紙飛行機のシーン、必要だったか?
なんか鬼殺隊がただの部活みたいになってきてむしろ気持ち悪い。
最後に、無一郎が炭治郎に、鬼舞辻無惨を倒そう、というのも、なんか違う気がする。
柱って、良くも悪くも、人の道をみな外していて、端から見たら多少なりとも人格破綻者だったと思うのだけど。
それが急にものわかりのよい「いい人」になっているのにも違和感がある。
それをいえば、前回から続く、風柱と蛇柱の夜稽古、というのも、え?柱ってそんなに馴れ合う人たちだったっけ?と疑問に思う。
多分、原作の雰囲気で言えば、それまで基本的には人格破綻者の集団だった柱が、お館様を殺されたことで、とにかく、無惨討つべし!ってなったところで、そして、実際に無惨や上弦の鬼と対峙したところで、主君の仇を果たす!という共通の目的から、その場で即興的に連携して鬼と戦う、というのが、かっこよかったと思っていたのだけど。
こんなに事前に会話を交わしていたら、むしろそういったクールさを損ねるだけじゃない?
それぞれが、それぞれの流儀の達人だからこそ、状況の要請から、その場で共同戦線をはれる。
だからこそ、一人ひとりのが柱がその道を極めた達人だった!って見てる側に実感させるところだと思うのだけど。
なんかそういう「溜め」を全部台無しにしていると思う。
もったいないなぁ。
何がいいたいかといえば、柱って、本来、皆、エゴイストで、互いに鬼の討伐数を競っているくらいでちょうどいい、ということ。
いやだって、炎柱だった、あの空気読まない日頃の発言や、どこを見ているかわからない目、そしてひたすら大飯ぐらい、という、破綻した性格をみせてきたところで、いざ、鬼の討伐になったら、とんでもない実力を示すから、クールだったわけじゃない。
そして、最後は、炭治郎たちを守って散っていった。
そのギャップの素晴らしさを、いまのところ、柱稽古編は台無しにしてるだけ。
こんなウェット関係を事前に描く必要はないんだよ。
ましてやモブの鬼殺隊員のことなんて。
あるとすれば、ほんとに、最後に炭治郎や柱を守るために肉壁になって殺されていくときに、なんらかの感情移入をさせるためくらいでしょ?
でも、それは必要あるの?って思うよ。
それに、彼らモブ隊員だって、入隊試験に通っているわけでしょ?
だとすれば、実力が柱たちに及ばないとしても、気持ちがあんなふうに弱くなっているのが理解できない。
鬼殺隊は、いったん入隊したら「ヌケニン」できないヤバいブラック集団とかの描写があれば別だけど。
つまり自分が弱いといっても脱退だきない縛りがあるなら別だけど。
ていうか、そういう非情さを描くなら、アニオリでも納得できるけど。
とにかく、仲良し部活みたいになっているのは、マジでいただけない。
あれじゃ、炭治郎や善逸、伊之助が突出しすぎている、とわざわざ示しているようなものじゃない。
炭治郎は、主人公補正で、日の呼吸に通じるヒノカミ神楽を無意識に習得していたり、その結果、一般隊員だけど「痣」ができていたり、ついでにいえば、禰豆子が鬼になっていたり、という特殊性があるのはわかるけど、善逸や伊之助は、才能はあるけど、一般の隊員でもあって、ただ、炭治郎のそばにいたから炭治郎に感化されてあそこまで実力を伸ばしてしまった、としておいてほしかったんだよなぁ。
つまり、炭治郎たち3人以外にも、善逸や伊之助に準じた実力者の隊員が数人くらいはいてもいいはずなのだけど。
でも、なまじモブ隊員の挙動にまで焦点を当てた作りにしてしまったから、モブ隊員が皆、不甲斐ないものになってしまった。
それ、鬼滅隊のイメージとだいぶ違うんだよね。
だといって、ここでアニオリでそんな実力者を出してしまったら終盤の物語が破綻してしまうからダメなのだけど。
ということで、さすがに、誰得?の柱稽古編になってきている気がする。
これ、3話ぐらいの、せいぜい60分とか70分とかの尺で一回の放送で済ますくらいが妥当だったんじゃない?
