国立劇場の歌舞伎の舞台は、中国人の父と日本人の母との間に生まれた和藤内(後に鄭成功)が、滅びた大明国の再興のために、中国に渡って、韃靼人と闘うと言うスケールの大きな芝居で、近松門左衛門の作でもあるので、それなりに面白い。
この主人公の和藤内は、この芝居では、平戸の漁師であったのが、明国皇帝の妹栴檀皇女が命からがら漂着して大明の危機を知って、父母と共に中国に渡って闘うと言う話になっているが、実際には、7歳まで日本で生活し、民国に渡って学問を修めて科挙試験を受験するほどの英邁で、文武両道の達人だったのであり、活劇本位の芝居に仕立てた近松の脚色の仕方が興味深い。
いずれにしろ、滅びた明は、満州族の清国となって栄えて行くので、鄭成功は、南京や福建で戦いに敗れるなど明国復興には成功しなかったが、当時、オランダに支配されていた台湾を開放して台湾王朝の始祖となったのであるから、中国においては、武勇に秀でた偉人なのである。
ところで、この芝居だが、シェイクスピア戯曲の様な話の筋書きがしっかりした芝居だと思って見ていると、そればかりではなく、大分印象が違っていて、和藤内を演じる團十郎などは、芝居をすると言うよりは、六方を踏んで威勢よく花道を退場するシーンなども含めて、目を引くのは、豪快で偉丈夫な英雄豪傑としての見得の連続で、江戸時代の錦絵の連続写真を見ている感じであるから、正に、團十郎家の荒事の世界そのものである。
物語として内容の濃いのは、和藤内たちが、中国に渡って、韃靼の将軍である五常軍甘輝(梅玉)の居城・獅子ヶ城楼門の場と甘輝館以降で、特に、和藤内の母渚(東蔵)が、単身で城にのり込み、和藤内の父の実娘で甘輝の妻・錦祥女(藤十郎)と甘輝に和藤内への恭順協力を嘆願するくだりである。
親子や夫婦の義理人情や意地、誇りが錯綜する見せ場であるが、やはり、長年恋しくて思い続けていた父・老一官(左團次)との対面から始まる心情の吐露など、藤十郎の語り口や表情の豊かさ深さは格別で、一等群を抜いているのだが、東蔵の日本の母としての誇りや義理の娘への思い、そして、梅玉の、武人の意地と妻への愛情に板挟みに苦しむ明人でありながら韃靼の武将であると言う複雑な心境の表出など、夫々の特質を生かしながらの舞台は、流石に、見ていて感動的である。
甘輝説得に成功すれば、黄河に通じる化粧殿の遣り水に白粉を、失敗すれば、紅を溶いて流して、城外の和藤内や老一官に知らせることにしていたのだが、自分が居ては甘輝が和藤内に味方出来ないのを知った錦祥女は、死を覚悟して自分の血を椀に受けて遣り水に流す。
説得失敗と、怒った和藤内が城内に雪崩れ込んで来て甘輝と刃を向け合うのだが、瀕死の状態の錦祥女が、「早まり給うな」と中に割ってはいり和解を説得。義娘に遅れじと、錦祥女の懐剣を取って、母渚も胸を突いて果てる。
これで、韃靼王は、母と妻の敵になったのだからと、和藤内と甘輝は、主従の関係を結んで、韃靼討伐に勇み立つ。
勿論、この大詰めの場面でも、團十郎は、舞台下手にしっかりと仁王立ちで立ち続けて、目や顔の表情を微妙に変えながら演技をする程度で、最後に、甘輝に、「延平王 国姓爺鄭成功」の名を勧められ、大将軍の装束で威儀を正して正面に立つだけで、何も強いて演技せずとも、サマになっているのである。
私は、母渚が、何度も口にする日本の女としての恥について、非常に感銘を受けている。
甘輝が、和藤内の見方をしようと言って、女の縁に絆されて弓矢の道を忘れては末代までの恥として妻の錦祥女に刃を向けるところで、異国の継子を見殺しにしては、自分ばかりか日本の恥になると言って、いっそ死んでしまいたいとかき口説き義理の母娘は縋り付いて慟哭する。この恥だと言う台詞を2回も発している。
