九段下のイタリア文化会館で、毎年秋には、森永のエンゼル財団が、「ダンテフォーラム」と銘打った非常に格調の高い講演会を開いているので、今回も参加して勉強させて貰った。
今回は、哲学者の今道友信先生は登壇されなかったが、「芸術都市の経営」と言うタイトルで、樺山紘一、田中英道、松田義幸の各先生方が、夫々専門の分野から、イタリアを題材にして語られた。
前回は「音楽と交響」と言うテーマであったが、元々、ダンテの「神曲」から始まっているフォーラムであるから、ダンテやフィレンツエが前面に出てくるのだが、今回は、樺山先生が、オスマントルコの脅威に対抗するために生まれた群雄割拠のイタリア五大都市国家主導のロディ和約による同盟成立から説き起こして、盛期ルネサンス時代のイタリア国家の新しい胎動から、政治と言うマキャヴェリの都市経営思想が生まれ出る過程へと話題を展開し、
田中先生が、ジョット―の世界を、アッシジの聖フランチェスコ伝「火の試練」(口絵写真)から、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画、そして、フィレンツエのサンタ・マリア・フィオーレ大聖堂とジョット―の鐘楼の作品を語りながら、イタリア文化文明が、東洋の影響を大きく受けて、東西文化の遭遇および融合が進んで行ったことなどを興味深く語った。
どちらかと言えば、ローマ教皇側とローマ皇帝側との二つの焦点に分かれて、思い思いの道を歩んでいたイタリアの都市国家が、1450年頃を境にして、非常に興味深くも、独特の成り立ちと個性を持った政治体制の違った5つの都市国家に均衡して行き、一等群を抜いたメディチ家のフィレンツエで芸術とは全く異質なマキャヴェリの政治思想が花開き、イタリアの経済社会が大きく変わって行くのだが、その前に、ダンテやジョット―によって始動し触発されて、学術・文化・芸術の豊かな芸術都市フィレンツエが生まれ出る土壌が、徐々に醸成さて行く。
樺山先生は、経営MANEGEMENTとは、良い時も悪い時も、様々の角度から、あるいは、色々な方面から取り組んで行って試行錯誤の試みの中から苦労しながら結論を引き出すと言う意味もあると語りながら、イタリア国家の推移を現在までの流れで説いていたが、正に、イタリアの芸術都市の創造は、この偉大なイタリア人たちのマネジメントの産物だと言うことであろう。
また、田中先生の言うように、高度な文化と文明を持った東洋との遭遇が、謂わば、学問や芸術がぶつかり合う十字路を醸成して、新しい知と美の創造を爆発させたのである。
ルネサンスの誕生は、東洋の影響を抜きにしては語れないと言うことである。
田中先生は、丁度、ジョット―が誕生した頃は、モンゴルの活動期であり、正に、この元寇が、東西を結び付けて、いわば、世界を作ったのだと言う。
日本では、モンゴルは野蛮なように思われているが、そうではなく、ヨーロッパに文化を持って行ったのだと強調する。
田中先生は、日本の美意識や文化は、決して、イタリアには負けない素晴らしいものを持っていると主張する反面、戦後は、文化の国だと言うことを忘れて、文化の価値が分からず、その反対のことばかりして、現代的で醜いものばかりを作り続けており、東京の高層ビルや京都タワーなどは、その最たるものだと言う。
それに、総合的な教養と知見を備えた人々、例えば政治家でも、政治を語り且つ又文化を語れるような人が皆無となり、嘆かわしい限りだとも言う。
松田義幸先生は、「世界遺産政策の視点から見た芸術都市の経営」について語った。
ユネスコの世界遺産憲章について触れ、「地球市民・地球社会」の平和を希求する視点の重要性を強調し、世界遺産は、民族的価値・普遍的価値・共通善の体現であり、異文化・異文明の相互理解のための学習教材であると言う認識が重要で、そのためにも、アウシュビッツ強制収容所や広島の原爆ドームの存在は、大きな意味を持つと言う。
本来、世界遺産については、ユネスコであるから文科省の管轄の筈だが、日本では、国交省の仕事となっていて、そのアプローチと対応が基本的に間違っている。
確かに、世界遺産に登録されると、観光客が30%以上も増加すると言うことだが、観光資源としての重要さよりも、学問・芸術へのあこがれとしての芸術教育の意味合いが強いと言う。
