FGOの19話が、なんかすごいことが起こっているということはなんとなくわかるのだけど、その割には、今ひとつわけが分からなかったので、改めて第1話から見直してみたのだけど。
そうしたら、なんかスッキリした。
これって、なんちゃって・メソポタミア神話、の話だったんだね。
なまじFateなんて名前がついていて、ギルや凛に似た女神がでてきたりしていたから勘違いしていたけど。
ついでにいえば、ギルがあまりに賢王として振る舞っていて、あれ、これなんか違うと思っていたけど。
でも、そういうFateに由来する先入観を外してみれば、ただメソポタミア神話をアレンジした物語でしかなかったんだね。
ギルの冥界下りにしても、その先にエレシュキガルがいるのも。
通しでみ直したら、面白さに気づいた、という点では、シュタゲのときに近いかも。
もっとも、最初からティアマトの名も出ていたわけだから、もっと早く気付けよ、ということなのかもしれないけれど。
でも、三女神同盟で南米の神ケツァルコアトルが出てきたり、サーヴァントとしてレオニダスとか牛若丸とか、出てきたりしたあたりで、勝手に、何でもありだと思ってしまったのがいけなかったんだな。
素直にメソポタミア神話とか『ギルガメッシュ叙事詩』とかが下敷きになった物語で、その上にFateっぽく英雄や神がサーヴァントとして組み込まれているだけだったんだ。
いや、何を今更、と思うかもしれないけれど、ゲームをやってないんだから仕方がないよね。
ともあれ、その仕組み、というか構造がわかったら、素朴に面白くなった。
だって、アナにしたって、彼女、要はメデゥーサなわけでしょ?
で、そのアナが、要はゴルゴーンの幼体だった、ってことでしょ?
それで、神話の世界では時間の流れはあってないようなものだから、将来の幻滅した自分を自ら滅ぼすために、ゴルゴーンが現界した時代にメデゥーサがやってきた、というだけなんだよね?
じゃあ、何でそれをマーリンが気づいているの?ということになるけど。
それにしたって、きっと、ギル同様、マーリンが千里眼で、しかもその千里眼は空間だけでなく時間にも適用されて、過去も未来も等しく見渡せるから、とかいう感じなんだろうな。
ということで、これは完全に「神話」だったわけね。
で、ラスボスたるティアマトを成敗すれば、よくわからないけれど、その特典として、聖杯がついてくる、という感じと思っておけばいいんだろうな。
裏返すと、あまり聖杯の意味に拘る必要はなかった、ということで。
うん、なんか、このあたり、すっかりだまされていたよ。
と言っても、勝手にそう思っていただけなんだけど。
で、そういうフレームがわかると、ギルが突如として死んで冥界下りをしてから以降の話も、逆に納得できる。
というか、結構、うまく脚色しているし、18話のラストで、ケツァルコアトルの必死の踵落としにも関わらずしぶとく生き残るティアマトのもとに、多分、アナの記憶をもったゴルゴーンが現れる、というのも理解できるし、そのアナ/ゴルゴーンが、19話で自らを盾にするというのもわかる。
アナ/ゴルゴーンからすれば、それが藤丸+マシュに対する返礼だった、ということだよね。
で、さらにいえば、キングゥが、身体に残ったエンキドゥの記憶に従って、ギルを守るために身を挺したのも理解可能。
というか、キングゥについては、事実上、エンキドゥが記憶操作された存在、くらいに受け止めておくとしっくり来る。
ということで、18話中盤から19話にかけての、畳み掛けるような展開は、たしかに素晴らしい。
話の流れがわからないと、ただポカーンとするだけだけどw
でも、逆にストーリーの骨子がわかったところで各回を見直すと、確かに、毎回見せ場となる、超動きのあるシーンがあって、それはそれで楽しめる佳作だったことがわかってきたw
といっても、見ていれば最低限わかる、という構成になっていないのは、制作側の失敗だと思うけれど。
でも、これ逆に、最後の山場のシリーズを描いたあとで、シリーズの始めから時間を掛けて映像にしていけば、それなりに「長持ち」するコンテントになるんじゃないのかな?
