北川透『海の古文書』(13)(思潮社、2011年06月15日発行)
「十一章 対位法 あるいは波間に消えるメモたちの群れ」。
ことばは不思議である。あることばが動く。そうすると、それにつられて別のことばが動いてしまう。このとき、「ふたつ」のことばにとどういう関係があるのか。「ふたつ」のことばは動くことで「ひとつ」になるのか。そのとき、その「ひとつ」とは何か。「第三のことば」か……。
「十一章」は、いくつかの「メモ」で構成されている。それぞれの「メモ」同士も、互いに動くことばかもしれないが、ひとつのメモのなかにも、ひとつことばの動きに誘われて動く別のことばがある。
<溺死シタモノ>という最初の「メモ」。
それぞれの行頭は「そ」ではじまっている。これも、ことばがことばを呼ぶひとつの方法である。互いに「そ」ではじまりながら、ことばが動いていく。「そ」ではじまるということによって「ひとつ」になっている。
そういう「形式」とは別に、また呼びかけあうことばがある。8行目に「呼びかけた」ということばが書かれているが、ことばは呼びかけうのである。8行目の「呼びかけた」は「わたし」が「あいつらに」呼びかけたという意味であるけれど、そのときことばもことばに対して呼びかけているのである。
ことばがことばに対して「呼びかける」というのは……。
たとえば1行目。「バリケードの海」。この「海」は「比喩」である。「バリケードでできた海」(バリケードが延々とつづいて、波のように見え--かな?)、「バリケードで囲まれた海」かもしれない。そのとき「バリケード」って何? ほんもの? それとも「そらぞらしい約束」? そして、その「海」には、ほんものの海に浮いているように、「吸いかけの煙草」「パンの切れ端」が浮いている? そこにある?
どこからがほんもので、どこからが「偽物」というか、「比喩」なのか、わからなくなる--としたら、そのとき、そのことばとともにあるものは何? たとえば私は「大学闘争」のときの「バリケード」を思い出す。バリケードの内部には何があっただろう。「そらぞらしいウソの約束」があり、「吸いかけの煙草」「パンの切れ端」があっただろう。「ウソの約束」は「そざつなプラン」だったかもしれない。「ウソの約束」は「変色」してしまった。「プラン」は「ノートのなかで変色」してしまった。バリケードの内部に「汚物にまみれた下着」があり、また「皇室記事」が書かれた週刊誌(?)、雑誌、新聞があっただろう。また殴り合い(割れた頭蓋)や、みだれたセックス(コンドーム)があったかもしれない。何もかもがあって、それが「海」だったかもしれない。「バリケード」ではなく、その内部こそが「海」だったかもしれない。
「比喩」と「事実」が入り乱れてしまう。「比喩」だったものが「ほんもの」になり、「事実」が「比喩」なる。「事実」として語っていることも、受け手が「比喩」として理解し、また別のことばを向き合わせるということがある。
「そんなあぶくの中で泳いでいて どうするの」
「向こう岸がある」
「比喩」としての「泳ぐ」、そのことばが「比喩」としての「向こう岸」を呼び寄せる。そして、そんなふうに「対話」が成り立った瞬間、「比喩」はいったい何なんだろう。「比喩」ではなく、というより、「比喩」を超越した何かになっていないだろうか。「事実」をも超越して「ほんもの」--「ほんとうに考えたこと」(思想)になってしまっていないだろうか。
--もちろん、こういうことこそ「ウソ」である。
「ウソ」なのだけれど、それはことばだけが呼び寄せることができる何かでもある。
これは、めんどうくさい。
こんな「ウソ」と向き合って、ことばを動かすのは、とても難しい。どうやって、そのことばが「ほんもの」であるか点検するのはむずかしい。
