ローワン・ジョフィ監督「リピーテッド」(★★+★)
監督 ローワン・ジョフィ 出演 ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロング
イギリス映画だなあ。イギリスならではだなあ、とうなった。
ストーリーは記憶障害(朝起きると、前日の記憶が消えてしまう)のニコール・キッドマンが過去を取り戻す過程を描いている。レイプされたときに頭に衝撃を受け、そのために記憶障害になっている。過去を取り戻すとは、言い換えるとレイプした男を突き止めるということ。
まあ、想像どおり、うさんくさい美男子(夫を演じている)コリン・ファースが、定石どおりに「犯人」なのだけれど。
感心したのが(イギリス映画だなあ、と思ったのが)コンパクトカメラのつかい方。今のコンパクトカメラには動画機能もついている。それをつかってニコール・キッドマンがカメラ日記をつけ、「記憶がわり」に利用する。
コンパクトカメラを利用するのは、ストーリー上は、カメラを隠しておくということと関係があるのだが、映画としては、この工夫がとってもおもしろい。
ニコール・キッドマンはカメラに向かって一日のことを語りかける。つまり「ことば」を記録する。カメラをつかっているが、機能はテープレコーダーである。映像は、トイレに張ってあった写真が消えているという部分で活用されているけれど、それ以外は「ことばの記録」でしかない。この「ことば」主体というところが、映画を逆手にとって、さすがシェークスピアの国、「ことば国」を感じさせる。(アメリカ映画ではこうはならない。どうしても映像で記録しようとする。ことばの力を無視してしまう。)
「ことば」を記録しながら、それを再生するときはカメラのアップのニコール・キッドマンが度アップになる。超度アップ。カメラの粒子が見えるくらい。それに目が奪われて「ことば」の印象が薄くなる。ニコール・キッドマンの顔しか映っていないのに、顔なんて「記憶」でもなんでもないのに、顔に刻まれた不安や感情の乱れが「事実」を超えて「記憶の真実」になる。それを「ことば」が定着させる。
いやあ、すごい。
「ことばの力」をそうやって観客の「肉体」にしみ込ませた上で、映画なのに「ことば」で重要な部分を展開する。
ニコール・キッドマンには子どもがいる。「ことば」で死んだと知らされる。しかし、コリン・ファースのふとしたことば尻から、ニコール・キッドマンは子どもが生きていることを知る。(これがきっかけで、ニコール・キッドマンはコリン・ファースの言っていることが嘘だと完全に気づく。)女友達がコリン・ファースが偽の夫であることを告げる(気づかせる)のも、映像ではなく、「ことば」。「髪の色は? 右頬に傷がある?」という「質問」。
さらに、子どものことを完全に思い出すきっかけが「くまのプーさん」(だと思う)の「ことば」のやりとり。そこにはニコール・キッドマンと幼い子どもの「映像」はなく、ただ「ことば」だけが再現され、それが記憶を取り戻す力になっている。
まるで「舞台劇」そのままの「ことば」の力をつかった映画なのだが、これを「舞台劇」ではなく「映画」にしているのが、最初に書いたコンパクトカメラの活用。掌におさまる小さな映像をスクリーン一杯に広げて、その無意味なアップで「ことば」を隠してしまうというとんでもないトリック。
まいったね。「脱帽」というのは、こういうときにつかうことばだね。ストーリーのトリック自体は、うさんくさい美男子を起用したときから見え透いている。それを、どうやって映画にしていくか--そのトリックに脱帽。
この映画に対する私の不満は……。
映画を見ながら、「ガス灯」を思い出していた。女が「記憶」に苦しむ。男に追い詰められる。こういうとき、女は美女でないといけない。ニコール・キッドマンは「美女ではない」とは言わないが、イングリット・バーグマンに比べると「強すぎる」。弱い美女が追い詰められて苦しむときの顔の魅力に欠ける。あ、もっといじめて、苦しめたい。あの苦しむ顔がたまらない、という欲望を引き起こさない。イングリット・バーグマンはすばらしかった。シャルル・ボワイエ(美男子!)に追い詰められて苦しむのを見ていると、かわいそうと感じると同時に、もっともっといじめてみたいという欲望を引き起こす。矛盾した感情のなかで、私は映画を忘れ、イングリット・バーグマンに夢中になる。そのとき私はイングリット・バーグマンを追い込むシャルル・ボワイエにもなっている。「一人二役」で映画の「なか」にいる。スクリーンを忘れてしまう。
ニコール・キッドマンは「アザーズ」で幽霊をやったくらいだから、もともとが「怖い」顔なのだ。「我が強い(執念深い?)」顔なのだ。これでは、同情はできないし、もっといじめたいという気持ちにもなれない。復讐されると怖いから。矛盾した気持ちになってこそ、「映画」が「映画」であることを忘れ、夢中になれる。
個人的な好みかもしれないが、個人的な好みというのは大切なのだ。この映画、イングリット・バーグマンでリメイクできないかなあ。ヒッチコックがリメイクしてくれたら最高だろうなあ。
