詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

2021-07-26 09:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

  謎を考えてみよう
  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
  カンガルウは妙な木々に何を習つたのか  (カンガルウ 459ページ)

 「故郷」について考えるとき、宮崎県を題材にした詩を選んだ方がいいのかもしれないけれど、あえて「抽象的」に考えてみたいと思う。嵯峨は宮崎県の出身だけれど、宮崎にいた期間は短い。
 嵯峨はここでは「故郷」を「不思議に曲がりくねつた木々」と結びつけている。土地の形、山の形、川の形ではなく、あるいは名前ではなく、木々。そこにあるもの。それは、ほかの土地にあるものとどんなふうに違っているのだろうか。その違いを「故郷」と読んでいる。

  ふるさとというのは
  そこだけに時が消えている川岸の町だ
  そこの水面に顔をうつしてみたまえ
  背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから  (*462ページ)

 この詩も抽象的だ。「時が消えている」しかも「そこだけ」。時間がない。しかし「川岸」がある。そして、水面に顔を写すとき背後から大きな瞳がみつめる。「背後」というのは自分の背中というよりも、消えたときの背後かもしれない。遠い過去。時間の向こうから、自分をみつめるものの存在としての「ふるさと」。
 「ここは何処なのか」という詩には、こんなことばがある。

  遠いことはいいことだ
  愛が 憎しみが 心だつて
  なにもかも遠くなる  (468ページ)

 「故郷」は「遠い」からいい。「なにもかも遠くなる」と、「遠い」という感じだけがのこる。
 カンガルウの詩にも「遠い」があった。

  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を

 木は「遠い」を教えてくれる目印のようなもの。木々よりも「遠い」の方が重要なことばかもしれない。
 「ここは何処なのか」という詩は「在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか」と自問する詩だけれど、その詩の途中に、こういう行がある。

  別れるのはいいことだ
  なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる

 「別れる」を「ふるさと」と「別れる」と読んでみる。そのとき「なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる」。この「ひとすじ」ということばに出会ったとき、私は嵯峨の「魂しい」の「しい」というものを思い浮かべた。それは魂から自分の方に帰ってくる「ひとすじ」の何か。魂を「背後から見つめている大きな瞳」と考えれば、そこから自分に向けられた視線が「魂しい」の「しい」なのではないか。

 「ふるさと」という詩がある。

  思い出の町はすつかり消えて
  ここはもはや見知らぬ遠い町のようだ

  ぼくは大きな白いキヤンパスを抱えて
  むかしの中央通りを通つていつた

  そして心のなかを一台の空車が
  空の方へのぼつていつた  (486ページ)

 これは、とても象徴的な詩だと思う。「思い出の町」は「ふるさと」。しかし、面影は消えて「見知らぬ町」になっている。それを「遠い」と呼んでいる。「遠い」は距離。魂と私をつなぐ遠さ(距離)が「しい」という文字なのかもしれない、と私は感じる。
 失われたふるさとと私。失われたのなら、それをつなぐものはないはずなのに、「しい」がつなぐ。そう考えると、漢字の「魂」という一文字は「ふるさと」かもしれない。「ふるさと=魂」と「私」をつなぐ「しい」。
 でも、「しい」って何なのか。
 もう一度「対話」という詩を読んでみる。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つていく遠い地が失われているからだ
  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 ことば通りには読むことができないのだけれど、「遠い地」は「ふるさと」。「ふるさと」が失われてしまっているのが嵯峨なのではないのか。宮崎は嵯峨の生まれ育った場所だけれど、それは「遠い」。「ふるさと」とは本来「去っていくもの」。形を変え、面影をなくしてしまうもの。それが「失われている」。この言い方は、とても奇妙だ。面影をなくして消えていくはずなのに、その消えてなくなるということが「失われている」。矛盾だ。昔の面影のまま、ふるさとは存在する、ということか。
 そして、この「矛盾する」ということだけが、何か、詩を詩にする力なのだろうと思う。
 矛盾は

  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

 という行にもあらわれている。遠いと近い、近いと果て。それが「あなたの傍ら」ということばのなかで絡み合っている。
 この奇妙な絡み合いは、

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから

 とい二行にもある。「愛する」ということは「さびしさ」があってはじめて生まれる。さびしいという心がなくなると愛するという心が起きない。さびしいからひとを愛する、というのはわかる。しかし、さびしさを失ったから愛さない、というのはどうなんだろう。わかったようで、わからない。だいたい人を愛したら、さびしいが消えて「うれしい」になるかもしれない。かといって「うれしい」がいっぱいになれば人を愛さないかというと、そうでもないだろうと思う。愛する、うれしい、うれしい、愛するは交錯する「充実」のようなものだ。
 こういうことは、考えるとわからなくなる。
 私がこの詩で注目するのは「さびしさ」ということば。「さびしさ」は「さびしい」。そして「さびしい」といったときに「さびしい」の「しい」が、嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」に似ているなあと、ふと思う。
 「しい」ってなんだろうなあ。「かなしい」「さびしい」「いとしい」「うつくしい」。それは「存在」というよりも「状態」。「状態」というのは、漠然とした「ひろがり」のようなものを持っている。そうすると、先に書いたこととつながるけれど、何かと何かをつないでいる、そのつなぎ方が「しい」なのではないか。「距離」が「しい」なのではないか。
 嵯峨は「魂」を「存在」というよりも、「ある状態」と考えていたのではないか、それが「魂しい」という表記になったのではないか、と私は思う。
 「しい」こそが、嵯峨が求めている「ふるさと」なのではないか、と思ったりする。

 「広がり」「距離」には「空間」と「時間」がある。空間の方は「ふるさと(自分が生まれたところ)」と「いまいるところ」という「間」があり、時間の方には「過去(自分が生まれた時)」と「いま生きている時」という「間」がある。時間はそれだけではなく「過去の過去」と「いま」という隔たり(間)というものがある。
 嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」は、その「間」の「状態」につながっている、と私は感じている。これをつきつめて考えるには、「時間」について見つめなおす必要がある。詩の中で「時間」を嵯峨はどんなふうに書いているか。それを見る必要がある。

 

 

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オリンピックは中止すべきだ... | トップ | 高柳誠『フランチェスカのス... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

『嵯峨信之全詩集』を読む」カテゴリの最新記事