最初の「ひとつ」のことばは何だったのか。それと正確に向き合った「別のことば(ふたつめのことば)」は何か。そして、その「ふたつ」のことばが出会うことで、動いたことばは、いったい「ひとつ」なのか。「ひとつ」だとしたら、どっちのことばを引き継いでいるのか。「ひとつ」だとして、それがどちらのことばも引き継がす、まったく新しく生まれたことば(第三のことば)ということはありえないか。
よくわからない。
だいたい、私の書いているこの「日記」のことば自体が、北川の書いていることばとほんとうに向き合っているのものなのかどうかもわからない。私は北川のことばをよむことから始めた。それは確かだが、最初に向き合ったからといって、向き合いつづけているとはかぎらない。
でも。
こういう動きも「対位法」ではないのか。
「呼びかけ」にしたがおうが、背こうが、何かの動きに反応し、別の動きが始まること--そういう運動のすべてを「対位法」と呼ぶと、拡大解釈になるだろうか。もしそうだとして、拡大解釈すると、何が問題になるだろう。何かいけないことになるのだろう。
また、脱線・暴走してしまった。
もっと別な形で詩の「感想」を書くべきなのかもしれない。
この章では、<関節ヲ折ラレタモノ>という「メモ」も大好きである。
「長いブーツを履いた雌犬」はある時代の風俗を連想させる。長いブーツを履いた若い女性があふれた時代があった。だが、だからといって、このことばが、その「時代」を要約したものかどうかはわからない。「雌犬」が「比喩」かどうかはわからない。
「司祭」や「定点観測」は「比喩」なのか。
この12行のなかには、何が過剰なのか。あるいは何かが省略されているために、その欠如が「過剰」のように見えてしまうのか--わからない。わからないけれど、「司祭」という名詞に「作動しなかった」という動詞がむすびつく瞬間、私は何かを感じる。(私の知っている「統辞法」が激しく揺さぶられ、何かが見えたような気がする。--錯覚だが、それを私は「見えた」と断言したい気持ちになる。)「司祭」と「定点観測」が「呼びかけあっている」ようにも感じる。「ホットケーキ」と「キーボード」の音の響き具合も、「呼びかけ」あうことばというものを意識しないことには納得できない。どんな脈絡があるのかわからないが、私は「ホットケーキ」と「キーボード」は「対」になっていると感じる。「司祭」と「定点観測」が「対」になっているように。
そして、この「対」--呼びかけ、呼びあう何かがことばを動かすいちばんの力だと感じる。
「統辞法」と「対位法」は、ことばの運動の「基本」なのだ。
これでは何を言ったことにもならないのだけれど。感想にはならないし、もちろん批評にもならない。ただ、私は感じるのである。そして、考えたのである。
この詩集の最初にでてきたM、O、Hという3人の男。それはとりあえず(?)3人であって、ほんとうはもっと多いかもしれない。その3人と北川は会った。つまり、3人のことばと向き合った。それは、それぞれ「ことば」の「統辞法」と向き合うということでもある。向き合ったときから、北川のことばは動きはじめる。「対位法」によって、動いてしまう。北川のことばが動けば、それに反応して3人のことばも動く。そうして、最初のことばというのは、次々に変化して、別なものになる。
北川は、そういうことばを追っている。書き留めている--書き留めながら、北川自身のことばをさらに更新している。新しくしている。
「十一章 対位法 あるいは波間に消えるメモたちの群れ」。
ことばは不思議である。あることばが動く。そうすると、それにつられて別のことばが動いてしまう。このとき、「ふたつ」のことばにとどういう関係があるのか。「ふたつ」のことばは動くことで「ひとつ」になるのか。そのとき、その「ひとつ」とは何か。「第三のことば」か……。
「十一章」は、いくつかの「メモ」で構成されている。それぞれの「メモ」同士も、互いに動くことばかもしれないが、ひとつのメモのなかにも、ひとつことばの動きに誘われて動く別のことばがある。
<溺死シタモノ>という最初の「メモ」。
そんなものものしいバリケードの海に浮いているのは
