長田弘『最後の詩集』(15)(みすず書房、2015年07月01日発行)
「One day 」は「Forever and a day 」の「a day 」を言い直したもの。「永遠と一日」の「一日」。「一日のおまけ付きの永遠」、「永遠のおまけである/一日」と長田は言い直している。
「永遠」とは何だろう。この詩集のなかでは「一瞬」を「充実させたもの」という形で表現されていたと思う。「充実」を人間の側(行動する側)から言い直すと「ただに」「ひたすら」「熱心」に行動するということにつながる。そして、そんなふうに「無骨に生きる人たち」(アレッシオ)が作り上げたのが「世界」なのだから、「永遠」とは長田が見ている「世界の美しさ」そのもののように感じられる。
そのとき「一日」とは何だろう。
私には、あらかじめ目の前にひろがっている「世界」ではなく、長田が自分で充実させる「世界」のように思える。目の前にある「世界」のなかへ参加していく「長田の世界」。「永遠」のなかへ参加していく「長田の一日」。
「永遠」は「長田の一日」を受けいれてくれる。「永遠」が「おまけ」をくれるのではなく、「永遠」が長田を「おまけ」として受けいれてくれる。そんな感じに読めてしまう。
でも「おまけ」になるためには条件がある。「一日」を充実させなければいけない。「充実」させることで、その「一日」が「永遠」につながり、それがまた次の「一日」の充実を誘う。「充実」させることをやめると、「永遠」と「一日」は離れてしまう。「永遠」と無関係な「一日」になってしまう。「永遠と一日」というとき、その「一日」は「永遠」と連続していないといけないのだ。
長田はどんなふうにして「一日」を充実させたのか。
「変わらぬ千年の悲しみ」とは「永遠の悲しみ」。「永遠」に結びつくとき「昔」と「今」は「同じもの(ひとつのもの)」になる。「一体」になる。これは、長田が書きつづけている「真実」である。
この詩のなかで、印象深いのは、そういう「論理」ではなく、ここに「本」が出てくることである。
長田は「本をひらく人」なのだ。ここに書かれているのは「自画像」なのだ。「本をひらく」とは「紙の上の文字を辿る」ことである。ことばを読むことである。そして、それは「知る」ということだ。
「知る」ということばは「詩って何だと思う?」のなかに出てきた。
詩は、ことばで書かれている。だから、この二行は、
ということになる。さらにいえば、空の色を語るのにふさわしい、充実したことばが必要なのだ。そのことばを通して「空の色」を「知る」。こんなふうにして語ると「空の色」は「空の色になる」ということを「知る」。
「ことば」には「知る」が凝縮している。「知る」がつまっている。「知る」が、「知ったこと」が、「充実」している。「ことば」には、たとえば「千年(前)の悲しみ」が「変わらぬ」まま、存在している。それに気づく。発見する。そして、それに「同意する」、あるいは「共感する」。それが「知る」なのだ。
読書家の長田の姿が、ここに静かに語られているだ。
「人生」は「一日」ではない。「ハッシャバイ」のなかで長田は「人生」は「三万回のおやすみなさい(三万日)」でできている、と書いている。けれど、その「三万日(永遠/長い時間)」を「一日(一瞬)」として「充実」させるために、本を読む。ことば(詩)を読む。そして、その「一日」が「永遠の一日」と重なることを「知る」(実感する)のである。
本を「読む」、「知る」。このことを長田はまた別のことばで書いている。詩のあとに収録されている「日々を楽しむ」という六篇のエッセイ。そのなかの「探すこと」という作品。
探すこと。ときどきふと、じぶんは人生で何にいちばん時間をつかってきたか考える。答えはわかっている。いつもいちばん時間をつかってきたのは、探すことだった。
「読む」「知る」は「探す」ことなのである。何を探すか。「ことば」である。ことばを「探して」、ことばに出会って、ことば「発見する(気づく)」。そのことき「探す」が「知る」になる。ことばを「知る」。ことばを「知る」ことは、自分の位置がわかること。自分が「世界」の一員になることだ。
長田は「ことば」を「探す」とは書いていないが、こんなふうに「ことば」を補って読むと、長田の生き方がわかる。
「ことば」を省略してしまうのは、それが長田にとってはわかりきったことだからだ。わかりきっているので、明示することを忘れてしまう。「無意識」になって「肉体」にしみついている。こういうことばを私はキーワードと読んでいるが、おさだにとってのそれは「ことば」なのだ。
でも、そうやって本を読み、「ことば」を知ることで世界の一員になるだけでは、たぶん、だめなのだ。一員になって、その一員であること、個のあり方を充実させないと、一員ではいられない。一員でありつづけることはできない。ほんとうに世界に参加したことにはならないのだ。「長田自身のことば」を充実させるとき、世界も充実する。「一日」を充実させるとき「永遠」も充実する。「充実する/充実させる」という「動詞」のなかで、「永遠」と「長田の一日(ことば)」は溶け合う。
理屈っぽく書きすぎたかもしれない。長田の張り詰めたことばに理屈を差し挟むことで、いびつな隙間をつくってしまったかもしれない。少し反省している。
*
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
「One day 」は「Forever and a day 」の「a day 」を言い直したもの。「永遠と一日」の「一日」。「一日のおまけ付きの永遠」、「永遠のおまけである/一日」と長田は言い直している。