ジョット―のところで、田中先生は、鐘楼の鐘塔の浮き彫りに描かれた労働讃歌とも言うべき労働尊重の哲学について語ったが、この生活芸術が、文化芸術の遺伝子として継承され、フィレンツエの芸術都市の普遍的な指針として息づいているのだと言うことであろう。
偉大な画家が、最後には偉大な建築家として、素晴らしい建築物を残すのは、このジョット―と同様に、ミケランジェロも、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうであったのだが、これも偶然ではなく、専門化が進む反面、総合化が並行して進んで行く当時のイタリアの文化芸術風土が、正に、創造の坩堝であったと言うことでもある。
この偉大な芸術家たちが雲霞のごとく輩出して群雄割拠して、壮大なルネサンスの華を咲かせた芸術都市フィレンツエの素晴らしさは、筆舌に尽くし難いが、奈良が1300年を祝うように、日本が、奈良や京都で、文化の華を咲かせたのは、フィレンツエよりは、もっともっと早い時期のことであり、ヨーロッパで、長く、そして、多くの偉大な芸術に接して勉強し続けて来た田中先生のように日本人の文化力を確信し、日本文化回帰への熱烈な思いがなければ、日本での芸術都市再建は、難しいと言うことでもある。
学生時代に、奈良や京都での歴史散策に明け暮れ、欧米などでも、美しいもの素晴らしいものなど人間の英知と美意識を昇華させた素晴らしい遺産を追い求めて歩き続けて来た私には、田中先生の思いが痛いほど良く分かる。
松田先生は、何も、経営は、経済や経営の専売特許ではなく、このような芸術都市を如何に作り上げて維持して行くのかと言った長期的な広い政策も経営であると語っていたが、これは、これまでにも、このブログで何度も書いたように、マネジメントは、あらゆる組織に適用できるものであると言うのは、ドラッカーが強調して止まなかった哲学で、晩年には、資本主義や大企業の将来に見切りをつけて、非営利組織や団体のマネジメントに熱心だった。
高校野球の女子マネージャーが、ドラッカーを読んでマネージャー業に勤しむのも、大臣が、省の長としてドラッカーを読んで大臣業務を行うのも、至極当然のことなのである。
残念ながら、当日、所用のために、松田先生の講義の途中で中座して、3人の先生方の丁々発止の鼎談を聞きそびれてしまったのを惜しんでいる。
今回は、哲学者の今道友信先生は登壇されなかったが、「芸術都市の経営」と言うタイトルで、樺山紘一、田中英道、松田義幸の各先生方が、夫々専門の分野から、イタリアを題材にして語られた。
前回は「音楽と交響」と言うテーマであったが、元々、ダンテの「神曲」から始まっているフォーラムであるから、ダンテやフィレンツエが前面に出てくるのだが、今回は、樺山先生が、オスマントルコの脅威に対抗するために生まれた群雄割拠のイタリア五大都市国家主導のロディ和約による同盟成立から説き起こして、盛期ルネサンス時代のイタリア国家の新しい胎動から、政治と言うマキャヴェリの都市経営思想が生まれ出る過程へと話題を展開し、
田中先生が、ジョット―の世界を、アッシジの聖フランチェスコ伝「火の試練」(口絵写真)から、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画、そして、フィレンツエのサンタ・マリア・フィオーレ大聖堂とジョット―の鐘楼の作品を語りながら、イタリア文化文明が、東洋の影響を大きく受けて、東西文化の遭遇および融合が進んで行ったことなどを興味深く語った。
どちらかと言えば、ローマ教皇側とローマ皇帝側との二つの焦点に分かれて、思い思いの道を歩んでいたイタリアの都市国家が、1450年頃を境にして、非常に興味深くも、独特の成り立ちと個性を持った政治体制の違った5つの都市国家に均衡して行き、一等群を抜いたメディチ家のフィレンツエで芸術とは全く異質なマキャヴェリの政治思想が花開き、イタリアの経済社会が大きく変わって行くのだが、その前に、ダンテやジョット―によって始動し触発されて、学術・文化・芸術の豊かな芸術都市フィレンツエが生まれ出る土壌が、徐々に醸成さて行く。
樺山先生は、経営MANEGEMENTとは、良い時も悪い時も、様々の角度から、あるいは、色々な方面から取り組んで行って試行錯誤の試みの中から苦労しながら結論を引き出すと言う意味もあると語りながら、イタリア国家の推移を現在までの流れで説いていたが、正に、イタリアの芸術都市の創造は、この偉大なイタリア人たちのマネジメントの産物だと言うことであろう。
