詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中田敬二『島影』

2010-07-26 00:00:00 | 詩集
中田敬二『島影』(思潮社、2010年05月20日発行)

 中田敬二『島影』はウェブに書かれた詩である(と、帯に書いてある)。私は眼を悪くしてから、あまりウェブを巡り歩かないので、こうして本になったのを読む。
 「片言(かたこと)集」は4行ずつの集まりである。タイトルは特になく、代わりに番号がある。一日に何篇かずつ書いているのだろう。似たようなリズムのことばがつづく。「ヤだなア」という詩が3篇ある。

327

クニって ヤだなア
大地を切り裂き
旗を立て
戦車をならべ

328

詩人って ヤだなア
そのブルーな好色
そのリエゾンな陶酔
そのモダンな孤高

329

テレビも ヤだなア
たらふく食って 飲んで
でかいかおしてる
おれ おれ おれ

 簡単にことばにしすぎている感じがする。ことばがつまずかない。唯一「リエゾンな陶酔」ということばに、ちょっとこころが動いたが、その瞬間、あ、こんな部分にこころが動くなんて、「ヤだなア」と思ってしまった。
 文学文学している。
 そのまわりのことばが、「流通言語」でありすぎるので、ふいにあらわれた「リエゾンな陶酔」という異質なことばの結びつきに反応してしまう私がいやになってしまう。
 そして、思った。
 中田のこの「片言集」は一種のリトマス紙である。ときどき「文学文学」したことばがでてきて、どっちが好き?と読者に迫ってくるのである。

338

胡蝶ランのつぼみが倒れ
おれの脚が血を噴いた
羽化する寸前
きりきりと傷口が痛んだ

 「胡蝶ラン」から「蝶」が「羽化」していく。そのイメージが「肉体」(脚、傷)と重なる。これも「文学文学」しているねえ。

340

時空は一体なのだから
時間は空間なのだから
空間さえあればいい
時間に追いこされて

 これは「哲学哲学」している。これに反応してはだめなんだろうなあ。これは罠の一種なんだろうなあ、と思う。
 では、罠ではないことばはどこにあるか。
 「テングザル と 空」。そこにとてもおもしろいことばがある。

おお
かゆいそら

 という2行のあと、「かゆい」の文字が、体をひっかいたように「か」「ゆ」「い」とばらばらになって、また寄り集まっている。ここではその文字の配列を再現できないので、ぜひ、詩集で読んで(見て?)ほしい。
 「かゆい」がかゆがりながら、遊んでいる。かゆい、が、ゆかい、になる。
 そして「かゆいだいち」ということばにつながっていく。
 ここにあるのは、「意味」ではない。「遊び」である。そして、その遊びが「文学文学」したものを一気に吹き飛ばす。
 こういう詩がもっとあればなあ、と思う。そうすると、とても楽しいのに。




島影
中田 敬二
思潮社

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