顔見世大歌舞伎だが、歌舞伎公演が、この新橋演舞場に移ってからは、一般の関心が薄れたのか、空席が目立つようになった。
芝居の質も役者の熱の入れようも絶好調であるにも拘わらずである。
今回の昼の部は、通し狂言「天衣粉上野初花」で、幸四郎の河内山宗俊と菊五郎の片岡直次郎が同時に鑑賞できて、それに、悪人二人の馴れ合いなど連続性のある話が楽しめる上に、時蔵の三千歳や田之助の按摩丈賀などを始めわき役陣も豪華で、流石に、顔見世興行である。
尤も、この通し狂言だが、前半は、質屋上州屋の娘お藤が、奉公先の松江出雲守(錦之助)に妾になれと強要されて困っているのを、河内山が、上野の使僧に化けて松江藩屋敷にのり込んで、脅しあげて助けると言う同じ悪でも観客の庶民にとっては胸のすくような「松江家上屋敷」の場と、
後半は、悪事が露見して追われる身の直次郎が、雪の中を病気療養中の遊女三千歳を見舞いに行き、途中蕎麦屋に立ち寄ってしんみりとさせる人間模様を描いた「入谷」の場との二つの山場があるダブル・メインの芝居ではある。
歌舞伎には、強請の舞台が色々あるのだが、大概、誰か他の人物が登場して、そのからくりが見破られて、すごすごと退散すると言ったシチュエーションが多い。
しかし、この河内山宗俊は、大名を強請って、お藤の下げ渡しを承諾させ、「山吹のお茶を所望」と言って金子まで巻き上げたうえに、帰る途中玄関口で、高頬のほくろを証拠に見破られたにも拘わらず、どっかと座り込んで聞いてくれと「悪に強きは善にもと・・・」と大啖呵を切って、弱みに抗弁できずに歯軋りする松江候を尻目にして、「馬鹿め」と捨て台詞を残して、意気揚々と退散するのである。
舞台冒頭は、つまらぬ質草で上州屋から金を借りようとする低俗な強請なのだが、とにかく、数寄屋坊主であるとは言え、上野寛永寺の法親王の使僧に化けて大名の江戸屋敷に乗りこむのだから、それなりの貫録と品格が求められる。
それが、北村大膳(錦吾)に、河内山だと見破られると、一挙に本性を現してベランメエ調になって「大膳は、これを知っていたか、はハハハ。・・・」と毒ずく、この化けの皮が剥がれても度胸で押し切るあたりは、並みの悪党ではない。
「ひじきと油揚げなどの安物ばかり食っているので、良い考えが浮かばない」と庶民を見下し、悪知恵の働き過ぎるお数寄屋坊主と言う太平天国の江戸幕府体制の仇花なのだが、悪と言うよりも、一種の社会浄化請負人と言った位置づけであるのが面白い。
この河内山は、吉右衛門や團十郎でも見ており、夫々の舞台で、楽しませて貰っているが、どちらかと言えば、喜劇役者からは一番遠い感じの生真面目でインテリ風の幸四郎の演技には、シリアスな人間模様と言うか、屈折した心の軌跡のようなものが垣間見えていて、興味深い。
支度金として前金を要求するあたりも、幸四郎・宗俊だと、いわば、命を懸けての大名強請であるから、徹底的に準備を整えて対処して、大膳に見破られなくても、首尾万端怠りなくシュミレーションしているので、玄関口の居直りなども計算づくであろうと思えて、それ相応の準備金が必要であろうと考えたりするのも、舞台鑑賞の楽しみの一つである。
吉右衛門や團十郎だと、元々、肝の据わった度胸だけで生きている悪の権化のようなお数寄屋坊主だと考えられないこともないので、後先考えなくても、ぶっつけ本番で対処。そう考えると、玄関口の非常にリズミカルで流れるような大啖呵のニュアンスも大分違って来て面白い。
忠臣高木小左衛門の彦三郎(前に、松江候を演じていたのを見た)や、大名の意地を上手く見せていた松江出雲守の錦之助は、適役で良かった。
さて、直次郎だが、前にも菊五郎の舞台を見ており、今回も、しっとりとした人間模様が描かれている「入谷村蕎麦屋の場」で、人生の悲哀を一身に集めたような風情で、滑らないように深く積もった雪道を歩いて蕎麦屋の暖簾をくぐる陰のあるいい男の登場から、引き込まれて行く。
今回の舞台だけでは、直次郎がお尋ね者で追われる身であることくらいは分かっても、実際の悪の現場は見ていないので、どうしても悪人だと思えないのが難で、私には、入谷の寮で療養している三千歳に暇乞いに会うために、追手を逃れて訪ねて来て交わす二人の会話とか、按摩丈賀とのしんみりした会話などで醸し出される人間味のある直次郎の印象の方が強くて、そんな目で菊五郎の舞台を見ている。
別れるのなら、いっそ死んだ方がましだと縋り付く三千歳の時蔵だが、成熟した女の色香を濃厚に漂わせながら、一途の思いを、直次郎にぶっつけており、切羽詰りながらも、しっとりとした二人の恋模様が、実に味わい深くて良い。
刺客であり恋敵であり、三千歳を中にして、絶えず争い合っている金子市之丞(段四郎)が、最後に、どんでん返しと言うか、実は、三千歳の兄であって、三千歳を身請けして、その年季証文を叩きつけると言う話の設定は、面白いが、一寸、唐突で芝居がかり過ぎていて、感興を削ぐ。
勿論、段四郎は、益々、性格俳優の本領を発揮していて上手い。
