川口晴美「幻のボート」(「現代詩手帖」2013年03月号)
川口晴美「幻のボート」は、川口の高校時代の思い出とアン・リー監督「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227 日」を交錯させた作品である。高校のボート部の練習を見ながら、もしボートで孔雀、猿、羊、馬、虎と漂流するとしたら。そして、その動物を一匹ずつ捨てなければならないとしたら、どういう順序で捨てるか--そういうことを想像する。
川口は最後まで虎は捨てないだろうと言う。
「食い殺すかもしれない」と想像し、「そうかもしれない」とそれを肯定し、「そうかもしれないけれど」とその肯定の向こうへ進んでいく。
この感じがいい。
想像の向こうには何がある? 想像を加速させると、どこへ飛び出す? 抽象へ? 形而上学へ? 哲学へ?
そうではなくて、「肉体」へぶつかる。
この描写は、たとえば前半の、ボート部が練習する川の描写と比べると、とても「親身」がある。
ここには視力の幻想があるけれど、肉体がない。「ひたひたと夜が近づく」って、その「ひたひた」は何? 足音? ボートなのに? 水の流れの「ひたひた」?
よくわからない。わからないのは、そこに「肉体」がなくて、「頭」が動いているからだ、「頭」でことばを動かしているからだ、と私は思う。
それに比べると、「く の字みたいに重なって」の「く」でさえ「視力」を超えている。自分が「くの字」になっているのを自分の目で見ることはできない。その「く」は「肉体」の全身でつかんでいる「く」である。「視覚」さえ、頭から足までの全身に共有されている。
虎に食われることは腹に「仕舞われる」ことであり、「仕舞われる」(大事にされる)という形で、「わたし」と虎は一体になる。「わたし」は虎そのものになる。「背中は虎のかたい毛皮に覆われ」る。その「かたい」がいいなあ。少しも「硬く」ない。「かたい」と書くと、それは「やわらかい」。その「かたい=やわらかい」の矛盾のなかに、「肉体」がある。言い換えると。自分の肉体を外部から「かたく」守る。守るために「かたい」。それが「かたい」から肉体の内部、毛皮の内部は「やわらかい」ということが、「かたい」のなかに結びついている。その「かたい」と深く結びついたやわらかさを、虎のしなやかさを、川口は全身で感じる。「わたし」は虎になる。
そのあと、川口は「捨てる」ということについて考える。突然、ことばが「捨てる」という「こと」の方向へ動いていく。「虎」と一体になった「わたし」。そのとき「捨てる」とはどういうことなのだろうか……。
「わたし」の肉体の外にあるもの、肉体以外のもの、鞄、制服、「頭」でつかった教科書(学科)を捨てるというこの数行がこの作品のもうひとつのハイライトだと思うが、ここにも先に触れた部分と同じようなことばの動きがある。
「忘れる/忘れない」ということばの繰り返しがあって、同じことばを繰り返しながら、次元を変える。次元が変わる。何かが飛躍する。飛躍しながら「忘れる」ということばで接続する。その切断と接続。
その「わすれない/こと」を「わたしのいちぶになっている」と川口は言う。ちょうど虎の腹に仕舞われて、虎の一部になってしまったように。そして、その「一部」は「一部」であるけれど、切り離せない。「くの字」の体のように、全体であることによって「一部」がなりたっている。鞄をもったこと、制服を着たこと、教科書を開き、読んだこと--その「持つ」「着る」「開く」「読む」という動詞が肉体である。
動詞と動詞を具体化する肉体は残る。肉体は動詞を覚えている。動詞はそれぞれの動詞によって肉体の「一部」をつかう(持つなら手、読むなら目という具合に)が、それが「一部」であるからといって切り離せない。
「一部」が絶対に「切り離せない」ものだとするならば、それは「捨てた」ことにはならない。だとしたら、虎に食べられ、虎の一部になるということは、自分を捨てるということにはならない。生きつづけるということになる。
あ、そんなふうに理屈っぽく書いているわけではないのだけれど、まあ、そういうことだろうなあ。
で、やっぱりいちばんおもしろいのは「く の字みたいに重なって」だね。その「く」をとらえる「肉体」。あらゆる「一部」がつながって、「目」を超えて「目」になる。これが、たぶん、「覚える」ということ。「捨てない」ということなんだろうなあ。
川口晴美「幻のボート」は、川口の高校時代の思い出とアン・リー監督「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227 日」を交錯させた作品である。高校のボート部の練習を見ながら、もしボートで孔雀、猿、羊、馬、虎と漂流するとしたら。そして、その動物を一匹ずつ捨てなければならないとしたら、どういう順序で捨てるか--そういうことを想像する。
川口は最後まで虎は捨てないだろうと言う。
わたしの虎はわたしを食い殺すだろうか
そうかもしれない
そうかもしれないけれど死ぬときはボートの底に寄り添って
横たわるふたつの く の字みたいに重なって
わたしの背中はかたい毛皮で覆われ
虎のお腹にわたしは仕舞われる
「食い殺すかもしれない」と想像し、「そうかもしれない」とそれを肯定し、「そうかもしれないけれど」とその肯定の向こうへ進んでいく。
この感じがいい。
想像の向こうには何がある? 想像を加速させると、どこへ飛び出す? 抽象へ? 形而上学へ? 哲学へ?