また、田中先生の言うように、高度な文化と文明を持った東洋との遭遇が、謂わば、学問や芸術がぶつかり合う十字路を醸成して、新しい知と美の創造を爆発させたのである。
ルネサンスの誕生は、東洋の影響を抜きにしては語れないと言うことである。
田中先生は、丁度、ジョット―が誕生した頃は、モンゴルの活動期であり、正に、この元寇が、東西を結び付けて、いわば、世界を作ったのだと言う。
日本では、モンゴルは野蛮なように思われているが、そうではなく、ヨーロッパに文化を持って行ったのだと強調する。
田中先生は、日本の美意識や文化は、決して、イタリアには負けない素晴らしいものを持っていると主張する反面、戦後は、文化の国だと言うことを忘れて、文化の価値が分からず、その反対のことばかりして、現代的で醜いものばかりを作り続けており、東京の高層ビルや京都タワーなどは、その最たるものだと言う。
それに、総合的な教養と知見を備えた人々、例えば政治家でも、政治を語り且つ又文化を語れるような人が皆無となり、嘆かわしい限りだとも言う。
松田義幸先生は、「世界遺産政策の視点から見た芸術都市の経営」について語った。
ユネスコの世界遺産憲章について触れ、「地球市民・地球社会」の平和を希求する視点の重要性を強調し、世界遺産は、民族的価値・普遍的価値・共通善の体現であり、異文化・異文明の相互理解のための学習教材であると言う認識が重要で、そのためにも、アウシュビッツ強制収容所や広島の原爆ドームの存在は、大きな意味を持つと言う。
本来、世界遺産については、ユネスコであるから文科省の管轄の筈だが、日本では、国交省の仕事となっていて、そのアプローチと対応が基本的に間違っている。
確かに、世界遺産に登録されると、観光客が30%以上も増加すると言うことだが、観光資源としての重要さよりも、学問・芸術へのあこがれとしての芸術教育の意味合いが強いと言う。
ジョット―のところで、田中先生は、鐘楼の鐘塔の浮き彫りに描かれた労働讃歌とも言うべき労働尊重の哲学について語ったが、この生活芸術が、文化芸術の遺伝子として継承され、フィレンツエの芸術都市の普遍的な指針として息づいているのだと言うことであろう。
偉大な画家が、最後には偉大な建築家として、素晴らしい建築物を残すのは、このジョット―と同様に、ミケランジェロも、レオナルド・ダ・ヴィンチもそうであったのだが、これも偶然ではなく、専門化が進む反面、総合化が並行して進んで行く当時のイタリアの文化芸術風土が、正に、創造の坩堝であったと言うことでもある。
この偉大な芸術家たちが雲霞のごとく輩出して群雄割拠して、壮大なルネサンスの華を咲かせた芸術都市フィレンツエの素晴らしさは、筆舌に尽くし難いが、奈良が1300年を祝うように、日本が、奈良や京都で、文化の華を咲かせたのは、フィレンツエよりは、もっともっと早い時期のことであり、ヨーロッパで、長く、そして、多くの偉大な芸術に接して勉強し続けて来た田中先生のように日本人の文化力を確信し、日本文化回帰への熱烈な思いがなければ、日本での芸術都市再建は、難しいと言うことでもある。
学生時代に、奈良や京都での歴史散策に明け暮れ、欧米などでも、美しいもの素晴らしいものなど人間の英知と美意識を昇華させた素晴らしい遺産を追い求めて歩き続けて来た私には、田中先生の思いが痛いほど良く分かる。
松田先生は、何も、経営は、経済や経営の専売特許ではなく、このような芸術都市を如何に作り上げて維持して行くのかと言った長期的な広い政策も経営であると語っていたが、これは、これまでにも、このブログで何度も書いたように、マネジメントは、あらゆる組織に適用できるものであると言うのは、ドラッカーが強調して止まなかった哲学で、晩年には、資本主義や大企業の将来に見切りをつけて、非営利組織や団体のマネジメントに熱心だった。
高校野球の女子マネージャーが、ドラッカーを読んでマネージャー業に勤しむのも、大臣が、省の長としてドラッカーを読んで大臣業務を行うのも、至極当然のことなのである。
残念ながら、当日、所用のために、松田先生の講義の途中で中座して、3人の先生方の丁々発止の鼎談を聞きそびれてしまったのを惜しんでいる。