(感想1からの続き)
とにかく、この作品は、緩急のつけ方が最高!
7月22日から24日の3日間を繰り返して、最終的には10周する。
ただし、回を追うごとに戻れる過去が近づいてくる、というタイムリミットつき。
つまり、いつまでもタイムリープ者の好きにはできない、ということ。
あわせて、確定した過去は覆せない、ということ。
やり直しできる範囲がどんどん狭まっていく。
その分、知恵を使わなければならない。
相手の数手先まで先読みして、相手が取れる選択肢を狭めなければならない。
知略戦の横行。
しかも状況は時々刻々変わっていく。
実際、慎平&ウシオから見れば、常に一進一退。
とりわけ
3周目の絶望
4周目の無念
5周目からの容赦ない追撃
によって、圧倒的に劣勢を強いられる
なかでも、ウシオの消失とひづるの死は決定的にマズイ状況を生み出すが、9周目におけるウシオの奇跡的な復活とともに物語は一気に加速し最終局面へ流れ込む。
それにしても、この終盤の9周目から10周目にかけての一気呵成ぶりには、ホントしびれたw
もう読み進めるしかない!って感じでグイグイいく!
で、最後に覚醒したウシオが、第1話への円環をつくる。
ウシオは、潮のコピー、いわばニセモノだが、ニセモノ故に本物の「潮」なら絶対にこれをやるはず、ということをとことん突き止めて、実行に移す。
そのあたりは、西尾維新の『偽物語』に出てきた貝木泥舟の「ニセモノこそが本物に近づきやがては凌駕する」という理論そのもの。
実際、ウシオはオリジナルの「潮」と比べても不思議な存在で、
肉体的な素体、すなわち物質的な素体は、
ハイネの右目ならびにその右目に伴う異能と、
ハイネのオリジナルであった雁切波稲の良心
をともにもった存在としてつくられ、
そこに魂として、オリジナルの「潮」の真っ直ぐな正義感と慎平への愛情が上乗せされた存在。
その意味では、ウシオって実は「潮」以上の存在なんだよね、ポテンシャルとして。
潮以外の要素も持ち合わせたハイブリッド。
そのハイブリッドな肉体的存在を、「潮」の魂が操っていた、という感じで。
「潮」自体は、いわば「魂」だけで戦っていたようなものだけど、イレギュラーな「影」の肉体のスペックによって、それ以上の成果を見せる。
加えて、影のウシオも慎平とループを繰り返すうちにどんどん成長していく。
だから、終盤になるとウシオは、魂的にも「潮」であって「潮」ではない状態になる。
「潮」の魂が経験を積んで成長していくから。
で、ここで哲学的に面白いのは、成長したウシオは、当然、コピー直後のオリジナルの「潮」とは異なるはずなのだけど、でも、人格としての同一性(アイデンティティ)を保っていると、本人も周りの人間も思ってしまうところで。
つまり、人格の同一性は、成長という変化も織り込み済みのものなのだ、ということで。
だったら、影の身体だけどウシオはやっぱり「潮」でいいじゃん、ってことになるわけで。
そういう、ふとした時に思いつく知的面白さもあるんだよね。
もっとも、そのために仕込まれたのが、作中の『沼男』という小説なのだけど。
ああいう形で、読者の解釈を誘導するところも作風として上手いなぁ、と思ってしまったんだよね。
ああしたメタ読みを促さすガジェットの配置も、緩急のうまさに一役買っているのは間違いない。
とにかく、この作品は、緩急のつけ方が最高!
7月22日から24日の3日間を繰り返して、最終的には10周する。
ただし、回を追うごとに戻れる過去が近づいてくる、というタイムリミットつき。
つまり、いつまでもタイムリープ者の好きにはできない、ということ。
あわせて、確定した過去は覆せない、ということ。
やり直しできる範囲がどんどん狭まっていく。
その分、知恵を使わなければならない。
相手の数手先まで先読みして、相手が取れる選択肢を狭めなければならない。
知略戦の横行。
しかも状況は時々刻々変わっていく。
実際、慎平&ウシオから見れば、常に一進一退。
とりわけ
3周目の絶望
4周目の無念
5周目からの容赦ない追撃
によって、圧倒的に劣勢を強いられる
なかでも、ウシオの消失とひづるの死は決定的にマズイ状況を生み出すが、9周目におけるウシオの奇跡的な復活とともに物語は一気に加速し最終局面へ流れ込む。
それにしても、この終盤の9周目から10周目にかけての一気呵成ぶりには、ホントしびれたw
もう読み進めるしかない!って感じでグイグイいく!
で、最後に覚醒したウシオが、第1話への円環をつくる。
ウシオは、潮のコピー、いわばニセモノだが、ニセモノ故に本物の「潮」なら絶対にこれをやるはず、ということをとことん突き止めて、実行に移す。
そのあたりは、西尾維新の『偽物語』に出てきた貝木泥舟の「ニセモノこそが本物に近づきやがては凌駕する」という理論そのもの。
実際、ウシオはオリジナルの「潮」と比べても不思議な存在で、
肉体的な素体、すなわち物質的な素体は、
ハイネの右目ならびにその右目に伴う異能と、
ハイネのオリジナルであった雁切波稲の良心
をともにもった存在としてつくられ、
そこに魂として、オリジナルの「潮」の真っ直ぐな正義感と慎平への愛情が上乗せされた存在。
その意味では、ウシオって実は「潮」以上の存在なんだよね、ポテンシャルとして。
潮以外の要素も持ち合わせたハイブリッド。
そのハイブリッドな肉体的存在を、「潮」の魂が操っていた、という感じで。
「潮」自体は、いわば「魂」だけで戦っていたようなものだけど、イレギュラーな「影」の肉体のスペックによって、それ以上の成果を見せる。
加えて、影のウシオも慎平とループを繰り返すうちにどんどん成長していく。
だから、終盤になるとウシオは、魂的にも「潮」であって「潮」ではない状態になる。
「潮」の魂が経験を積んで成長していくから。
で、ここで哲学的に面白いのは、成長したウシオは、当然、コピー直後のオリジナルの「潮」とは異なるはずなのだけど、でも、人格としての同一性(アイデンティティ)を保っていると、本人も周りの人間も思ってしまうところで。
つまり、人格の同一性は、成長という変化も織り込み済みのものなのだ、ということで。
だったら、影の身体だけどウシオはやっぱり「潮」でいいじゃん、ってことになるわけで。
そういう、ふとした時に思いつく知的面白さもあるんだよね。
もっとも、そのために仕込まれたのが、作中の『沼男』という小説なのだけど。
ああいう形で、読者の解釈を誘導するところも作風として上手いなぁ、と思ってしまったんだよね。
ああしたメタ読みを促さすガジェットの配置も、緩急のうまさに一役買っているのは間違いない。