北川透『海の古文書』(14)(思潮社、2011年06月15日発行)
「終章 大凶事昔暦」。その書き出し。
「そよ」の書き出しをそろえ、また1行の長さをそろえることで、「リズム」と「定型」をつくり、「そよ」にぶら下がっている(?)ことばを自在に揺さぶってしまう。これは前の章の書き出しと同じである。ここには「詩歌は凶事の予告」という「意味」も書かれているが、その「意味」が単純になるのを防ぐために、定型を利用して、ことばに羽目を外させている。どんなに羽目を外しても「定型」があるので、読んでいる方が勝手に安心してしまう。--「定型」を守るために工夫されたことばの動き、それを制御する力に安心して、北川を信じてしまう。
この、安直な(?)信頼が、詩にとっていいことかどうかわからないが。
と書きながら、私は、確かにそこに北川のことばの魅力を感じている。
「詩歌とは凶事の予告」のような「意味」はここにはない。そのかわりに、無意味な「音楽がある。リズムがある。「勿忘草の塵の籠」が何を意味しているのか知らないけれど、その音は、その直前の「ひーふーみー」という日本語の数字の数え方を、ぱっと叩き割る。漢字のせいかな? 「ちりのかご」の「ご」の濁音の強さのせいかな? 何かよくわからないけれど、このことばの調子がおもしろいのである。
「統辞法」について、何回か書いたけれど、もしかすると「統音法」というものがことばにあるのかもしれない。それは、音楽のことばでいえば「対位法」になるのかな? --もしそうだとしても、これは私のような音痴にはとても分析・説明できない何かだなあ。
ということは、おいておいて。
いや、ほんとうは、いま書いた「統辞法」「統音法(対位法)」について書くことが北川の詩に迫る「本筋」(本道)なのだろうけれど、私の手にはあまりすぎることなので、私に書ける感想だけを書いておく。
*
「終章」のこの部分で私が傍線を引いた部分は。
この部分の「何度でも繰り返すわ」である。ここでの「繰り返す」は、「意味」としては「わたしは老いた語り部の婆。狂言回しにして、単なることばの精なの。」ということを「繰り返す」ということ。だが、私はそれ以上のことを感じてしまう。すでに、何度も「わたし」がM、O、Hのことを「繰り返し」語っているからである。
北川は「わたしは……ことばの精である」ということを「繰り返している」のではない。それは確かに「繰り返し」だが、「繰り返し」には別なものもある。M、O、Hに関する「繰り返し」を思い出すとはっきりする。M、O、Hは最初から最後まで同じ人物ではない。Hは最初は「第三の男」と呼ばれていた。「第三の男」はHと呼び直されている。また、三人のことは、いつもいつも同じことが語られるのではない。毎回、違うことが語られる。違うといっても、完全に違うわけではないが……。
こういう「繰り返し」のことを何と言うか。
「語り直し」。
「語り直し」とはすでに語られたことを「修正」するということと、もう一度「語り」を「繰り返す」ということの、2種類がある。そして、それは、自然に「ひとつ」のことになる。「繰り返す」うちに、「ずれ」が生まれ、その「ずれ」を修正しないことには「語り」を「繰り返す」ことができない。
「繰り返し」は「語り直し」を含み、「語り直し」は「繰り返す」を含む。そして、そのとき「繰り返す・語り直す」ことがらは、自分のことばだけではない。他人と出会えば、他人のことばを「繰り返す・語り直す」、つまり、他人のことばからどんなことがらを「引き継いだ」かを自分のことばで点検する。そこでは他人と「わたし」の交渉がある。「対話」がある。
「繰り返す・語り直す」というのは「対話」なのである。北川がこの詩で書いているのは、「対話」なのである。話者がそれぞれ「独白」しているように見えても、その「独白」にはどうしても誰かがいったことを踏まえ、それをどう考えたかという視点が動いているから「対話」になるのである。
「繰り返す・語り直す」--そのことを北川は、次のように言い換えている。
「わたしがいくらかでも語れたのは」。これは「繰り返すことができたのは」と同じ意味である。「騙り直すことができたのは」と同じ意味である。
そして、この「繰り返し・語り直し」は、「ずれ」を最初から含んでいる。修正すべきものを含んでいる。なぜなら、「わたし」が「繰り返す・語り直す」対象としての「ことば(声)」は「饒舌な沈黙」という「矛盾」そのものだからである。「わたし」が聞き取るのは--つまり、「ことばの精を預け」るのは、「饒舌な沈黙」という「矛盾」そのものである。「矛盾」はそのままでは「ことば」にならない。どうしても何らかの「修正」をしないことには、「沈黙」はことばにならない。「いいたいことがありすぎて、逆にことばがことばを邪魔して沈黙してしまう、沈黙するしかない状態」のなかへ深く入り込んで、その「ことば・声」を「繰り返す」「語り直す」。
それは、「影たちの声」であると同時に、「声変わりしたわたしのことば」ということになる。「わたし」が死者達になり、死者が「わたし」になる。ことばのなかで、「わたし」と「他者」が区別のつかない存在に「なる」。
