詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(70)

2015-05-27 21:10:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(70)

117 決別

 「ぼく」と「きみ」が出てくる。

きみは日にたつた一度だけきみではない時がある
その短いあいだにぼくはすばやくきみを脱け出してしまう

 「ぼく」と「きみ」は同一人物である。「ぼく」が「きみ」を脱け出すとは、「ぼく」が「故郷」を脱け出すという具合にも読むことができる。
 「きみ=故郷」は日に一度「きみ」ではなく「ぼく」になる。「故郷」を脱け出していくことを夢見る「ぼく」に。そのとき「きみ」はどうしているか。

狂つた麦の野でいつまでも睡りつづけるきみよ
衰えた太陽を悲しげに抱いているきみよ
ぼくは遠くからきみを振りかえつて
ふたたび背をむける

 「麦の野」で眠ってる。この「きみ」を「故郷」と言いなおすと、

狂つた麦の野でいつまでも睡りつづける故郷よ
衰えた太陽を悲しげに抱いている故郷よ
ぼくは遠くから故郷を振りかえつて
ふたたび背をむける

 故郷を捨てる嵯峨の姿がくっきりと見えてくる。「狂つた」とか「悲しげ」という否定的な修辞がついてまわっているのは、「故郷」を切り捨てるための「方便」、自分を納得させるための「方便」である。
 「故郷」と書かずに「きみ」と書いたのは「故郷」を人称化しているということだけではない。「ぼく」の「分身=きみ」は、「ぼく」が去ったあともずっと「故郷」にいるからである。
 この詩は実際に嵯峨が故郷を離れるときに書いたのではなく、故郷を離れててから書いたものだろう。それなのに、いま、まさに故郷を離れるときの切なさがあふれているのは、「ぼく」の分身の「きみ」がいまも故郷にいるからにほかならない。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社


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