詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「果実酒」

2014-09-29 09:07:58 | 現代詩講座
田島安江「果実酒」(「現代詩講座@リードカフェ、2014年08月20日)

 今回話題になったのは、田島安江「果実酒」。

果実酒 田島安江

瓶に詰めると日を追うごとに
トロリと甘くなる
果物から酒に変わる瞬間はなかなか見えない
ただその一瞬を境に
甘さがやわらぎトロリと溶けてくる
ちょうどよい飲みごろは一瞬にして去るから
空の向こうの遠い場所で雷が鳴ったときとか
傘をさして角を曲がった人の目線の先とか
絵の中に寝転ぶ黒猫が知っている
ということだってあるかもしれないから

空はずっと灰色で
耳をがりっとかじる音が響いて
おおいつくした影から送り込まれる霧の
霧の中から立ちあがるやわらかい湯気の
セーラー服を着た古い少女の写真からも
ぱちんと缶ビールを開けた指先ににじむ血のあとも
いつだって予感はあるのに
酒に変わる一瞬を
ローソンの灯りに吸い寄せられていく蛾でさえ
その一瞬を知っているのに
トロリと甘くなる一瞬の
その予感に打ちのめされて
ちょうどよい飲みごろをのがした
雨の多いこの8 月

 話題にはなったが、そのときの話題になり方(?)が少しブレがあるように感じた。「甘ったるい感じが、書けそうで書けない。おもしろい」「田島さんらしくない。時間をとらえようとしている」「2連目の耳は猫の耳?」「2連目のがりっとかじる音がわからない」というようなことろからはじまったのだが、受講生によって詩の見え方がずいぶん違う印象があったので、いくつかの質問をしてみた。

<質問>  果実酒の「果実」はなんだと思う? 何を想像して読んだ?
<受講生1>洋梨
<受講生2>黄色かゴールデンの柑橘類
<受講生3>赤。イチゴとか、ザクロ。
<受講生4>トロピカルなもの。パパイヤとか。
田島    晩夏のある一瞬。

 えっ、作者の言っているのは「果実」ではないね。
 だから印象も違うのか。最初にひとりが言った感想の「甘ったるい感じ」は「晩夏のある一瞬」と「比喩」の水準で近いかもしれない。

<質問>  「がりっ」というのはどんな音?
<受講生1>たくさんかじった感じ。
<受講生2>砂なら「じゃりっ」。感情をかじった音。
<受講生3>耳に受けた刺戟
田島    耳はいちばん感じるところ

 うーん。作者はなかなか刺激的なことを言って読者を挑発する。
 その挑発にのる形で、また尋ねてみた。

<質問>  「トロリ」ということばが何回か出てくる。「トロリ」を言いかえると?
<受講生1>トロピカル
<受講生2>ぽってり。ドロリはいやだな。のみごろ、かな。
<受講生3>ぺろり、ぺろろ。
<質問>  詩のなかにあることばで言いかえると?
<受講生2>溶けてくる、溶ける
<受講生4>予感
<受講生1>指先ににじむ血
<受講生3>予感も指先ににじむ血もとめられない。

 あ、いいところへ視線が動いてきたな、と思う。
 詩は(あるいは文学は、あるいは音楽は、絵画は……)何か大事なこと(作者の肉体のなかで動いている本能)のようなものを何度も形を変えながらことばにする。
 果実酒のトロリとした飲み頃--そのことを書いているようでも、その背後には別な肉体(飲み頃に通じる肉体の官能)が動いている。
 作者は「耳がいちばん感じる(感覚が集合している)」という。「感じる」というのは「とめられない」何かである。受講生のひとりが言ったように「予感も指先ににじむ血もとめられない」。予感は肉体の奥からやってくるのか、外からやってくるのか、区別がむずかしい。指先ににじむ血は、あきらかに肉体の「内部」からやってくる。自分の「肉体」なのに、その動きをとめることができない。自分ではどうしようもない。
 そう思って詩を読み返すと、もっと切実な「とめられない」をあらわすことばがあることに気づく。

ローソンの灯りに吸い寄せられていく蛾でさえ

 現代の風景だから「ローソンの灯り」。少し前なら燃え上がる炎。それはローソンの蛍光灯よりも危険だ。そのまま身を焦がしてしまう。
 作者の「挑発」を私はそのまま信じるわけではないが、その「挑発」にのる形で詩を読むと、たとえば「飲みごろ」ということばが出て来るが、これは「果実酒」だから「飲みごろ」。女の肉体なら、どうなるだろう。「食べごろ」。俗なことばだが、わざと、俗に読み直して、この詩の可能性を広げてみるのもおもしろい。
 「霧の中から立ちあがるやわらかい湯気」の「やわらかい」は「湯気」よりも「湯気」のなかに隠されているあいまいなものを浮かび上がらせる。「セーラー服を着た古い少女の写真」は「古い」と「写真」ということばが「セーラー服を隠した少女(処女)」を隠している。すると「缶ビールを開けた指先ににじむ血」はもっと違う「血」になるかもしれない。そう「予感」させる。「誤読」を迫ってくる。
 この詩はしかし、真剣に「誤読」を誘いこみ、読者を笑ってしまおうとはしていない。嘘になりきれていない部分がある。そのために、最初の「印象(感想)」が受講生によってばらばらになるという形であらわれてしまった。
 もっと平気で「嘘」を書いてしまうと、詩としておもしろくなる。
 何が書いてあるのか--それを読むときのポイントは、いつでもどのことばとどのことばが呼びあっているか、その呼びあい奥にはどんな欲望(本能/正直)が隠されているかを探ることである。
 「嘘」をつくとき(詩を詩としてととのえるとき)、実は「嘘」をつくのではなく、正直になって自分の「本能」と向き合い、その「本能」を切り開かなければならない。自分が知らなかった自分を「嘘」をつくことで見つけ出したとき、その「知らなかっ自分」が作者ではなく「読者の知らなかった自分」と重なり感動する--それが詩である。
 作者や自分を発見し、読者も自分を発見する。その偶然の一致、その出会いが感動というものである。

 1連目の「空の向こうの遠い場所で雷が鳴ったときとか」以下の3行のことばは、「嘘」をつきかけている。それを受けて2連目は「うそ」をふくらませないといけないのだが、トーンが変わってしまった。音楽で言う「転調」ならいいのだが、「転調」しきれていない感じがする。もっと違う展開があったのでは、と思う。


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