「なる」ための方法として「繰り返す・語り直す」があるのだ。
「繰り返す・語り直す」という行為の中で、「饒舌な沈黙」が、「沈黙」としてではなく、そのときの「世界」として浮かび上がる。「繰り返す・語り直す」まで「世界」は「饒舌な沈黙」だが、「繰り返す・語り直す」とき、「沈黙」がことばにかわるのだ。
「時代の風景」( 134ページ)が、そこに浮かび上がるのだ。
これが、北川の書きたかったことだ、と、わかる。
あ、でも、私は、こういう「意味」を語りたくない。私は北川とは同じ立場で「時代」を見てきたわけではないので、「時代の風景」(時代のことばの風景)について語るには、私自身が、まず、北川がこの作品でやったような「語り直し」をしてみないことには、何も始まらないという気がする。
「時代の風景」に関しては、私ではないひとのほうがはるかに正確に語ることができるだろうと思う。--私はもともと「時代の風景」というようなものが、とても苦手なのである。
*
で。
「終章」で私が気に入った部分について、ふたたび書きたい。
前半の部分には、「時代の風景」が書かれているのだろう。後半は、そこに「時代の風景」が書かれているかどうか私にはわからないが、「ぞうさんぞうさん」以後が私はとても好きだ。
「ぞ」うさん「ぞ」うさん、おはながながくてどうしたの。そうよおまえのかかぁだって「ぞ」うはんゆうりするのだ「ぞ」。この「ぞ」の繰り返しが好きである。「象さん」と「造反」が韻を踏むのが楽しい。「ぞうはんゆうり」は「造反遊離」なのだろうけれど、この「ぞうはんゆうり」の音そのものの響きがいいし、「ゆうり」の音が美しく、「ぞうは」の音のリズムと「ん」を挟んで対象になる感じがすばらしい。(これって、対位法?)
「ぞうはんゆうり」に、私は西脇順三郎の「音楽」に共通するものを感じた。
「終章 大凶事昔暦」。その書き出し。
そよ 詩歌とは凶事の予告 されど冬のはじめの時雨を歓んでいる
そよ そよ 雄猫が雌猫を仮装するとて 薄化粧するは気味わるし
そよ 猫さえも そよや やややや えいそりゃ 昔好みの本歌鶏
そよ 鳴かぬ鳴けぬか一番鶏 鳴いてるのはカオスの闇の黒猫ども
「そよ」の書き出しをそろえ、また1行の長さをそろえることで、「リズム」と「定型」をつくり、「そよ」にぶら下がっている(?)ことばを自在に揺さぶってしまう。これは前の章の書き出しと同じである。ここには「詩歌は凶事の予告」という「意味」も書かれているが、その「意味」が単純になるのを防ぐために、定型を利用して、ことばに羽目を外させている。どんなに羽目を外しても「定型」があるので、読んでいる方が勝手に安心してしまう。--「定型」を守るために工夫されたことばの動き、それを制御する力に安心して、北川を信じてしまう。
この、安直な(?)信頼が、詩にとっていいことかどうかわからないが。
と書きながら、私は、確かにそこに北川のことばの魅力を感じている。
そよ 手鞠取れとれ まひとつふたつ そよや みつよついつむつ
そよ そよや ななつるやつる そよ ここのほんほ とをんえよ
そよ ややや ころころ こんろり 手鞠飛び跳ね勿忘草の塵の籠
「詩歌とは凶事の予告」のような「意味」はここにはない。そのかわりに、無意味な「音楽がある。リズムがある。「勿忘草の塵の籠」が何を意味しているのか知らないけれど、その音は、その直前の「ひーふーみー」という日本語の数字の数え方を、ぱっと叩き割る。漢字のせいかな? 「ちりのかご」の「ご」の濁音の強さのせいかな? 何かよくわからないけれど、このことばの調子がおもしろいのである。
「統辞法」について、何回か書いたけれど、もしかすると「統音法」というものがことばにあるのかもしれない。それは、音楽のことばでいえば「対位法」になるのかな? --もしそうだとしても、これは私のような音痴にはとても分析・説明できない何かだなあ。
ということは、おいておいて。
いや、ほんとうは、いま書いた「統辞法」「統音法(対位法)」について書くことが北川の詩に迫る「本筋」(本道)なのだろうけれど、私の手にはあまりすぎることなので、私に書ける感想だけを書いておく。
*
「終章」のこの部分で私が傍線を引いた部分は。
……何度でも繰り返すわ。わたしは老いた語り部の婆。狂言回しにして、単なることばの精なの。
この部分の「何度でも繰り返すわ」である。ここでの「繰り返す」は、「意味」としては「わたしは老いた語り部の婆。狂言回しにして、単なることばの精なの。」ということを「繰り返す」ということ。だが、私はそれ以上のことを感じてしまう。すでに、何度も「わたし」がM、O、Hのことを「繰り返し」語っているからである。
北川は「わたしは……ことばの精である」ということを「繰り返している」のではない。それは確かに「繰り返し」だが、「繰り返し」には別なものもある。M、O、Hに関する「繰り返し」を思い出すとはっきりする。M、O、Hは最初から最後まで同じ人物ではない。Hは最初は「第三の男」と呼ばれていた。「第三の男」はHと呼び直されている。また、三人のことは、いつもいつも同じことが語られるのではない。毎回、違うことが語られる。違うといっても、完全に違うわけではないが……。
