江知柿美『天にも地にもいます神よ』(書肆山田、2008年10月31日発行)
江知柿美のことばは広がっていく。人間はだれでもひとりだが、同時に複数でもある。その複数へ、私以外の人間へ、そして「もの」へと広がっていく。そして、その広がりの中で、江知は粗素るものと交感・交流する。
「短い道」の後半。
2度つかわれている「つながる」。これが江知の「思想」(キーワード)である。ことばはただ「広がる」のではなく、広がって、それから「つながる」のだ。「つながる」は「通じる」とも同じ意味だ。
「わたし」は「大地」と「つながる」。「大地」は「溶岩」と「つながる」。「つながる」とそこを「通じる」動きをするものがある。そこを通るものがいる。そして、その運動は「通じる」を超える。ときには、たとえば噴火のように、溶岩が「つながる」ものの奥から突然あふれてくる。それは大地を破壊する。「わたし」をも破壊する。
しかし、その「涯」には、「わたし」をも「大地」をも超越した「閑けさ」があるのだ。「永遠」があるのだ。「永遠」ということばを江知はつかってはいないけれど……。
この「つながり」、そうやってできる「道」が平坦でも単純でもないことを描いている。「何を見るだろう」の書き出し。
この部分で重要なのは「昂ってくる」ということばである。クレーの絵のグラデーションの階段。それを昇っていく、通っていくと、「昂ってくる」。つまり、自分の中で変化が起きる。感情が、精神が、いままでと違ってくる。昂った感情・精神が見るものは、それまでの江知が見ていたものとは違ってくる。どう違ってくるか。何が違ってくるか。それは、実は、わからない。わからないからこそ、人は、それに向かって進むのである。わからないものまで昇りつづけ(あるいは降りつづけ)、人は、いままで知らなかったものと「つながる」。そうして、「わたし」を超越する。それまでの「わたし」を捨てて生まれ変わる。
芸術に触れる感動が、ここでは、そんなふうに静かに語られている。
末尾の2行
「ごと」ということばからわかるように、この変化は、常に動く。何かになって「完成」するということはない。感情・精神は常に生成しつづけるのである。
だから、そこには「限定」はない。「無限」があるだけである。
「在る処」では、その「無限」を次のように言い換えている。
たとえば「わたし」と「大地の奥」の間に存在しているもの。「溶岩」。そういうものの「間」に存在しているものとは、「運動」である。「間」を行き来する「運動」である。そして、その「運動」こそが「つながる」ということでもある。
「在る処分」には、次の行がある。
「つながる」とき、そこでは「境界線」がなくなる。そこには、ただ生成があるだけである。そこからは「わたし」をのみこんでしまう「溶岩」のようなものも生まれてくるし、その「溶岩」によって「わたし」の「死」さえ生まれてくるかもしれない。
だからときには「恐ろしい」。けれども「懐しい」。矛盾。こういう「矛盾」のなかにこそ、「思想」の意味がある。「矛盾」を超えて、「思想」は肉体になる。
「恐ろしい」のに「懐しい」のは、それが「永遠」だからである。それが人間のかえるべき「場」であるからである。
「永遠」が「恐ろしい」、そして「懐しい」のは、そこには生と死が同居しているからである。「永遠」という時間の中では、いつも生成がある。生成は、あるものが死に、別のものに生まれ変わることである。
生と死は、あらゆるものの中に存在し、「わたし」を誘う。「わたし」とつながる。その「つながり」に、やがて「おわり」があると夢想するのは、死んでいくことが宿命の、人間のいのちのいのりであるかもしれない。
「糸杉」の後半。とても美しい数行。「もの」、「いのち」は「点」ということばで表現されている。
「開放」は「解放」かもしれない。「いのち」からの解放。それは死からの解放、死の束縛からの解放かもしれない。
江知柿美のことばは広がっていく。人間はだれでもひとりだが、同時に複数でもある。その複数へ、私以外の人間へ、そして「もの」へと広がっていく。そして、その広がりの中で、江知は粗素るものと交感・交流する。
「短い道」の後半。
この道は
樹海へと通じ
あの高い頂きに通じている
そしてもっと遠いところへと
横たわると地底から山の
寝息がきこえる
燃えてくる 奥から 熱く
わたしにつながってくる
山はいつか目覚めるだろう
その肌にわたしを乗せたまま
噴き上げるだろう