まぁ、藤丸がだらしなくてしんどい、というのはあるけれど。
でも、彼にしたって、Fateの衛宮士郎のような面倒な孤高のヒーロー性なんかを求めるから間違うわけで。
藤丸に対しては、ただの語り部、バスガイド、あるいはツアーのアテンド、くらいに思っておけばストレスはないよね。
なまじ、主人公と思うからイライラするだけのことで、
ということで、見方がわかってきたら、面白くなってきた。
もっとも、それもこれも、この物語が偽神話であり、主人公は(藤丸ではなく)ギルだ、ということに気づいたからなのだけどね。
とまれ、続く20話はどうなるのだろう。
実は意外と楽しみにしている自分がいることに気づいてきたw
そうしたら、なんかスッキリした。
これって、なんちゃって・メソポタミア神話、の話だったんだね。
なまじFateなんて名前がついていて、ギルや凛に似た女神がでてきたりしていたから勘違いしていたけど。
ついでにいえば、ギルがあまりに賢王として振る舞っていて、あれ、これなんか違うと思っていたけど。
でも、そういうFateに由来する先入観を外してみれば、ただメソポタミア神話をアレンジした物語でしかなかったんだね。
ギルの冥界下りにしても、その先にエレシュキガルがいるのも。
通しでみ直したら、面白さに気づいた、という点では、シュタゲのときに近いかも。
もっとも、最初からティアマトの名も出ていたわけだから、もっと早く気付けよ、ということなのかもしれないけれど。
でも、三女神同盟で南米の神ケツァルコアトルが出てきたり、サーヴァントとしてレオニダスとか牛若丸とか、出てきたりしたあたりで、勝手に、何でもありだと思ってしまったのがいけなかったんだな。
素直にメソポタミア神話とか『ギルガメッシュ叙事詩』とかが下敷きになった物語で、その上にFateっぽく英雄や神がサーヴァントとして組み込まれているだけだったんだ。
いや、何を今更、と思うかもしれないけれど、ゲームをやってないんだから仕方がないよね。
ともあれ、その仕組み、というか構造がわかったら、素朴に面白くなった。
だって、アナにしたって、彼女、要はメデゥーサなわけでしょ?
で、そのアナが、要はゴルゴーンの幼体だった、ってことでしょ?
それで、神話の世界では時間の流れはあってないようなものだから、将来の幻滅した自分を自ら滅ぼすために、ゴルゴーンが現界した時代にメデゥーサがやってきた、というだけなんだよね?
じゃあ、何でそれをマーリンが気づいているの?ということになるけど。
それにしたって、きっと、ギル同様、マーリンが千里眼で、しかもその千里眼は空間だけでなく時間にも適用されて、過去も未来も等しく見渡せるから、とかいう感じなんだろうな。
ということで、これは完全に「神話」だったわけね。
で、ラスボスたるティアマトを成敗すれば、よくわからないけれど、その特典として、聖杯がついてくる、という感じと思っておけばいいんだろうな。
裏返すと、あまり聖杯の意味に拘る必要はなかった、ということで。
うん、なんか、このあたり、すっかりだまされていたよ。
と言っても、勝手にそう思っていただけなんだけど。
で、そういうフレームがわかると、ギルが突如として死んで冥界下りをしてから以降の話も、逆に納得できる。
というか、結構、うまく脚色しているし、18話のラストで、ケツァルコアトルの必死の踵落としにも関わらずしぶとく生き残るティアマトのもとに、多分、アナの記憶をもったゴルゴーンが現れる、というのも理解できるし、そのアナ/ゴルゴーンが、19話で自らを盾にするというのもわかる。
アナ/ゴルゴーンからすれば、それが藤丸+マシュに対する返礼だった、ということだよね。
で、さらにいえば、キングゥが、身体に残ったエンキドゥの記憶に従って、ギルを守るために身を挺したのも理解可能。
というか、キングゥについては、事実上、エンキドゥが記憶操作された存在、くらいに受け止めておくとしっくり来る。
ということで、18話中盤から19話にかけての、畳み掛けるような展開は、たしかに素晴らしい。
話の流れがわからないと、ただポカーンとするだけだけどw
でも、逆にストーリーの骨子がわかったところで各回を見直すと、確かに、毎回見せ場となる、超動きのあるシーンがあって、それはそれで楽しめる佳作だったことがわかってきたw
といっても、見ていれば最低限わかる、という構成になっていないのは、制作側の失敗だと思うけれど。
でも、これ逆に、最後の山場のシリーズを描いたあとで、シリーズの始めから時間を掛けて映像にしていけば、それなりに「長持ち」するコンテントになるんじゃないのかな?
まぁ、藤丸がだらしなくてしんどい、というのはあるけれど。
でも、彼にしたって、Fateの衛宮士郎のような面倒な孤高のヒーロー性なんかを求めるから間違うわけで。
藤丸に対しては、ただの語り部、バスガイド、あるいはツアーのアテンド、くらいに思っておけばストレスはないよね。
なまじ、主人公と思うからイライラするだけのことで、
ということで、見方がわかってきたら、面白くなってきた。
もっとも、それもこれも、この物語が偽神話であり、主人公は(藤丸ではなく)ギルだ、ということに気づいたからなのだけどね。
とまれ、続く20話はどうなるのだろう。
実は意外と楽しみにしている自分がいることに気づいてきたw