そうではなくて、「肉体」へぶつかる。
この描写は、たとえば前半の、ボート部が練習する川の描写と比べると、とても「親身」がある。
沈みかける日の光に照らされて眩しい水が
揺れながら薔薇色を川間で滲ませていく
ひたひたと夜が近づく
ここには視力の幻想があるけれど、肉体がない。「ひたひたと夜が近づく」って、その「ひたひた」は何? 足音? ボートなのに? 水の流れの「ひたひた」?
よくわからない。わからないのは、そこに「肉体」がなくて、「頭」が動いているからだ、「頭」でことばを動かしているからだ、と私は思う。
それに比べると、「く の字みたいに重なって」の「く」でさえ「視力」を超えている。自分が「くの字」になっているのを自分の目で見ることはできない。その「く」は「肉体」の全身でつかんでいる「く」である。「視覚」さえ、頭から足までの全身に共有されている。
虎に食われることは腹に「仕舞われる」ことであり、「仕舞われる」(大事にされる)という形で、「わたし」と虎は一体になる。「わたし」は虎そのものになる。「背中は虎のかたい毛皮に覆われ」る。その「かたい」がいいなあ。少しも「硬く」ない。「かたい」と書くと、それは「やわらかい」。その「かたい=やわらかい」の矛盾のなかに、「肉体」がある。言い換えると。自分の肉体を外部から「かたく」守る。守るために「かたい」。それが「かたい」から肉体の内部、毛皮の内部は「やわらかい」ということが、「かたい」のなかに結びついている。その「かたい」と深く結びついたやわらかさを、虎のしなやかさを、川口は全身で感じる。「わたし」は虎になる。
そのあと、川口は「捨てる」ということについて考える。突然、ことばが「捨てる」という「こと」の方向へ動いていく。「虎」と一体になった「わたし」。そのとき「捨てる」とはどういうことなのだろうか……。
最初に捨てたのは黒い鞄だった
制服も捨てた
しばらくしてから教科書もぜんぶ
ぶつりげんだいこくごすうがくちりせかいしにほんしえいごせいぶつかがく
紙と紙に記された文字にすぎないものはなくなって
習い覚えたことも大半は忘れていくけれど
忘れないこともあって
それはたぶんわたしのいちぶになっているから切り離せないそれでも
捨てたということになるのだろうか
「わたし」の肉体の外にあるもの、肉体以外のもの、鞄、制服、「頭」でつかった教科書(学科)を捨てるというこの数行がこの作品のもうひとつのハイライトだと思うが、ここにも先に触れた部分と同じようなことばの動きがある。
大半は忘れていくけれど
忘れないこともあって
「忘れる/忘れない」ということばの繰り返しがあって、同じことばを繰り返しながら、次元を変える。次元が変わる。何かが飛躍する。飛躍しながら「忘れる」ということばで接続する。その切断と接続。
その「わすれない/こと」を「わたしのいちぶになっている」と川口は言う。ちょうど虎の腹に仕舞われて、虎の一部になってしまったように。そして、その「一部」は「一部」であるけれど、切り離せない。「くの字」の体のように、全体であることによって「一部」がなりたっている。鞄をもったこと、制服を着たこと、教科書を開き、読んだこと--その「持つ」「着る」「開く」「読む」という動詞が肉体である。
動詞と動詞を具体化する肉体は残る。肉体は動詞を覚えている。動詞はそれぞれの動詞によって肉体の「一部」をつかう(持つなら手、読むなら目という具合に)が、それが「一部」であるからといって切り離せない。
「一部」が絶対に「切り離せない」ものだとするならば、それは「捨てた」ことにはならない。だとしたら、虎に食べられ、虎の一部になるということは、自分を捨てるということにはならない。生きつづけるということになる。
あ、そんなふうに理屈っぽく書いているわけではないのだけれど、まあ、そういうことだろうなあ。
で、やっぱりいちばんおもしろいのは「く の字みたいに重なって」だね。その「く」をとらえる「肉体」。あらゆる「一部」がつながって、「目」を超えて「目」になる。これが、たぶん、「覚える」ということ。「捨てない」ということなんだろうなあ。
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