先月の新橋演舞場の歌舞伎について、ブログを端折ってしまったのだが、今回、「天衣紛上野初花」の舞台で、片岡直次郎や河内山宗俊の悪を見て、団十郎と仁左衛門が演じた「加賀鳶」、特に、團十郎の道玄の悪辣ぶりと歌舞伎の悪の美学について書いておくべきだと思って筆を執った。
手元にある演劇界の「歌舞伎の悪」の中の記事で、この本への執筆者9人の選んだ「悪人ベスト5」の中の3悪人の一人が、道玄なのである。
ほかの二人は、藤原時平と蘇我入鹿で、これらは、実悪、天下を覆すとか言った大きな社会悪とも言うべき存在だが、道玄の方は、ヤクザなしがない一般庶民と言うか市井のどこにでもいるような人物であるから、その悪度さが分かろうと言うものである。
この團十郎が演じた道玄だが、路上で持病に苦しむ百姓太次右衛門を介抱する振りをして殺害して金を奪うのだが、その妹おせつ(右之助)を女房にしながらも殴る蹴るの狼藉、女按摩お兼(福助)を愛人にして毎日酒と博打に入りびたり。
太次右衛門の娘お朝(宗之助)を近所の豪商伊勢屋に奉公に出しているのだが、おせつの病気に同情して主人伊勢屋与兵衛(家橘)に5両を恵んで貰ったのをネタに、お兼と強請を企んで伊勢屋に乗り込む。その前に、帰っていたお朝を苦界に売り飛ばす。
お兼と偽手紙を拵えて、主人がお朝を弄んだと因縁をつけて強請る。成功しかかったところへ、日蔭町松蔵(仁左衛門)が駆けつけて、筆跡から偽手紙を暴露し、現場で落とした煙草入れを示されて御茶ノ水での太次右衛門殺しの一件を仄めかされて、すごすごと退散する。
赤犬が、軒下に隠しておいた血染めの衣類を掘り出して長屋は大騒ぎ。結局、お兼と道玄は、捕縛されるのだが、終幕の加賀藩江戸屋敷表門での闇夜の世話だんまりで、捕り手たちに追いかけられながら逃げ回る道玄の滑稽さが、悪辣さの解毒剤ともなってご愛嬌と言うところであろうか。
同じ悪太郎でも、近松の女殺油地獄の与兵衛には、多少、良心の呵責があるのだが、この道玄に至っては、悪の意識とか罪の意識などは勿論、人を思う意識など欠片もなく、これだけ自分勝手に生きられる人間がいるのかと言うことだが、相棒のお兼も似たり寄ったりで、正に、類は友を呼ぶである。
したがって、やはり、この歌舞伎の山場は、竹町質店の場での道玄とお兼の強請の舞台で、二人の手前勝手な強弁と、その後に登場する松蔵によるどんでん返しである。
前に見たのが、幸四郎の道玄、秀太郎のお兼、吉右衛門の松蔵だったが、やはり、役者が変わると、同じ芝居でも印象が全く違って来るのが面白い。
初代の父・菰の十蔵が、当時の侠客、男伊達の一人であったことからも、團十郎家の伝統である荒事の中には、江戸アウトローたちへの思いが流れているのであろうが、この時の悪は、強いとか正義感に似たものがあったが、この道玄の世界は、それとは違って、全く恰好の悪い悪辣なチンピラの悪の世界で、世話物の芝居。
しかし、性格的にもまじめ一方と言うか、大きな目にモノを言わせた團十郎の道玄は、実に味がある。不思議にも凄みを全く感じさせない、しかし、俗に言われている小悪党と言う感じではないが、器用に世渡りをしながら泳いでいる倫理観道徳観全く欠如の欠陥人間を地で行くように巧みに演じている。
このあたりの團十郎は、お家の芸である荒事の豪壮な世界を現出する團十郎ではなく、正に、等身大、しかし、人間の真実に迫ろうとする気迫と思い入れが脈打っていて感動的である。
どこかインテリヤクザ的な雰囲気のある幸四郎の道玄とは違った團十郎の、不器用さが隠れて人間そのものをぶっつけている芸が、道玄の救いようのない悪を、同じ悪を展開しながらも、実に後味の良い芝居に仕立てているような気がしたのである。
ところで、お兼だが、人気の高い秀太郎に対して、福助も上手い。
あの万野の時にも感じたのだが、徹頭徹尾意地の悪い女を演じさせると、どこか崩れた感じの人物表現の上手い福助が光る。
女房おせつの後釜に座ろうとしているのだが、質店の場での、道玄の強請に加勢するお兼の悪辣さぶりは、道玄の上を行っている感じで、福助演じるお兼の芸も堂に行っている。
仁左衛門の日蔭町松蔵は、言うまでもなく、適役で、團十郎との掛け合い、相性が実に良くて、見ていて気持ちが良い。
演技をしなくても、地で行けば素晴らしい舞台が生まれると言った印象を与えてしまうのも、仁左衛門の芸の凄さかも知れない。
この芝居は、加賀鳶だが、冒頭の「本郷木戸前勢揃い」の場で、喧嘩を仕掛けようと子分たちと繰り出す松蔵たちを、天神町梅吉(団十郎)が、喧嘩場を納めると言うところだけしか加賀鳶が出てこない。