私は、この渚の女の意気地が、近松の意図したこの芝居でのサブテーマであったのではないかと思ったりもしている。
実は、実際には、和藤内の父である鄭芝龍は、後に、清国へ寝返っており、和藤内を痛く失望させて激怒させたのだが、母は、最後まで、和藤内と行動を共にして、福建での戦いで窮地に追い込まれて自害して果てている。
日本人の女として、最後まで、誇りと意地を守り通したのであろう。
ところで、この鄭成功の話は、日本の江戸時代の初期、3代将軍家光の頃で、倭寇が殆ど下火になった頃だが、法政大王敏教授の話だと、和藤内の父・鄭芝龍は、この芝居のように大明の元高官ではなく、海賊の頭目として良く知られているのだと言う。
今、国境で問題になっている東シナ海や南シナ海を手玉にとって暴れまわっていた海賊で、平戸に住み着いて武家の田川七左衛門の娘マツとの間に生まれたのが福松、すなわち、和藤内、鄭成功なのである。
明朝は、この強い海賊の頭目鄭芝龍に目をつけて、海防指令として招聘して、海賊取締りを命じたと言うから、明国の役人と言えるのかも知れないが、ロイヤリティがあったかどうかは疑問である。
丁度、同じころ、海賊として勇名を馳せていたフランシス・ドレイクを、エリザベス女王は、海軍提督に任命して、サーの称号を与えたと言うのであるから、どっちもどっち。そんないい加減な時代だったのである。
尤も、勝てば官軍、負ければ賊軍、いつの時代も同じと言うことかも知れない。
末筆になってしまったが、美人の誉れ高い后の華清夫人を韃靼王の后に差し出せと談判に来た韃靼国鎮護大将梅勒王を演じた松江だが、実に爽やかな演技で印象的で、韃靼に内通して明国滅亡の引き金を引いた大悪の右将軍李蹈天を演じた翫雀が、灰汁の利いた性格俳優ぶりで新境地を引き出していて面白かったのを追記しておきたい。
この主人公の和藤内は、この芝居では、平戸の漁師であったのが、明国皇帝の妹栴檀皇女が命からがら漂着して大明の危機を知って、父母と共に中国に渡って闘うと言う話になっているが、実際には、7歳まで日本で生活し、民国に渡って学問を修めて科挙試験を受験するほどの英邁で、文武両道の達人だったのであり、活劇本位の芝居に仕立てた近松の脚色の仕方が興味深い。
いずれにしろ、滅びた明は、満州族の清国となって栄えて行くので、鄭成功は、南京や福建で戦いに敗れるなど明国復興には成功しなかったが、当時、オランダに支配されていた台湾を開放して台湾王朝の始祖となったのであるから、中国においては、武勇に秀でた偉人なのである。
ところで、この芝居だが、シェイクスピア戯曲の様な話の筋書きがしっかりした芝居だと思って見ていると、そればかりではなく、大分印象が違っていて、和藤内を演じる團十郎などは、芝居をすると言うよりは、六方を踏んで威勢よく花道を退場するシーンなども含めて、目を引くのは、豪快で偉丈夫な英雄豪傑としての見得の連続で、江戸時代の錦絵の連続写真を見ている感じであるから、正に、團十郎家の荒事の世界そのものである。
物語として内容の濃いのは、和藤内たちが、中国に渡って、韃靼の将軍である五常軍甘輝(梅玉)の居城・獅子ヶ城楼門の場と甘輝館以降で、特に、和藤内の母渚(東蔵)が、単身で城にのり込み、和藤内の父の実娘で甘輝の妻・錦祥女(藤十郎)と甘輝に和藤内への恭順協力を嘆願するくだりである。
