「海の洞の中には……」。
きみが誰かも分からず、きみも私を知らずに。
恋の始まり。
さて。
「分かる」と「知る」。ギリシャ語では区別があるか。ギリシャ語が「分かる」「知る」を使い分けていたから、中井はそれにあわせて使い分けたのか。ギリシャ語には使い分けがないが、中井が使い分けたのか。これは大事ではない。大事なのは、中井が使い分けているということである。同じことばであっても訳し分けることはできるし、違うことばであっても同じ語(ことば)にすることもできる。
だから、これは「中井語」そのものなのである。
「私」は「私を知っている」。たとえば「きみが誰かも分からない」のが「私のいまの状態であると知っている」。その意識が「私」と「知る」を結びつけ、「きみ」は「私を知らない」ということばを選ばさせるのだ。「私は私が誰であるか知っているが、きみは私が誰であるか知らない」。非常に冷静な眼が働いている。
ふたりの恋を描いているように見えるが、実は、「私」が恋をした瞬間のことを書いている。そのことを明確にする日本語だ。中井は、なによりも日本語を深いところでつかみとって動かしている。
「きみが誰かも知らず、きみも私が誰かを分からずに。」と書き換えてみるといい。とても奇妙な印象になる。「意味」は頭では理解できるが、こころは追いついていかない。
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