つまらなかったなぁ。
というか、今回、この『チェンソーマン』のアニメがダメな理由がよくわかった。
監督の解釈が、チェンソーマン好き好き熱が強すぎる。
『チェンソーマン』ってもっと静かな「静」の物語なんだよね。
というか、「虚無」なんだよ。
だから、確かにCVの芝居が下手なのもあるけど、そもそも芝居の付け方の方向が間違っている。
デンジって、もっとチンピラで、もっと根っこから頭のネジが緩んでいて、それこそ動物的な感覚しかもちあわせていないくらい「人間未満」の虚無と欲望の塊。
そういう意味ではデンジって徹底的に「子ども」なんだよ。
16歳の姿はしてるけど、多分、頭の中身、価値体系は5才児とか6才児くらい。
だから、パワーやマキマの胸をもみたい、というのも、お母さんのおっぱいを飲みたい、触りたい、に近い感じ。
そのどうしようもないくらい「幼稚」なところが、全然、表現されていない。
今のデンジ役のCVは、あまりにも理性的すぎるし、知恵が回りすぎる
デンジを、エヴァのシンジや、呪術廻戦の乙骨みたいな陰キャのように捉えているけど、ベクトルはそっちじゃないんだよね。
別に岡本信彦的なバーサク最強ヒーローみたいな感じでもない。
原作を読めばわかってもらえると思うけど、もっと単純に「幼児」なんだよ、デンジって。
人間未満の欲望に忠実なだけの生き物。
だからこそ、悪魔のポチタと心を通わせることができたわけだし、マキマの関心を呼ぶことができた。
(まぁ、マキマにはちゃんと理由があるのだけど、それはネタバレになるのでここではやめておく。)
『チェンソーマン』って、デンジが、シンジや乙骨のように厨二病的偏向を捨てて「大人」になる話ではない。
そうではなくて、デンジが「人間」になる話なんだよ。
だから、まずは「人間未満」の「こども」の頭で16歳の体を動かさないといけない。
そういった解釈が、多分、監督に徹底的に欠けているから、そういう芝居をCVのために用意してやれない。
なので、これ、CVが未熟な新人だからダメなんじゃなくて、単純に、監督の解釈が明後日の方向に向いているせいなんだよ。
なんていうか、そもそも作品解釈の入り口で間違っちゃってるから、この先、修正は難しいだろうね。
そういう意味では、まだマキマの方はマシかも。
マキマは、ちゃんと理性はあるけど、ネジが緩んだ狂人なので、あのもっともらしい演技は間違ってはいない。
もっともその分、単純に演技の下手さ、未熟さのほうが目立ってしまうわけだけど。
こういう感じに、原作の「虚無」な部分を、物語としても、絵柄としても、キャラとしても、完全に間違って監督が解釈しているから、アニメで見ると、全体の印象がそら恐ろしくギクシャクしてしまう。
だから、デンジの戦闘シーンを平気でアクションシーンと勘違いして、後ろでロックが流れているようなシーンを作ってしまう。
無駄にアクションの凄さを伝えようと、引きを多用するカメラワークにしてしまう。
コウモリの悪魔や、マキマを召喚した偉い人たちには、いかにもな居丈高な演技をさせてしまう。
どれもこれも「虚無」が足りない。
警察ものでも、捕物帳でも、スパイものでも、アクションものでもない。
とにかく、悪魔が虚無をもたらす世界が描かれているのに、その陰鬱さがない。
まぁ、それを、天然色で動きがあって肉声で喋らなきゃいけないアニメでやること自体が無茶なのかもしれないけれど。
でもなぁー、なんか、邦画全般に当てはまる、映画ってこんなもんでしょ、という枠組みが先にあって、それに原作の解釈を無理やり合わせた結果、どれもこれも似たような映画になって、全然見る気がしない、のと全く同じ匂いがする。
悪い意味で、何を見てもMAPPAのプロトコルで作りましたっていう工業製品にしか見えない。
結構、これは大問題だと思うよ。
『進撃』をあれだけ腐らせたファイナルシーズンと全く同じ、「いや、アニメになっただけ、マシじゃん、そうだろ?」っていうような印象を与えてくるのだから。
悪い意味で、MAPPA臭が抜けないのは、ほんとにダメだと思う。
ということで、『チェンソーマン』に興味を持った人は、とにかく、原作の第1部を読むべし。それが全てだよ。
ちなみに、第2部は今のところは微妙だけどw
でも、後半化けるかもしれないと思わせるところが面白い。
