監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジイジェフスカ
ドイツ降服直後のポーランド、抵抗組織に属した一人の青年の物語。ポーランドの歴史がわからないのだが……。ドイツが降伏したからといって、すぐに「平和」がやってくるわけではない。権力闘争が始まる。それが引き金となって物語が動いていく。
見どころは、青年と女のセックスシーンかなあ。特に目新しい(?)セックスシーンというのではないのだが、ひとはいつでもセックスをするということを教えてくれる。ひとりでは生きていけない。「大儀」を生きるわけではない。
どうしていいかわからなくなったとき、「生きている」ということを実感させてくれるのがセックスである。いや、「生きる」という欲望を引き出してくれるのがセックスである。「愛」はあとからやってくる。
セックスしたあとのふたりがとてもいきいきしてくるのがいいなあ。
セックスが、ふたりを「ふつうの生き方」にひきもどしたのだ。戦争も、抵抗運動もない、ふつうの生き方。もちろん「大儀」なんかは、ない。
廃墟か、遺体安置所(?)か、よくわからないところで、「墓碑銘」を読む。そこにタイトルになっている詩が刻まれている。「燃え尽きた灰の底に、ダイヤモンドがひそむ」というようなことが書いてある。どういう意味なのか、ぱっと聞いただけではわからない。
でも、「燃え尽きる」は「大儀」によって「燃え尽きる」ということだけではないだろう。映画は青年の行動を中心に描かれるので、青年が「大儀」にしたがって暗殺を実行し、その結果死ぬことがあっても、その行為のあとには「ダイヤモンド」のようなものが残される、ということだけではないだろう。
青年が死んだあとにも、青年といっしょに時間を過ごしたという記憶は女のなかに残る。輝かしい青春の記憶だ。同じように、死んでゆく青年の記憶に最後まで残るのはセックスした女のことかもしれない。
有名な洗濯したシーツを干した場所を逃走するシーン。青年がシーツを抱きしめるが、そのとき青年が抱きしめるのは、女の幻かもしれない。青年が死んでゆくとき、女の記憶もまた血に染まる。
戦争が終わっても、若者は傷つきつづける。
(午前10時の映画祭、2018年10月02日、中州大洋スクリーン3)