いずれにしろ、江戸の顔見世興行で、非常に質の高い舞台で、楽しませて貰った。
芝居の質も役者の熱の入れようも絶好調であるにも拘わらずである。
今回の昼の部は、通し狂言「天衣粉上野初花」で、幸四郎の河内山宗俊と菊五郎の片岡直次郎が同時に鑑賞できて、それに、悪人二人の馴れ合いなど連続性のある話が楽しめる上に、時蔵の三千歳や田之助の按摩丈賀などを始めわき役陣も豪華で、流石に、顔見世興行である。
尤も、この通し狂言だが、前半は、質屋上州屋の娘お藤が、奉公先の松江出雲守(錦之助)に妾になれと強要されて困っているのを、河内山が、上野の使僧に化けて松江藩屋敷にのり込んで、脅しあげて助けると言う同じ悪でも観客の庶民にとっては胸のすくような「松江家上屋敷」の場と、
後半は、悪事が露見して追われる身の直次郎が、雪の中を病気療養中の遊女三千歳を見舞いに行き、途中蕎麦屋に立ち寄ってしんみりとさせる人間模様を描いた「入谷」の場との二つの山場があるダブル・メインの芝居ではある。
歌舞伎には、強請の舞台が色々あるのだが、大概、誰か他の人物が登場して、そのからくりが見破られて、すごすごと退散すると言ったシチュエーションが多い。
しかし、この河内山宗俊は、大名を強請って、お藤の下げ渡しを承諾させ、「山吹のお茶を所望」と言って金子まで巻き上げたうえに、帰る途中玄関口で、高頬のほくろを証拠に見破られたにも拘わらず、どっかと座り込んで聞いてくれと「悪に強きは善にもと・・・」と大啖呵を切って、弱みに抗弁できずに歯軋りする松江候を尻目にして、「馬鹿め」と捨て台詞を残して、意気揚々と退散するのである。
舞台冒頭は、つまらぬ質草で上州屋から金を借りようとする低俗な強請なのだが、とにかく、数寄屋坊主であるとは言え、上野寛永寺の法親王の使僧に化けて大名の江戸屋敷に乗りこむのだから、それなりの貫録と品格が求められる。
それが、北村大膳(錦吾)に、河内山だと見破られると、一挙に本性を現してベランメエ調になって「大膳は、これを知っていたか、はハハハ。・・・」と毒ずく、この化けの皮が剥がれても度胸で押し切るあたりは、並みの悪党ではない。
「ひじきと油揚げなどの安物ばかり食っているので、良い考えが浮かばない」と庶民を見下し、悪知恵の働き過ぎるお数寄屋坊主と言う太平天国の江戸幕府体制の仇花なのだが、悪と言うよりも、一種の社会浄化請負人と言った位置づけであるのが面白い。
この河内山は、吉右衛門や團十郎でも見ており、夫々の舞台で、楽しませて貰っているが、どちらかと言えば、喜劇役者からは一番遠い感じの生真面目でインテリ風の幸四郎の演技には、シリアスな人間模様と言うか、屈折した心の軌跡のようなものが垣間見えていて、興味深い。
支度金として前金を要求するあたりも、幸四郎・宗俊だと、いわば、命を懸けての大名強請であるから、徹底的に準備を整えて対処して、大膳に見破られなくても、首尾万端怠りなくシュミレーションしているので、玄関口の居直りなども計算づくであろうと思えて、それ相応の準備金が必要であろうと考えたりするのも、舞台鑑賞の楽しみの一つである。
吉右衛門や團十郎だと、元々、肝の据わった度胸だけで生きている悪の権化のようなお数寄屋坊主だと考えられないこともないので、後先考えなくても、ぶっつけ本番で対処。そう考えると、玄関口の非常にリズミカルで流れるような大啖呵のニュアンスも大分違って来て面白い。
忠臣高木小左衛門の彦三郎(前に、松江候を演じていたのを見た)や、大名の意地を上手く見せていた松江出雲守の錦之助は、適役で良かった。
さて、直次郎だが、前にも菊五郎の舞台を見ており、今回も、しっとりとした人間模様が描かれている「入谷村蕎麦屋の場」で、人生の悲哀を一身に集めたような風情で、滑らないように深く積もった雪道を歩いて蕎麦屋の暖簾をくぐる陰のあるいい男の登場から、引き込まれて行く。
今回の舞台だけでは、直次郎がお尋ね者で追われる身であることくらいは分かっても、実際の悪の現場は見ていないので、どうしても悪人だと思えないのが難で、私には、入谷の寮で療養している三千歳に暇乞いに会うために、追手を逃れて訪ねて来て交わす二人の会話とか、按摩丈賀とのしんみりした会話などで醸し出される人間味のある直次郎の印象の方が強くて、そんな目で菊五郎の舞台を見ている。
別れるのなら、いっそ死んだ方がましだと縋り付く三千歳の時蔵だが、成熟した女の色香を濃厚に漂わせながら、一途の思いを、直次郎にぶっつけており、切羽詰りながらも、しっとりとした二人の恋模様が、実に味わい深くて良い。
刺客であり恋敵であり、三千歳を中にして、絶えず争い合っている金子市之丞(段四郎)が、最後に、どんでん返しと言うか、実は、三千歳の兄であって、三千歳を身請けして、その年季証文を叩きつけると言う話の設定は、面白いが、一寸、唐突で芝居がかり過ぎていて、感興を削ぐ。
勿論、段四郎は、益々、性格俳優の本領を発揮していて上手い。
いずれにしろ、江戸の顔見世興行で、非常に質の高い舞台で、楽しませて貰った。