こういう「繰り返し」のことを何と言うか。
「語り直し」。
「語り直し」とはすでに語られたことを「修正」するということと、もう一度「語り」を「繰り返す」ということの、2種類がある。そして、それは、自然に「ひとつ」のことになる。「繰り返す」うちに、「ずれ」が生まれ、その「ずれ」を修正しないことには「語り」を「繰り返す」ことができない。
「繰り返し」は「語り直し」を含み、「語り直し」は「繰り返す」を含む。そして、そのとき「繰り返す・語り直す」ことがらは、自分のことばだけではない。他人と出会えば、他人のことばを「繰り返す・語り直す」、つまり、他人のことばからどんなことがらを「引き継いだ」かを自分のことばで点検する。そこでは他人と「わたし」の交渉がある。「対話」がある。
「繰り返す・語り直す」というのは「対話」なのである。北川がこの詩で書いているのは、「対話」なのである。話者がそれぞれ「独白」しているように見えても、その「独白」にはどうしても誰かがいったことを踏まえ、それをどう考えたかという視点が動いているから「対話」になるのである。
「繰り返す・語り直す」--そのことを北川は、次のように言い換えている。
どの空部屋にも、死者たちの薄暗い影が幾重にも折り重なっている。わたしがいくらかでも語れたのは、これらの無数の影たちの饒舌な沈黙に、ことばの精を預けていたからでしょう。ほら、聞こえてくる。あれは影たちの騙り、声変わりしたわたしのことばで……。
「わたしがいくらかでも語れたのは」。これは「繰り返すことができたのは」と同じ意味である。「騙り直すことができたのは」と同じ意味である。
そして、この「繰り返し・語り直し」は、「ずれ」を最初から含んでいる。修正すべきものを含んでいる。なぜなら、「わたし」が「繰り返す・語り直す」対象としての「ことば(声)」は「饒舌な沈黙」という「矛盾」そのものだからである。「わたし」が聞き取るのは--つまり、「ことばの精を預け」るのは、「饒舌な沈黙」という「矛盾」そのものである。「矛盾」はそのままでは「ことば」にならない。どうしても何らかの「修正」をしないことには、「沈黙」はことばにならない。「いいたいことがありすぎて、逆にことばがことばを邪魔して沈黙してしまう、沈黙するしかない状態」のなかへ深く入り込んで、その「ことば・声」を「繰り返す」「語り直す」。
それは、「影たちの声」であると同時に、「声変わりしたわたしのことば」ということになる。「わたし」が死者達になり、死者が「わたし」になる。ことばのなかで、「わたし」と「他者」が区別のつかない存在に「なる」。
「なる」ための方法として「繰り返す・語り直す」があるのだ。
「繰り返す・語り直す」という行為の中で、「饒舌な沈黙」が、「沈黙」としてではなく、そのときの「世界」として浮かび上がる。「繰り返す・語り直す」まで「世界」は「饒舌な沈黙」だが、「繰り返す・語り直す」とき、「沈黙」がことばにかわるのだ。
「時代の風景」( 134ページ)が、そこに浮かび上がるのだ。
これが、北川の書きたかったことだ、と、わかる。
あ、でも、私は、こういう「意味」を語りたくない。私は北川とは同じ立場で「時代」を見てきたわけではないので、「時代の風景」(時代のことばの風景)について語るには、私自身が、まず、北川がこの作品でやったような「語り直し」をしてみないことには、何も始まらないという気がする。
「時代の風景」に関しては、私ではないひとのほうがはるかに正確に語ることができるだろうと思う。--私はもともと「時代の風景」というようなものが、とても苦手なのである。
*
で。
「終章」で私が気に入った部分について、ふたたび書きたい。
せいぎだの、しんじつだの、よくあつされたもののみかただの、しんのてきだの、うえたもののれきだいのいこんをはらすだの、じんみんかいほうぐんせいしばんざいだの、かみのみつかいだの、ぞうさんぞうさん、おはながながくてどうしたの。そうよおまえのかかぁだってぞうはんゆうりするのだぞ。
前半の部分には、「時代の風景」が書かれているのだろう。後半は、そこに「時代の風景」が書かれているかどうか私にはわからないが、「ぞうさんぞうさん」以後が私はとても好きだ。
「ぞ」うさん「ぞ」うさん、おはながながくてどうしたの。そうよおまえのかかぁだって「ぞ」うはんゆうりするのだ「ぞ」。この「ぞ」の繰り返しが好きである。「象さん」と「造反」が韻を踏むのが楽しい。「ぞうはんゆうり」は「造反遊離」なのだろうけれど、この「ぞうはんゆうり」の音そのものの響きがいいし、「ゆうり」の音が美しく、「ぞうは」の音のリズムと「ん」を挟んで対象になる感じがすばらしい。(これって、対位法?)
「ぞうはんゆうり」に、私は西脇順三郎の「音楽」に共通するものを感じた。
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