今日、新宿で映画「北の零年」を見た。久しぶりに凄い邦画を見て楽しませて貰った。新政府の命令で北海道に移住した淡路・稲田藩の面々、廃藩置県で放置され翻弄されながらも、新天地・静内での原野開拓の苦悩と人間の強さと優しさをを描いて余りある秀作。
興味を引いたのは、本筋とは全く関係ないが、冒頭、平和な武家の母子が文楽見物に出かけるくだりで、娘が、「浄瑠璃が、始まりますよ」と言うところ。近松門左衛門や竹本義太夫の頃は、人形浄瑠璃と言っていたようだが、文楽座が出来、今では、文楽と言っている。浄瑠璃は、独立した語り音楽として発生し、人形芝居や歌舞伎と結合して発展してきたのだと言う。
ここで、気になったのは、私の場合、人形芝居としての文楽に興味を持ち始めたので、玉男や文雀や簑助の人形ばかりに目が行っていたが、文楽は三業あってではあるけれど、主役は、語り、即ち太夫の浄瑠璃ではないかと思い始めたからなのである。そうなると、文楽に行くが、文楽を見に行くから、文楽を聴きに行くと言う事になる。
何故こんなことを言うのかと言うと、イギリスでは、シェイクスピア戯曲を見に行くと言うのではなく、本来は、聴きに行くと言うのだと聞いたことがある。実際、そう言われてみると、やはり、あの素晴らしいシェイクスピアは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーやロイヤル・ナショナル・シアターに通い詰めて、何度も、シェイクスピア劇を鑑賞したが、聴くだけでも素晴らしいと思ったことが何度もある。ケネス・ブラナーのハムレットを舞台で聴いたのである。
現在、ロンドンのテムズの南岸サザックに、本来のグローブ座を模して新しい「グローブ座」が立っており、毎夏、シェイクスピア戯曲が公演されている。あの「恋に落ちたシェイクスピア」に出てくる劇場と殆ど同じで、劇場は青天井で屋根がない。数年前に「リア王」と「から騒ぎ」を楽しむ機会があった。
当日、日が照っていて日向の観客は、日よけに帽子を被っていたが、翌日は、雨で、平土間の客は右往左往、皆、売店に走って透明のビニールの合羽を買って来て被っていた。
舞台は、最小限の道具や家具でセットされているだけで、あのリア王の真っ暗になって全天掻き曇る嵐の場面も、ハムレットの悲惨な闇夜の前王の亡霊との対面も、日がカンカン照りつける舞台で演じなければならないのである。それは、歌舞伎の闇夜の舞台よりも遥かに難しく、これは、もう役者の名演技と台詞回しで客を引き付ける以外にはない。シェイクスピア当時は、即ち、この耳で聴いてシェイクスピア劇の素晴らしさを感じる以外にはなかったのである。照明やマイクやセットで助けられている現在の役者とは違う。正に、シェイクスピア劇を観るではなく、聴くと言う世界であったのである。
興味を引いたのは、本筋とは全く関係ないが、冒頭、平和な武家の母子が文楽見物に出かけるくだりで、娘が、「浄瑠璃が、始まりますよ」と言うところ。近松門左衛門や竹本義太夫の頃は、人形浄瑠璃と言っていたようだが、文楽座が出来、今では、文楽と言っている。浄瑠璃は、独立した語り音楽として発生し、人形芝居や歌舞伎と結合して発展してきたのだと言う。
ここで、気になったのは、私の場合、人形芝居としての文楽に興味を持ち始めたので、玉男や文雀や簑助の人形ばかりに目が行っていたが、文楽は三業あってではあるけれど、主役は、語り、即ち太夫の浄瑠璃ではないかと思い始めたからなのである。そうなると、文楽に行くが、文楽を見に行くから、文楽を聴きに行くと言う事になる。
何故こんなことを言うのかと言うと、イギリスでは、シェイクスピア戯曲を見に行くと言うのではなく、本来は、聴きに行くと言うのだと聞いたことがある。実際、そう言われてみると、やはり、あの素晴らしいシェイクスピアは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーやロイヤル・ナショナル・シアターに通い詰めて、何度も、シェイクスピア劇を鑑賞したが、聴くだけでも素晴らしいと思ったことが何度もある。ケネス・ブラナーのハムレットを舞台で聴いたのである。
現在、ロンドンのテムズの南岸サザックに、本来のグローブ座を模して新しい「グローブ座」が立っており、毎夏、シェイクスピア戯曲が公演されている。あの「恋に落ちたシェイクスピア」に出てくる劇場と殆ど同じで、劇場は青天井で屋根がない。数年前に「リア王」と「から騒ぎ」を楽しむ機会があった。
当日、日が照っていて日向の観客は、日よけに帽子を被っていたが、翌日は、雨で、平土間の客は右往左往、皆、売店に走って透明のビニールの合羽を買って来て被っていた。
舞台は、最小限の道具や家具でセットされているだけで、あのリア王の真っ暗になって全天掻き曇る嵐の場面も、ハムレットの悲惨な闇夜の前王の亡霊との対面も、日がカンカン照りつける舞台で演じなければならないのである。それは、歌舞伎の闇夜の舞台よりも遥かに難しく、これは、もう役者の名演技と台詞回しで客を引き付ける以外にはない。シェイクスピア当時は、即ち、この耳で聴いてシェイクスピア劇の素晴らしさを感じる以外にはなかったのである。照明やマイクやセットで助けられている現在の役者とは違う。正に、シェイクスピア劇を観るではなく、聴くと言う世界であったのである。