そらぞらしいウソの約束 吸いかけの煙草 パンの切れ端
そざつなプラン 変色したノート 汚物にまみれた下着や皇室記事
それていく蛇行デモ 割れた頭蓋 薄いコンドームの夢
そんなあぶくのなかで泳いでいて どうするのって聞いたの
そうしたら 向こう岸がある と言うのよ
そんなのあんたたちだけが勝手に見ている夢のカナンでしょう
そんなの剥がれ易いペラペラの緑の半島でしょう と必死に呼びかけた
そんなことすべて分かっている という振りをしながら
そっけなく泳いでいったわ あいつらは
それぞれの行頭は「そ」ではじまっている。これも、ことばがことばを呼ぶひとつの方法である。互いに「そ」ではじまりながら、ことばが動いていく。「そ」ではじまるということによって「ひとつ」になっている。
そういう「形式」とは別に、また呼びかけあうことばがある。8行目に「呼びかけた」ということばが書かれているが、ことばは呼びかけうのである。8行目の「呼びかけた」は「わたし」が「あいつらに」呼びかけたという意味であるけれど、そのときことばもことばに対して呼びかけているのである。
ことばがことばに対して「呼びかける」というのは……。
たとえば1行目。「バリケードの海」。この「海」は「比喩」である。「バリケードでできた海」(バリケードが延々とつづいて、波のように見え--かな?)、「バリケードで囲まれた海」かもしれない。そのとき「バリケード」って何? ほんもの? それとも「そらぞらしい約束」? そして、その「海」には、ほんものの海に浮いているように、「吸いかけの煙草」「パンの切れ端」が浮いている? そこにある?
どこからがほんもので、どこからが「偽物」というか、「比喩」なのか、わからなくなる--としたら、そのとき、そのことばとともにあるものは何? たとえば私は「大学闘争」のときの「バリケード」を思い出す。バリケードの内部には何があっただろう。「そらぞらしいウソの約束」があり、「吸いかけの煙草」「パンの切れ端」があっただろう。「ウソの約束」は「そざつなプラン」だったかもしれない。「ウソの約束」は「変色」してしまった。「プラン」は「ノートのなかで変色」してしまった。バリケードの内部に「汚物にまみれた下着」があり、また「皇室記事」が書かれた週刊誌(?)、雑誌、新聞があっただろう。また殴り合い(割れた頭蓋)や、みだれたセックス(コンドーム)があったかもしれない。何もかもがあって、それが「海」だったかもしれない。「バリケード」ではなく、その内部こそが「海」だったかもしれない。
「比喩」と「事実」が入り乱れてしまう。「比喩」だったものが「ほんもの」になり、「事実」が「比喩」なる。「事実」として語っていることも、受け手が「比喩」として理解し、また別のことばを向き合わせるということがある。
「そんなあぶくの中で泳いでいて どうするの」
「向こう岸がある」
「比喩」としての「泳ぐ」、そのことばが「比喩」としての「向こう岸」を呼び寄せる。そして、そんなふうに「対話」が成り立った瞬間、「比喩」はいったい何なんだろう。「比喩」ではなく、というより、「比喩」を超越した何かになっていないだろうか。「事実」をも超越して「ほんもの」--「ほんとうに考えたこと」(思想)になってしまっていないだろうか。
--もちろん、こういうことこそ「ウソ」である。
「ウソ」なのだけれど、それはことばだけが呼び寄せることができる何かでもある。
これは、めんどうくさい。
こんな「ウソ」と向き合って、ことばを動かすのは、とても難しい。どうやって、そのことばが「ほんもの」であるか点検するのはむずかしい。
最初の「ひとつ」のことばは何だったのか。それと正確に向き合った「別のことば(ふたつめのことば)」は何か。そして、その「ふたつ」のことばが出会うことで、動いたことばは、いったい「ひとつ」なのか。「ひとつ」だとしたら、どっちのことばを引き継いでいるのか。「ひとつ」だとして、それがどちらのことばも引き継がす、まったく新しく生まれたことば(第三のことば)ということはありえないか。