というか、今回、この『チェンソーマン』のアニメがダメな理由がよくわかった。
監督の解釈が、チェンソーマン好き好き熱が強すぎる。
『チェンソーマン』ってもっと静かな「静」の物語なんだよね。
というか、「虚無」なんだよ。
だから、確かにCVの芝居が下手なのもあるけど、そもそも芝居の付け方の方向が間違っている。
デンジって、もっとチンピラで、もっと根っこから頭のネジが緩んでいて、それこそ動物的な感覚しかもちあわせていないくらい「人間未満」の虚無と欲望の塊。
そういう意味ではデンジって徹底的に「子ども」なんだよ。
16歳の姿はしてるけど、多分、頭の中身、価値体系は5才児とか6才児くらい。
だから、パワーやマキマの胸をもみたい、というのも、お母さんのおっぱいを飲みたい、触りたい、に近い感じ。
そのどうしようもないくらい「幼稚」なところが、全然、表現されていない。
今のデンジ役のCVは、あまりにも理性的すぎるし、知恵が回りすぎる
デンジを、エヴァのシンジや、呪術廻戦の乙骨みたいな陰キャのように捉えているけど、ベクトルはそっちじゃないんだよね。
別に岡本信彦的なバーサク最強ヒーローみたいな感じでもない。
原作を読めばわかってもらえると思うけど、もっと単純に「幼児」なんだよ、デンジって。
人間未満の欲望に忠実なだけの生き物。
だからこそ、悪魔のポチタと心を通わせることができたわけだし、マキマの関心を呼ぶことができた。
(まぁ、マキマにはちゃんと理由があるのだけど、それはネタバレになるのでここではやめておく。)
『チェンソーマン』って、デンジが、シンジや乙骨のように厨二病的偏向を捨てて「大人」になる話ではない。
そうではなくて、デンジが「人間」になる話なんだよ。
だから、まずは「人間未満」の「こども」の頭で16歳の体を動かさないといけない。
そういった解釈が、多分、監督に徹底的に欠けているから、そういう芝居をCVのために用意してやれない。
なので、これ、CVが未熟な新人だからダメなんじゃなくて、単純に、監督の解釈が明後日の方向に向いているせいなんだよ。
なんていうか、そもそも作品解釈の入り口で間違っちゃってるから、この先、修正は難しいだろうね。
そういう意味では、まだマキマの方はマシかも。
マキマは、ちゃんと理性はあるけど、ネジが緩んだ狂人なので、あのもっともらしい演技は間違ってはいない。
もっともその分、単純に演技の下手さ、未熟さのほうが目立ってしまうわけだけど。
こういう感じに、原作の「虚無」な部分を、物語としても、絵柄としても、キャラとしても、完全に間違って監督が解釈しているから、アニメで見ると、全体の印象がそら恐ろしくギクシャクしてしまう。
だから、デンジの戦闘シーンを平気でアクションシーンと勘違いして、後ろでロックが流れているようなシーンを作ってしまう。
無駄にアクションの凄さを伝えようと、引きを多用するカメラワークにしてしまう。
コウモリの悪魔や、マキマを召喚した偉い人たちには、いかにもな居丈高な演技をさせてしまう。
どれもこれも「虚無」が足りない。
警察ものでも、捕物帳でも、スパイものでも、アクションものでもない。
とにかく、悪魔が虚無をもたらす世界が描かれているのに、その陰鬱さがない。
まぁ、それを、天然色で動きがあって肉声で喋らなきゃいけないアニメでやること自体が無茶なのかもしれないけれど。
でもなぁー、なんか、邦画全般に当てはまる、映画ってこんなもんでしょ、という枠組みが先にあって、それに原作の解釈を無理やり合わせた結果、どれもこれも似たような映画になって、全然見る気がしない、のと全く同じ匂いがする。
悪い意味で、何を見てもMAPPAのプロトコルで作りましたっていう工業製品にしか見えない。
結構、これは大問題だと思うよ。
『進撃』をあれだけ腐らせたファイナルシーズンと全く同じ、「いや、アニメになっただけ、マシじゃん、そうだろ?」っていうような印象を与えてくるのだから。
悪い意味で、MAPPA臭が抜けないのは、ほんとにダメだと思う。
ということで、『チェンソーマン』に興味を持った人は、とにかく、原作の第1部を読むべし。それが全てだよ。
ちなみに、第2部は今のところは微妙だけどw
でも、後半化けるかもしれないと思わせるところが面白い。