和辻哲郎『日本古代文化』の「初版序」におもしろいことが書いてある。和辻はこの本を書くまで日本の古代文化のことを研究してきたわけではない。それでも書かずにはいられなかった。どういう立場で、書くか。
自分は、一個の「人間」として最も公平だと思われる立場に立って、自分の眼をもって材料に向かった。
この文章をどう読むかはひとによって違うだろうが、私は「公平」ということばにつきうごかされた。一個の人間として公平とはどういうことか。古代文化の研究をしている人間と、それをしてこなかった人間は「学問的」には「公平」ではない。前者は「知識」をもっている。後者は「知識」をもっていない。しかし、同じ人間だから「公平」に「眼」をもっている。その「公平である眼」をたよりに、つまり「知識」にたよらずに、古代文化に向き合った、というのである。
人間はだれでも眼をもっている。これは「公平」である。その「公平」をたよりに、和辻は考える。この眼を肉体と言い換えると、私がいつも書いていることに通じるのだが、あ、そうか、私は知らないうち和辻に影響されてそう考えるようになっていたのだと、あらためて気がつくのである。
和辻が「序」で書いた「眼」は「目」という表記にかわって、次のような強く、美しい文章になる。古代の日本人が漢に渡り、その生活を見て日本に戻ってくる。そのときの日本人を想像して、和辻は、こう書いている。
自ら海を渡って自らの目をもって漢人の生活を見て来たものは、いかに多く新しい知識を、いかに強く新しい情熱を、得て来たことであろう。
自分の「目で見る」、すると「情熱」が生まれる。目から情熱への変化。いったんは「知識」と書きながら、「情熱」と書き直さずにはいられない和辻。
私が和辻の文章が好きなのは、そこに「知識」が書かれているからではなく「情熱」が書かれているからだとあらためて思う。たとえば『ニイチェ研究』を読む、そうするとそこにはニイチェに関することが書かれている。そこから「知識」を得ることができる。でも、そこで得る「知識」を頼りにするくらいなら、ニイチェの本を直接読んだ方が早いだろう。しかし、和辻を読んでしまう。それは、そこに和辻のニイチェへの「情熱」が書かれているからだ。私はいつでも「知識」ではなく、「情熱」を読んでいるのだと思う。
脱線するが。
私はいまイタリアの青年と一緒に向田邦子の『父の詫び状』を読んでいる。そのなかの「隣の神様」に、こんな一行がある。
私は四十年にわたって、欠点の多い父の姿を娘の目で眺めてきた。
ここにも「目」がある。向田は「公平な目」とは書かずに「娘の目」と書いているのだが、私はやっぱり「一個の人間として公平な目」だと思う。このとき「公平」とは「客観的」といういう意味ではない。人間ならだれでも肉親を愛してしまう。そういう「必然」を「公平」と、私は呼びたいのである。
そして人間の「必然」というのは「愛情」のことなのだ。愛してしまう、ということなのだ。
ここから強引にひるがえって言えば。
和辻は「日本の古代文化」を愛してしまったのだ。だから本を書かずにいられなかったのだ。「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。でも、だからこそ(つまり他人から批判されるのはあたりまえの部分があるからこそ)、そこには他人にはどうすることもできない「一個の人間」としての「正しさ」がある。
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