よくわからない。
だいたい、私の書いているこの「日記」のことば自体が、北川の書いていることばとほんとうに向き合っているのものなのかどうかもわからない。私は北川のことばをよむことから始めた。それは確かだが、最初に向き合ったからといって、向き合いつづけているとはかぎらない。
でも。
こういう動きも「対位法」ではないのか。
「呼びかけ」にしたがおうが、背こうが、何かの動きに反応し、別の動きが始まること--そういう運動のすべてを「対位法」と呼ぶと、拡大解釈になるだろうか。もしそうだとして、拡大解釈すると、何が問題になるだろう。何かいけないことになるのだろう。
また、脱線・暴走してしまった。
もっと別な形で詩の「感想」を書くべきなのかもしれない。
この章では、<関節ヲ折ラレタモノ>という「メモ」も大好きである。
もうおしまいさ!があっちこっちに降って湧いた
長いブーツを履いた雌犬が視界を横切った直後だった
黄葉や爪や毛穴の演奏は止まるところを知らなかった
そこには野狐もいなければ司祭も作動しなかった
排水装置も動かず定点観測も聞こえてこなかった
起こったのは首にテーブルクロスを巻きつけた
おんぼろマネキンのすすり泣きだけだった
長い廊下が日の丸を畳んでステンレスの倉庫に運んでた
脳無しめとわめいたのは支離滅裂なホットケーキだった
あるいは朝鮮人参や雲泥の差や無線のキーボードだった
棲家を失ったモノたちはみな関節を折られていた
赤く腫れた空にだらりと首を垂れてぶら下がっていた
「長いブーツを履いた雌犬」はある時代の風俗を連想させる。長いブーツを履いた若い女性があふれた時代があった。だが、だからといって、このことばが、その「時代」を要約したものかどうかはわからない。「雌犬」が「比喩」かどうかはわからない。
「司祭」や「定点観測」は「比喩」なのか。
この12行のなかには、何が過剰なのか。あるいは何かが省略されているために、その欠如が「過剰」のように見えてしまうのか--わからない。わからないけれど、「司祭」という名詞に「作動しなかった」という動詞がむすびつく瞬間、私は何かを感じる。(私の知っている「統辞法」が激しく揺さぶられ、何かが見えたような気がする。--錯覚だが、それを私は「見えた」と断言したい気持ちになる。)「司祭」と「定点観測」が「呼びかけあっている」ようにも感じる。「ホットケーキ」と「キーボード」の音の響き具合も、「呼びかけ」あうことばというものを意識しないことには納得できない。どんな脈絡があるのかわからないが、私は「ホットケーキ」と「キーボード」は「対」になっていると感じる。「司祭」と「定点観測」が「対」になっているように。
そして、この「対」--呼びかけ、呼びあう何かがことばを動かすいちばんの力だと感じる。
「統辞法」と「対位法」は、ことばの運動の「基本」なのだ。
これでは何を言ったことにもならないのだけれど。感想にはならないし、もちろん批評にもならない。ただ、私は感じるのである。そして、考えたのである。
この詩集の最初にでてきたM、O、Hという3人の男。それはとりあえず(?)3人であって、ほんとうはもっと多いかもしれない。その3人と北川は会った。つまり、3人のことばと向き合った。それは、それぞれ「ことば」の「統辞法」と向き合うということでもある。向き合ったときから、北川のことばは動きはじめる。「対位法」によって、動いてしまう。北川のことばが動けば、それに反応して3人のことばも動く。そうして、最初のことばというのは、次々に変化して、別なものになる。
北川は、そういうことばを追っている。書き留めている--書き留めながら、北川自身のことばをさらに更新している。新しくしている。
続・北川透詩集 (現代詩文庫) | |
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