中田英寿やイチローのドキュメント本の著者でもある小松成美が、歌舞伎役者中村勘三郎を勘九郎時代の最後の4年間追っかけて書いたドキュメントタッチの「さらば勘九郎」を書いて、丁度、勘三郎襲名公演が始まったこの時期に出版した。
勘三郎が逝って既に17年、襲名は勘太郎に任せて勘九郎で通そうとも考えたが、一代で名跡に引き上げた父の言に従い、50歳になる筋目に勘三郎を襲名することになったと言う。
興味深いのは、早くに父段四郎と祖父猿翁を亡くして後ろ盾を失い苦労した猿之助と同様に、勘九郎の場合も、比較的名声を得ていたにも拘らず、父勘三郎の死後は、役もつかない、切符も売れない、惨憺たる有様だったとか。
父勘三郎が復活させた宙乗りを継承し新しい試みを次々に打ち出す猿之助に、通夜の席で、一緒に頑張ろうと言われたのを、結構ですと拒絶した話。父が誉めそやし同じ境遇の様な猿之助に一寸嫉妬し、甘えられないと思って咄嗟に出た言葉とか、長い絶交の後の共演で猿之助の凄さを知って驚嘆したとか、興味深い逸話である。
もう一つ印象に残っているのは、島田正吾との出会いで、「荒川の佐吉」の佐吉を教わる件。串田和美とのニューヨーク公演、野田秀樹とのシアター・コクーン歌舞伎、渡辺えり子との桃太郎歌舞伎等新しい試みのほか、多くの名優との交わり等勘九郎の芸と人間の幅の広さと豊かさが語られている。
先日の襲名披露公演の「口上」で、左隣の義父中村芝翫の次に幸四郎、右隣の長男勘太郎の次に仁左衛門と玉三郎が座っていたが、この本を読んでいると、彼らとのその深い繋がりが分かって面白い。
勘九郎の芸の世界以外に、好江夫人の親元芝翫一家を含めた中村屋の歌舞伎家族の模様が、克明に活写されていて、その意味でも面白い読み物となっている。
勘九郎の芸談で興味深いのは、「役者は、肚(はら)から演じて、その人間になりきって行くしかない」と言うくだり、「一生懸命に稽古を続けていると、自分じゃない誰かがすっと身体に入ってくる瞬間がある。憑依(身体に憑き物がいる状態)――肝を据えてこそ初めて役にのめり込める」、と言う。確か、イタリアの素晴らしいメゾ・ソプラノ フィオレンツォ・コソットは、演じる役にのめり込んで終演後も暫く元に戻らなかったとか、一芸に秀でると言うことはこの様に凄いことなのである。
勘三郎が逝って既に17年、襲名は勘太郎に任せて勘九郎で通そうとも考えたが、一代で名跡に引き上げた父の言に従い、50歳になる筋目に勘三郎を襲名することになったと言う。
興味深いのは、早くに父段四郎と祖父猿翁を亡くして後ろ盾を失い苦労した猿之助と同様に、勘九郎の場合も、比較的名声を得ていたにも拘らず、父勘三郎の死後は、役もつかない、切符も売れない、惨憺たる有様だったとか。
父勘三郎が復活させた宙乗りを継承し新しい試みを次々に打ち出す猿之助に、通夜の席で、一緒に頑張ろうと言われたのを、結構ですと拒絶した話。父が誉めそやし同じ境遇の様な猿之助に一寸嫉妬し、甘えられないと思って咄嗟に出た言葉とか、長い絶交の後の共演で猿之助の凄さを知って驚嘆したとか、興味深い逸話である。
もう一つ印象に残っているのは、島田正吾との出会いで、「荒川の佐吉」の佐吉を教わる件。串田和美とのニューヨーク公演、野田秀樹とのシアター・コクーン歌舞伎、渡辺えり子との桃太郎歌舞伎等新しい試みのほか、多くの名優との交わり等勘九郎の芸と人間の幅の広さと豊かさが語られている。
先日の襲名披露公演の「口上」で、左隣の義父中村芝翫の次に幸四郎、右隣の長男勘太郎の次に仁左衛門と玉三郎が座っていたが、この本を読んでいると、彼らとのその深い繋がりが分かって面白い。
勘九郎の芸の世界以外に、好江夫人の親元芝翫一家を含めた中村屋の歌舞伎家族の模様が、克明に活写されていて、その意味でも面白い読み物となっている。
勘九郎の芸談で興味深いのは、「役者は、肚(はら)から演じて、その人間になりきって行くしかない」と言うくだり、「一生懸命に稽古を続けていると、自分じゃない誰かがすっと身体に入ってくる瞬間がある。憑依(身体に憑き物がいる状態)――肝を据えてこそ初めて役にのめり込める」、と言う。確か、イタリアの素晴らしいメゾ・ソプラノ フィオレンツォ・コソットは、演じる役にのめり込んで終演後も暫く元に戻らなかったとか、一芸に秀でると言うことはこの様に凄いことなのである。