誤読」の楽しみ--というものに、私はとりつかれている。「誤読」すると、そこに書かれていることがとても楽しくなる。
安田有「日々成長」は「誤読」しようがないような簡単・明瞭(?)な詩である。
睡蓮のうえに
三年
堂々たるトノサマになった
とびこむ水の音
一匹、二匹、三匹
いつのまに増えたのか
子どもが掬ってきたおたまじゃくしはたしか一匹
小指の爪ほどの蛙となって睡蓮によじ登っていた
「ココハ……ココ…ココ」
都会のちいさい庭池に閉じられて
ずっと生きてきた
独り身のやせ蛙
(心配だった)
いつからこんな賑やかさ
子どもがとってきたおたまじゃくしが大きくなった。知らないうちに数も増えた。そういう詩である。「子ども」というのは安田の子どもである。--これはだれが読んでもそう思う。そして、私もそう思って読んでいたのだが。
この詩の最後がちょっとおもしろくて。
このまま元気でいてくれよ
いつか
あたらしいおたまじゃくし……ユラフララ
ふふふふふ
金魚に尻尾(おしり)をつつかれないように、ね
この最後の部分に対して感想を書こうと思って詩を読み返していたら。
あら、「誤読」してしまう。
1連目の「子ども」が安田の子どもではなく、トノサマガエルの子どもになってしまう。なぜだか、トノサマカエルの子ども(?)がおたまじゃくしを掬ってきた--という具合に感じてしまう。そんなことは現実にはありえないのだけれど、そう思ってしまって、それでこの詩がよけいに楽しくなる。
なぜこんな「誤読」をしてしまうかというと、最後の連に関係している。
あたらしいおたまじゃくし……ユラフララ
ふふふふふ
金魚に尻尾(おしり)をつつかれないように、ね
というのは、安田の視点なのだが、どうも私はそれが安田の「肉体」ではなく、トノサマカエルの「肉体」、いやトノサマカエルが子どもだったときの、つまりおたまじゃくしだったときの「肉体」をくぐりぬけたことばに思えるからである。
金魚におしりをつつかれたことを安田の「肉体」は覚えているはずがない。安田は人間なのだから。それを覚えているのはおたまじゃくしだったことがあるトノサマカエルだけである。
で、私は、無邪気に泳いでいるおたまじゃくしを見ながら、トノサマカエルが「金魚に尻尾をつつかれないように、ね」と言っていると感じたのだ。
これは「非現実的」なことだから、せいぜいが、安田がトノサマカエルになって、そう言っているというのが、ぎりぎりの「読み方」なのだろうけれど。
私はなぜか、その「ぎりぎり」を越えてしまう。
そんなふうに安田が思ったとき、安田の「肉体」は人間の肉体ではなく、おたまじゃくしの「肉体」になっている。おたまじゃくしの「肉体」を共有している。それだけではなく、トノサマカエルの「肉体が覚えていること」も共有している。--人間の「肉体」よりもトノサマカエル、おたまじゃくしとつながる「肉体」の方が多くなって(?)、強くなって(?)安田の人間の肉体を超えてしまう。
この不思議なトノサマカエルとおたまじゃくしの肉体の感じ、その肉体が覚えていることをくぐりぬけてしまうと、そこにはもう「人間」は必要がない。
で、読み返したとき1連目の「子ども」を私はトノサマカエルの子どもと思ってしまったのだ。そしてさらに楽しくなったのだ。
でも、トノサマカエルの子ども(といっても、おたまじゃくしではなく、カエルになって成長したちびカエル)は、なぜ、おたまじゃくしなんか掬ってくる?
なぜ? それが問題。
独り身のやせカエル
(心配だった)
そうなんです。子どものカエルはお父さん(たぶん)が「独り身」でやせていることが心配だった。自分を育ててくれるお父さんが、やせていて、独り身であるということが心配だった。子どもはきっとオスだね。
だから、おたまじゃくしを掬ってきた。おたまじゃくしがおとなになって、お母さんになって、お父さんと結婚して(あ、順序が逆か)、子どもがたくさん生まれて、賑やかになればいいなあ、そう思ったのだ。
そんな非論理的な、童話みたいなことがあるはずがない--のだけれど、私はどうしてもそう読んでしまう。「誤読」してしまう。
「独り身のやせ蛙」という感想が安田(人間)のものだとしても、そんなふうに人間以外のものに対して、それが人間であるかのように感想を持ったときから、安田の「肉体」はカエルになっている。カエルの「肉体」を共有している。
だからこそ、そのカエルの「肉体」が、そのままおたまじゃくしの肉体ともつながり、おたまじゃくしの肉体とつながることで、トノサマカエルの「肉体」が金魚におしりをつつかれたこと(覚えていること)を思い出すのだ。
それは
ふふふふふ
としかいいようのない、おかしみである。
もうすぐ春だ。おたまじゃくしが金魚におしりをつつかれているのを見ながら「ふふふふふ」と笑ってみたいなあ、と思う。そのとき私はトノサマカエル? それとも笑われるおたまじゃくし?
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