烈しい溶岩がわたしの上を
流れるだろう
この道
その閑けさ
涯につながる
暖かいわたしを
感じるだろう
2度つかわれている「つながる」。これが江知の「思想」(キーワード)である。ことばはただ「広がる」のではなく、広がって、それから「つながる」のだ。「つながる」は「通じる」とも同じ意味だ。
「わたし」は「大地」と「つながる」。「大地」は「溶岩」と「つながる」。「つながる」とそこを「通じる」動きをするものがある。そこを通るものがいる。そして、その運動は「通じる」を超える。ときには、たとえば噴火のように、溶岩が「つながる」ものの奥から突然あふれてくる。それは大地を破壊する。「わたし」をも破壊する。
しかし、その「涯」には、「わたし」をも「大地」をも超越した「閑けさ」があるのだ。「永遠」があるのだ。「永遠」ということばを江知はつかってはいないけれど……。
この「つながり」、そうやってできる「道」が平坦でも単純でもないことを描いている。「何を見るだろう」の書き出し。
クレーの色の階段を昇っていくと
突然昂ってくることがある
静かなものから動的なものへと
階段の段差は等間隔とは限らない
この部分で重要なのは「昂ってくる」ということばである。クレーの絵のグラデーションの階段。それを昇っていく、通っていくと、「昂ってくる」。つまり、自分の中で変化が起きる。感情が、精神が、いままでと違ってくる。昂った感情・精神が見るものは、それまでの江知が見ていたものとは違ってくる。どう違ってくるか。何が違ってくるか。それは、実は、わからない。わからないからこそ、人は、それに向かって進むのである。わからないものまで昇りつづけ(あるいは降りつづけ)、人は、いままで知らなかったものと「つながる」。そうして、「わたし」を超越する。それまでの「わたし」を捨てて生まれ変わる。
芸術に触れる感動が、ここでは、そんなふうに静かに語られている。
末尾の2行
何を見るだろう
昇るごと 降りるごと
「ごと」ということばからわかるように、この変化は、常に動く。何かになって「完成」するということはない。感情・精神は常に生成しつづけるのである。
だから、そこには「限定」はない。「無限」があるだけである。
「在る処」では、その「無限」を次のように言い換えている。
わたしたち存在しているものの間に存在している
あるもの
たとえば「わたし」と「大地の奥」の間に存在しているもの。「溶岩」。そういうものの「間」に存在しているものとは、「運動」である。「間」を行き来する「運動」である。そして、その「運動」こそが「つながる」ということでもある。
「在る処分」には、次の行がある。
ただ一様のひろがりだ
境界線はありえない
だが目を凝らすと静かに罅割れてくる
浮かび上がってくる
沢山の
恐ろしい
懐しい
目 が光っていたりする
「つながる」とき、そこでは「境界線」がなくなる。そこには、ただ生成があるだけである。そこからは「わたし」をのみこんでしまう「溶岩」のようなものも生まれてくるし、その「溶岩」によって「わたし」の「死」さえ生まれてくるかもしれない。
だからときには「恐ろしい」。けれども「懐しい」。矛盾。こういう「矛盾」のなかにこそ、「思想」の意味がある。「矛盾」を超えて、「思想」は肉体になる。
「恐ろしい」のに「懐しい」のは、それが「永遠」だからである。それが人間のかえるべき「場」であるからである。
「永遠」が「恐ろしい」、そして「懐しい」のは、そこには生と死が同居しているからである。「永遠」という時間の中では、いつも生成がある。生成は、あるものが死に、別のものに生まれ変わることである。
生と死は、あらゆるものの中に存在し、「わたし」を誘う。「わたし」とつながる。その「つながり」に、やがて「おわり」があると夢想するのは、死んでいくことが宿命の、人間のいのちのいのりであるかもしれない。
「糸杉」の後半。とても美しい数行。「もの」、「いのち」は「点」ということばで表現されている。
点は次々と増し次々と重なり
繋がっていった
点はどこまでも深く掘ることができる
捉われると身動きできなくなる
どの点にも痛みがあって
穴の中に沁み込んでいく
この連鎖の終りが開放の日なのだろうか
糸杉は朱色に染まって光っている
「開放」は「解放」かもしれない。「いのち」からの解放。それは死からの解放、死の束縛からの解放かもしれない。
天にも地にもいます神よ江知 柿美書肆山田このアイテムの詳細を見る |