河竹黙阿弥の原作を一部切り取った演出なのでそうなっているのだが、長い芝居をさわりだけで見せる歌舞伎の世界の面白さであろうか。
手元にある演劇界の「歌舞伎の悪」の中の記事で、この本への執筆者9人の選んだ「悪人ベスト5」の中の3悪人の一人が、道玄なのである。
ほかの二人は、藤原時平と蘇我入鹿で、これらは、実悪、天下を覆すとか言った大きな社会悪とも言うべき存在だが、道玄の方は、ヤクザなしがない一般庶民と言うか市井のどこにでもいるような人物であるから、その悪度さが分かろうと言うものである。
この團十郎が演じた道玄だが、路上で持病に苦しむ百姓太次右衛門を介抱する振りをして殺害して金を奪うのだが、その妹おせつ(右之助)を女房にしながらも殴る蹴るの狼藉、女按摩お兼(福助)を愛人にして毎日酒と博打に入りびたり。
太次右衛門の娘お朝(宗之助)を近所の豪商伊勢屋に奉公に出しているのだが、おせつの病気に同情して主人伊勢屋与兵衛(家橘)に5両を恵んで貰ったのをネタに、お兼と強請を企んで伊勢屋に乗り込む。その前に、帰っていたお朝を苦界に売り飛ばす。
お兼と偽手紙を拵えて、主人がお朝を弄んだと因縁をつけて強請る。成功しかかったところへ、日蔭町松蔵(仁左衛門)が駆けつけて、筆跡から偽手紙を暴露し、現場で落とした煙草入れを示されて御茶ノ水での太次右衛門殺しの一件を仄めかされて、すごすごと退散する。
赤犬が、軒下に隠しておいた血染めの衣類を掘り出して長屋は大騒ぎ。結局、お兼と道玄は、捕縛されるのだが、終幕の加賀藩江戸屋敷表門での闇夜の世話だんまりで、捕り手たちに追いかけられながら逃げ回る道玄の滑稽さが、悪辣さの解毒剤ともなってご愛嬌と言うところであろうか。
同じ悪太郎でも、近松の女殺油地獄の与兵衛には、多少、良心の呵責があるのだが、この道玄に至っては、悪の意識とか罪の意識などは勿論、人を思う意識など欠片もなく、これだけ自分勝手に生きられる人間がいるのかと言うことだが、相棒のお兼も似たり寄ったりで、正に、類は友を呼ぶである。
したがって、やはり、この歌舞伎の山場は、竹町質店の場での道玄とお兼の強請の舞台で、二人の手前勝手な強弁と、その後に登場する松蔵によるどんでん返しである。
前に見たのが、幸四郎の道玄、秀太郎のお兼、吉右衛門の松蔵だったが、やはり、役者が変わると、同じ芝居でも印象が全く違って来るのが面白い。
初代の父・菰の十蔵が、当時の侠客、男伊達の一人であったことからも、團十郎家の伝統である荒事の中には、江戸アウトローたちへの思いが流れているのであろうが、この時の悪は、強いとか正義感に似たものがあったが、この道玄の世界は、それとは違って、全く恰好の悪い悪辣なチンピラの悪の世界で、世話物の芝居。
しかし、性格的にもまじめ一方と言うか、大きな目にモノを言わせた團十郎の道玄は、実に味がある。不思議にも凄みを全く感じさせない、しかし、俗に言われている小悪党と言う感じではないが、器用に世渡りをしながら泳いでいる倫理観道徳観全く欠如の欠陥人間を地で行くように巧みに演じている。
このあたりの團十郎は、お家の芸である荒事の豪壮な世界を現出する團十郎ではなく、正に、等身大、しかし、人間の真実に迫ろうとする気迫と思い入れが脈打っていて感動的である。
どこかインテリヤクザ的な雰囲気のある幸四郎の道玄とは違った團十郎の、不器用さが隠れて人間そのものをぶっつけている芸が、道玄の救いようのない悪を、同じ悪を展開しながらも、実に後味の良い芝居に仕立てているような気がしたのである。
ところで、お兼だが、人気の高い秀太郎に対して、福助も上手い。
あの万野の時にも感じたのだが、徹頭徹尾意地の悪い女を演じさせると、どこか崩れた感じの人物表現の上手い福助が光る。
女房おせつの後釜に座ろうとしているのだが、質店の場での、道玄の強請に加勢するお兼の悪辣さぶりは、道玄の上を行っている感じで、福助演じるお兼の芸も堂に行っている。
仁左衛門の日蔭町松蔵は、言うまでもなく、適役で、團十郎との掛け合い、相性が実に良くて、見ていて気持ちが良い。
演技をしなくても、地で行けば素晴らしい舞台が生まれると言った印象を与えてしまうのも、仁左衛門の芸の凄さかも知れない。
この芝居は、加賀鳶だが、冒頭の「本郷木戸前勢揃い」の場で、喧嘩を仕掛けようと子分たちと繰り出す松蔵たちを、天神町梅吉(団十郎)が、喧嘩場を納めると言うところだけしか加賀鳶が出てこない。
河竹黙阿弥の原作を一部切り取った演出なのでそうなっているのだが、長い芝居をさわりだけで見せる歌舞伎の世界の面白さであろうか。