親子や夫婦の義理人情や意地、誇りが錯綜する見せ場であるが、やはり、長年恋しくて思い続けていた父・老一官(左團次)との対面から始まる心情の吐露など、藤十郎の語り口や表情の豊かさ深さは格別で、一等群を抜いているのだが、東蔵の日本の母としての誇りや義理の娘への思い、そして、梅玉の、武人の意地と妻への愛情に板挟みに苦しむ明人でありながら韃靼の武将であると言う複雑な心境の表出など、夫々の特質を生かしながらの舞台は、流石に、見ていて感動的である。
甘輝説得に成功すれば、黄河に通じる化粧殿の遣り水に白粉を、失敗すれば、紅を溶いて流して、城外の和藤内や老一官に知らせることにしていたのだが、自分が居ては甘輝が和藤内に味方出来ないのを知った錦祥女は、死を覚悟して自分の血を椀に受けて遣り水に流す。
説得失敗と、怒った和藤内が城内に雪崩れ込んで来て甘輝と刃を向け合うのだが、瀕死の状態の錦祥女が、「早まり給うな」と中に割ってはいり和解を説得。義娘に遅れじと、錦祥女の懐剣を取って、母渚も胸を突いて果てる。
これで、韃靼王は、母と妻の敵になったのだからと、和藤内と甘輝は、主従の関係を結んで、韃靼討伐に勇み立つ。
勿論、この大詰めの場面でも、團十郎は、舞台下手にしっかりと仁王立ちで立ち続けて、目や顔の表情を微妙に変えながら演技をする程度で、最後に、甘輝に、「延平王 国姓爺鄭成功」の名を勧められ、大将軍の装束で威儀を正して正面に立つだけで、何も強いて演技せずとも、サマになっているのである。
私は、母渚が、何度も口にする日本の女としての恥について、非常に感銘を受けている。
甘輝が、和藤内の見方をしようと言って、女の縁に絆されて弓矢の道を忘れては末代までの恥として妻の錦祥女に刃を向けるところで、異国の継子を見殺しにしては、自分ばかりか日本の恥になると言って、いっそ死んでしまいたいとかき口説き義理の母娘は縋り付いて慟哭する。この恥だと言う台詞を2回も発している。
私は、この渚の女の意気地が、近松の意図したこの芝居でのサブテーマであったのではないかと思ったりもしている。
実は、実際には、和藤内の父である鄭芝龍は、後に、清国へ寝返っており、和藤内を痛く失望させて激怒させたのだが、母は、最後まで、和藤内と行動を共にして、福建での戦いで窮地に追い込まれて自害して果てている。
日本人の女として、最後まで、誇りと意地を守り通したのであろう。
ところで、この鄭成功の話は、日本の江戸時代の初期、3代将軍家光の頃で、倭寇が殆ど下火になった頃だが、法政大王敏教授の話だと、和藤内の父・鄭芝龍は、この芝居のように大明の元高官ではなく、海賊の頭目として良く知られているのだと言う。
今、国境で問題になっている東シナ海や南シナ海を手玉にとって暴れまわっていた海賊で、平戸に住み着いて武家の田川七左衛門の娘マツとの間に生まれたのが福松、すなわち、和藤内、鄭成功なのである。
明朝は、この強い海賊の頭目鄭芝龍に目をつけて、海防指令として招聘して、海賊取締りを命じたと言うから、明国の役人と言えるのかも知れないが、ロイヤリティがあったかどうかは疑問である。
丁度、同じころ、海賊として勇名を馳せていたフランシス・ドレイクを、エリザベス女王は、海軍提督に任命して、サーの称号を与えたと言うのであるから、どっちもどっち。そんないい加減な時代だったのである。
尤も、勝てば官軍、負ければ賊軍、いつの時代も同じと言うことかも知れない。
末筆になってしまったが、美人の誉れ高い后の華清夫人を韃靼王の后に差し出せと談判に来た韃靼国鎮護大将梅勒王を演じた松江だが、実に爽やかな演技で印象的で、韃靼に内通して明国滅亡の引き金を引いた大悪の右将軍李蹈天を演じた翫雀が、灰汁の利いた性格俳優ぶりで新境地を引き出していて面白かったのを追記しておきたい。