(2015年05月23日、t-joy 博多・スクリーン10)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ローワン・ジョフィ 出演 ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロング
イギリス映画だなあ。イギリスならではだなあ、とうなった。
ストーリーは記憶障害(朝起きると、前日の記憶が消えてしまう)のニコール・キッドマンが過去を取り戻す過程を描いている。レイプされたときに頭に衝撃を受け、そのために記憶障害になっている。過去を取り戻すとは、言い換えるとレイプした男を突き止めるということ。
まあ、想像どおり、うさんくさい美男子(夫を演じている)コリン・ファースが、定石どおりに「犯人」なのだけれど。
感心したのが(イギリス映画だなあ、と思ったのが)コンパクトカメラのつかい方。今のコンパクトカメラには動画機能もついている。それをつかってニコール・キッドマンがカメラ日記をつけ、「記憶がわり」に利用する。
コンパクトカメラを利用するのは、ストーリー上は、カメラを隠しておくということと関係があるのだが、映画としては、この工夫がとってもおもしろい。
ニコール・キッドマンはカメラに向かって一日のことを語りかける。つまり「ことば」を記録する。カメラをつかっているが、機能はテープレコーダーである。映像は、トイレに張ってあった写真が消えているという部分で活用されているけれど、それ以外は「ことばの記録」でしかない。この「ことば」主体というところが、映画を逆手にとって、さすがシェークスピアの国、「ことば国」を感じさせる。(アメリカ映画ではこうはならない。どうしても映像で記録しようとする。ことばの力を無視してしまう。)
「ことば」を記録しながら、それを再生するときはカメラのアップのニコール・キッドマンが度アップになる。超度アップ。カメラの粒子が見えるくらい。それに目が奪われて「ことば」の印象が薄くなる。ニコール・キッドマンの顔しか映っていないのに、顔なんて「記憶」でもなんでもないのに、顔に刻まれた不安や感情の乱れが「事実」を超えて「記憶の真実」になる。それを「ことば」が定着させる。
いやあ、すごい。
「ことばの力」をそうやって観客の「肉体」にしみ込ませた上で、映画なのに「ことば」で重要な部分を展開する。
ニコール・キッドマンには子どもがいる。「ことば」で死んだと知らされる。しかし、コリン・ファースのふとしたことば尻から、ニコール・キッドマンは子どもが生きていることを知る。(これがきっかけで、ニコール・キッドマンはコリン・ファースの言っていることが嘘だと完全に気づく。)女友達がコリン・ファースが偽の夫であることを告げる(気づかせる)のも、映像ではなく、「ことば」。「髪の色は? 右頬に傷がある?」という「質問」。
さらに、子どものことを完全に思い出すきっかけが「くまのプーさん」(だと思う)の「ことば」のやりとり。そこにはニコール・キッドマンと幼い子どもの「映像」はなく、ただ「ことば」だけが再現され、それが記憶を取り戻す力になっている。
まるで「舞台劇」そのままの「ことば」の力をつかった映画なのだが、これを「舞台劇」ではなく「映画」にしているのが、最初に書いたコンパクトカメラの活用。掌におさまる小さな映像をスクリーン一杯に広げて、その無意味なアップで「ことば」を隠してしまうというとんでもないトリック。
まいったね。「脱帽」というのは、こういうときにつかうことばだね。ストーリーのトリック自体は、うさんくさい美男子を起用したときから見え透いている。それを、どうやって映画にしていくか--そのトリックに脱帽。
この映画に対する私の不満は……。
映画を見ながら、「ガス灯」を思い出していた。女が「記憶」に苦しむ。男に追い詰められる。こういうとき、女は美女でないといけない。ニコール・キッドマンは「美女ではない」とは言わないが、イングリット・バーグマンに比べると「強すぎる」。弱い美女が追い詰められて苦しむときの顔の魅力に欠ける。あ、もっといじめて、苦しめたい。あの苦しむ顔がたまらない、という欲望を引き起こさない。イングリット・バーグマンはすばらしかった。シャルル・ボワイエ(美男子!)に追い詰められて苦しむのを見ていると、かわいそうと感じると同時に、もっともっといじめてみたいという欲望を引き起こす。矛盾した感情のなかで、私は映画を忘れ、イングリット・バーグマンに夢中になる。そのとき私はイングリット・バーグマンを追い込むシャルル・ボワイエにもなっている。「一人二役」で映画の「なか」にいる。スクリーンを忘れてしまう。
ニコール・キッドマンは「アザーズ」で幽霊をやったくらいだから、もともとが「怖い」顔なのだ。「我が強い(執念深い?)」顔なのだ。これでは、同情はできないし、もっといじめたいという気持ちにもなれない。復讐されると怖いから。矛盾した気持ちになってこそ、「映画」が「映画」であることを忘れ、夢中になれる。
個人的な好みかもしれないが、個人的な好みというのは大切なのだ。この映画、イングリット・バーグマンでリメイクできないかなあ。ヒッチコックがリメイクしてくれたら最高だろうなあ。
(2015年05月23日、t-joy 博多・スクリーン10)
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