高橋睦郎『深きより』(10)(思潮社、2020年10月31日発行)
「十 わたくしではない」は「紫式部」。
それはわたくしではない 世に名高い源氏の物語を産んだのは
思ふに 歌のたま 物語のものが わたくしの裡に入つたのだ
いつのこと? おそらくは未生の闇から光へ押し出されたとき
そのとき以来 わたくしは尋常のわたくしではなくなつた
もし「源氏の物語」ということばがなかったら、ここに描かれている「作家」は誰のことを指すかわからない。それは逆に言えば「歌」を含む「物語」のすべての作者にあてはまる。二行目に「歌のたま」「物語のもの」と書いているが、「歌」だけ、あるいは「物語」だけに限定すれば、「作者」というのは「わたくしどはなくなつた」人のことだろう。
実際、高橋の場合はどうなのか。
この詩集を書いているとき、高橋は高橋であることをやめている。この作品では、高橋は紫式部という「わたくし」以外の人間になっている。
だから、この書き出しの四行には、何かが書かれているようであって、何も書かれていない。高橋が書きたいのは「わたくしではない」ということではないのだ。
紫式部の本名は何かと問うたあと、高橋は、こう書いている。
物語のなかの源氏の君とて 女君の誰彼とて 同じこと
そのつどの通り名はあつても 本当の名は隠されて
つひには肉身も雲隠れ 夜半の月ならぬわたくしもまた
「本当(の名)」は「隠されて」いる。隠れているものこそ「本当」である。もし「本当」というものがあるとすれば。
これは「あらわす」(たとえば、物語を、書き、あらわす)、あるいは「あらわれる」ものが「本当」ではないということだ。
私たちが読まなければならないのは、そこに「隠されて」いるものがなにか、あるいは何が「隠れている」か。
この詩にキーワードがあるとすれば「隠れる/隠す」である。
この詩では、紫式部に「なって」書くという行為は「あらわされ/あらわれている」。その行為によって隠されているは「わたくしではなくなりたい」という欲望である。しかし、その欲望は「夜半の月」のように、どんなに雲隠れしようとも、存在が見えてしまうものである。
虚構のことばを生きる高橋の絶望の絶対性が隠されている。
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