なんか余計なことをしてるなぁ。
普通に物語をぶち壊してるじゃない。
なんか鬼殺隊がただの部活みたいになってきてむしろ気持ち悪い。
最後に、無一郎が炭治郎に、鬼舞辻無惨を倒そう、というのも、なんか違う気がする。
柱って、良くも悪くも、人の道をみな外していて、端から見たら多少なりとも人格破綻者だったと思うのだけど。
それが急にものわかりのよい「いい人」になっているのにも違和感がある。
それをいえば、前回から続く、風柱と蛇柱の夜稽古、というのも、え?柱ってそんなに馴れ合う人たちだったっけ?と疑問に思う。
多分、原作の雰囲気で言えば、それまで基本的には人格破綻者の集団だった柱が、お館様を殺されたことで、とにかく、無惨討つべし!ってなったところで、そして、実際に無惨や上弦の鬼と対峙したところで、主君の仇を果たす!という共通の目的から、その場で即興的に連携して鬼と戦う、というのが、かっこよかったと思っていたのだけど。
こんなに事前に会話を交わしていたら、むしろそういったクールさを損ねるだけじゃない?
それぞれが、それぞれの流儀の達人だからこそ、状況の要請から、その場で共同戦線をはれる。
だからこそ、一人ひとりのが柱がその道を極めた達人だった!って見てる側に実感させるところだと思うのだけど。
なんかそういう「溜め」を全部台無しにしていると思う。
もったいないなぁ。
何がいいたいかといえば、柱って、本来、皆、エゴイストで、互いに鬼の討伐数を競っているくらいでちょうどいい、ということ。
いやだって、炎柱だった、あの空気読まない日頃の発言や、どこを見ているかわからない目、そしてひたすら大飯ぐらい、という、破綻した性格をみせてきたところで、いざ、鬼の討伐になったら、とんでもない実力を示すから、クールだったわけじゃない。
そして、最後は、炭治郎たちを守って散っていった。
そのギャップの素晴らしさを、いまのところ、柱稽古編は台無しにしてるだけ。
こんなウェット関係を事前に描く必要はないんだよ。
ましてやモブの鬼殺隊員のことなんて。
あるとすれば、ほんとに、最後に炭治郎や柱を守るために肉壁になって殺されていくときに、なんらかの感情移入をさせるためくらいでしょ?
でも、それは必要あるの?って思うよ。
それに、彼らモブ隊員だって、入隊試験に通っているわけでしょ?
だとすれば、実力が柱たちに及ばないとしても、気持ちがあんなふうに弱くなっているのが理解できない。
鬼殺隊は、いったん入隊したら「ヌケニン」できないヤバいブラック集団とかの描写があれば別だけど。
つまり自分が弱いといっても脱退だきない縛りがあるなら別だけど。
ていうか、そういう非情さを描くなら、アニオリでも納得できるけど。
とにかく、仲良し部活みたいになっているのは、マジでいただけない。
あれじゃ、炭治郎や善逸、伊之助が突出しすぎている、とわざわざ示しているようなものじゃない。
炭治郎は、主人公補正で、日の呼吸に通じるヒノカミ神楽を無意識に習得していたり、その結果、一般隊員だけど「痣」ができていたり、ついでにいえば、禰豆子が鬼になっていたり、という特殊性があるのはわかるけど、善逸や伊之助は、才能はあるけど、一般の隊員でもあって、ただ、炭治郎のそばにいたから炭治郎に感化されてあそこまで実力を伸ばしてしまった、としておいてほしかったんだよなぁ。
つまり、炭治郎たち3人以外にも、善逸や伊之助に準じた実力者の隊員が数人くらいはいてもいいはずなのだけど。
でも、なまじモブ隊員の挙動にまで焦点を当てた作りにしてしまったから、モブ隊員が皆、不甲斐ないものになってしまった。
それ、鬼滅隊のイメージとだいぶ違うんだよね。
だといって、ここでアニオリでそんな実力者を出してしまったら終盤の物語が破綻してしまうからダメなのだけど。
ということで、さすがに、誰得?の柱稽古編になってきている気がする。
これ、3話ぐらいの、せいぜい60分とか70分とかの尺で一回の放送で済ますくらいが妥当だったんじゃない?
なんか余計なことをしてるなぁ。
普通に物語をぶち壊してるじゃない。