「永遠」とは何だろう。この詩集のなかでは「一瞬」を「充実させたもの」という形で表現されていたと思う。「充実」を人間の側(行動する側)から言い直すと「ただに」「ひたすら」「熱心」に行動するということにつながる。そして、そんなふうに「無骨に生きる人たち」(アレッシオ)が作り上げたのが「世界」なのだから、「永遠」とは長田が見ている「世界の美しさ」そのもののように感じられる。
そのとき「一日」とは何だろう。
私には、あらかじめ目の前にひろがっている「世界」ではなく、長田が自分で充実させる「世界」のように思える。目の前にある「世界」のなかへ参加していく「長田の世界」。「永遠」のなかへ参加していく「長田の一日」。
「永遠」は「長田の一日」を受けいれてくれる。「永遠」が「おまけ」をくれるのではなく、「永遠」が長田を「おまけ」として受けいれてくれる。そんな感じに読めてしまう。
でも「おまけ」になるためには条件がある。「一日」を充実させなければいけない。「充実」させることで、その「一日」が「永遠」につながり、それがまた次の「一日」の充実を誘う。「充実」させることをやめると、「永遠」と「一日」は離れてしまう。「永遠」と無関係な「一日」になってしまう。「永遠と一日」というとき、その「一日」は「永遠」と連続していないといけないのだ。
長田はどんなふうにして「一日」を充実させたのか。
昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと
紙の上の文字を辿って
変わらぬ千年の悲しみを知る
昔とは今のことである
「変わらぬ千年の悲しみ」とは「永遠の悲しみ」。「永遠」に結びつくとき「昔」と「今」は「同じもの(ひとつのもの)」になる。「一体」になる。これは、長田が書きつづけている「真実」である。
この詩のなかで、印象深いのは、そういう「論理」ではなく、ここに「本」が出てくることである。
本をひらく人がいた頃
長田は「本をひらく人」なのだ。ここに書かれているのは「自画像」なのだ。「本をひらく」とは「紙の上の文字を辿る」ことである。ことばを読むことである。そして、それは「知る」ということだ。
「知る」ということばは「詩って何だと思う?」のなかに出てきた。
窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。
詩は、ことばで書かれている。だから、この二行は、
窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、ことばだ。
ということになる。さらにいえば、空の色を語るのにふさわしい、充実したことばが必要なのだ。そのことばを通して「空の色」を「知る」。こんなふうにして語ると「空の色」は「空の色になる」ということを「知る」。
「ことば」には「知る」が凝縮している。「知る」がつまっている。「知る」が、「知ったこと」が、「充実」している。「ことば」には、たとえば「千年(前)の悲しみ」が「変わらぬ」まま、存在している。それに気づく。発見する。そして、それに「同意する」、あるいは「共感する」。それが「知る」なのだ。
読書家の長田の姿が、ここに静かに語られているだ。
一日のおまけ付きの永遠
永遠のおまけである
一日のための本
人生がよい一日でありますように
「人生」は「一日」ではない。「ハッシャバイ」のなかで長田は「人生」は「三万回のおやすみなさい(三万日)」でできている、と書いている。けれど、その「三万日(永遠/長い時間)」を「一日(一瞬)」として「充実」させるために、本を読む。ことば(詩)を読む。そして、その「一日」が「永遠の一日」と重なることを「知る」(実感する)のである。
本を「読む」、「知る」。このことを長田はまた別のことばで書いている。詩のあとに収録されている「日々を楽しむ」という六篇のエッセイ。そのなかの「探すこと」という作品。
探すこと。ときどきふと、じぶんは人生で何にいちばん時間をつかってきたか考える。答えはわかっている。いつもいちばん時間をつかってきたのは、探すことだった。
「読む」「知る」は「探す」ことなのである。何を探すか。「ことば」である。ことばを「探して」、ことばに出会って、ことば「発見する(気づく)」。そのことき「探す」が「知る」になる。ことばを「知る」。ことばを「知る」ことは、自分の位置がわかること。自分が「世界」の一員になることだ。
長田は「ことば」を「探す」とは書いていないが、こんなふうに「ことば」を補って読むと、長田の生き方がわかる。
「ことば」を省略してしまうのは、それが長田にとってはわかりきったことだからだ。わかりきっているので、明示することを忘れてしまう。「無意識」になって「肉体」にしみついている。こういうことばを私はキーワードと読んでいるが、おさだにとってのそれは「ことば」なのだ。
でも、そうやって本を読み、「ことば」を知ることで世界の一員になるだけでは、たぶん、だめなのだ。一員になって、その一員であること、個のあり方を充実させないと、一員ではいられない。一員でありつづけることはできない。ほんとうに世界に参加したことにはならないのだ。「長田自身のことば」を充実させるとき、世界も充実する。「一日」を充実させるとき「永遠」も充実する。「充実する/充実させる」という「動詞」のなかで、「永遠」と「長田の一日(ことば)」は溶け合う。
理屈っぽく書きすぎたかもしれない。長田の張り詰めたことばに理屈を差し挟むことで、いびつな隙間をつくってしまったかもしれない。少し反省している。
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。