久しぶりに訪れた鎌倉で、朝時間が少し取れたので源氏山に出かけた。
まだ、秋の気配が少なく、道中、萩の花にも出会わず、銭洗弁天の横を通り越して、源氏山に向かったのだが、この急坂は、やはりきつく、一気に汗が噴き出る。
源氏山の頼朝像の手前のアベリヤが白い花をつけていたが、他には、季節を感じさせるような花木もなく、気持ちの良い冷気だけが、秋の訪れを感じさせてくれていた。
この日は、いつもの様に、浄智寺から北鎌倉に抜けずに、化粧坂を下りて、海蔵寺に向かった。
この化粧坂は、新田義貞が鎌倉に攻め行った時の激戦地とかで、上から真下に民家が見えるくらいの急坂で、ほんの2~3百メートル下れば一気に平地に下りてしまう。
途中、歌舞伎でもお馴染みの勇猛果敢な景清の土牢跡が残っていて、切り立った岩が往時を忍ばせている。
海蔵寺への途中、民家の壁面に垂れ下がっていた宮城野萩が、綺麗に咲いていて紋黄蝶が戯れていたのだが、海蔵寺の萩は、残念ながら、もう終わってしまっていた。
前に来た時には紅葉が美しかったのだが、閉まっていたので、そのまま引き返して、街道に出た。



山の集落から鎌倉駅方面に向かって線路の西側を走っている本道に出ると、自動車の通行がかなりあって厄介なのだが、この通りに沿って、太田道灌ゆかりの英勝寺と北条政子開基の寿福寺がある。
英勝寺だが、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌の旧居跡地で、道灌の子孫の女子が、水戸藩主・徳川頼房の養母を務め、家康の死後は落飾して英勝院と称していたのだが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷のこの地を賜り、この英勝寺を創建したと言うのであり、尼寺である。
私など、江戸城築城の道灌しか知らないので、何故、鎌倉に道灌の家があったのだろうと思った程で、迂闊であった。
急な雨に打たれた道灌が、蓑を貸して欲しいと言ったら少女が一枝の山吹を差し出したと言う有名な山吹逸話は、ここに住んでいた時の話だと言う。
「七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき」と言う後拾遺集の醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王の歌を知っていた少女と、知らなくて痛く恥じ入った道灌との話は、狂言の世界のようで面白い。
英勝寺の中へは入らずに、先を急いだ。

寿福寺は、総門から中門までの参道は歩けるが、中門から内側の境内は一般公開されておらず、左手の横道から回り込んで、境内裏手の墓地には上れる。
ここには、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥の横穴式墓所には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があるのだが、実に質素でびっくりするほどである。
この寿福寺は、源氏山を背負っているので、その直下にあって、険しい山道を下れば、頼朝像から、ほんの2~3百メートルの距離なのであるが、私は、まだ、通ったことがない。

鎌倉駅へ向かう途中、小町通りに出て、途中にある能・狂言関連本を沢山集めている古書店に立ち寄ろうと思って出かけたのだが、消えてしまっていた。
もう一軒、小町通りにもあったのだが、これも、なくなってしまっていた。
鎌倉の古書店は、土地柄か、並んでいる古書が、どことなく違っていて、文化の香りがすると言うのか、一寸、古風な感じの味のある本が、並んでいたりするので見るだけでも興味深かったのだが、やはり、時代の流れか、或いは、観光地にそぐわないのか、一寸、残念な感じがして、仕方なく、佐助に帰って行った。
古書店も、神保町にある夫々歴史の重みを感じさせる専門を持った古書店の味は、やはり捨てがたく、皆ブックオフの様になってしまえば、タダの古本を売っている店と言うだけで、古書文化が廃れてしまうのだが、街の電気屋が消えて、量販店ばかりになるのと同じで、何か大切なものを、どんどん失って行く感じであり、寂しい。
ところで、余談だが、鎌倉駅から、銭洗弁天に向かう観光客が多いが、観光案内には、二つ行き方が書かれているが、紀ノ国屋(スーパー)前で、右折れして北方向に向かってトンネルを通って行く道よりも、もう一方の紀ノ国屋を右手にまっすぐ直進して市役所の前を法務局に向かう道の方が、かなり短くて坂も楽である。
それに、法務省手前道路右手に見えてくる、福来鳥(レストラン)の看板手前で、右手に入り込むショートカット道を辿るともっと良い。
もう一つ、源氏山を抜けて、北鎌倉と、鎌倉や長谷両方を歩く人にとっては、北鎌倉から上るよりも、鎌倉側の弁財天や長谷から、源氏山を経て、北鎌倉に下る方が楽である。
いずれにしても健脚向きだとは思うが、これから、涼しくなってくると良い観光ルートではあると思う。
まだ、秋の気配が少なく、道中、萩の花にも出会わず、銭洗弁天の横を通り越して、源氏山に向かったのだが、この急坂は、やはりきつく、一気に汗が噴き出る。
源氏山の頼朝像の手前のアベリヤが白い花をつけていたが、他には、季節を感じさせるような花木もなく、気持ちの良い冷気だけが、秋の訪れを感じさせてくれていた。
この日は、いつもの様に、浄智寺から北鎌倉に抜けずに、化粧坂を下りて、海蔵寺に向かった。
この化粧坂は、新田義貞が鎌倉に攻め行った時の激戦地とかで、上から真下に民家が見えるくらいの急坂で、ほんの2~3百メートル下れば一気に平地に下りてしまう。
途中、歌舞伎でもお馴染みの勇猛果敢な景清の土牢跡が残っていて、切り立った岩が往時を忍ばせている。
海蔵寺への途中、民家の壁面に垂れ下がっていた宮城野萩が、綺麗に咲いていて紋黄蝶が戯れていたのだが、海蔵寺の萩は、残念ながら、もう終わってしまっていた。
前に来た時には紅葉が美しかったのだが、閉まっていたので、そのまま引き返して、街道に出た。



山の集落から鎌倉駅方面に向かって線路の西側を走っている本道に出ると、自動車の通行がかなりあって厄介なのだが、この通りに沿って、太田道灌ゆかりの英勝寺と北条政子開基の寿福寺がある。
英勝寺だが、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌の旧居跡地で、道灌の子孫の女子が、水戸藩主・徳川頼房の養母を務め、家康の死後は落飾して英勝院と称していたのだが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷のこの地を賜り、この英勝寺を創建したと言うのであり、尼寺である。
私など、江戸城築城の道灌しか知らないので、何故、鎌倉に道灌の家があったのだろうと思った程で、迂闊であった。
急な雨に打たれた道灌が、蓑を貸して欲しいと言ったら少女が一枝の山吹を差し出したと言う有名な山吹逸話は、ここに住んでいた時の話だと言う。
「七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき」と言う後拾遺集の醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王の歌を知っていた少女と、知らなくて痛く恥じ入った道灌との話は、狂言の世界のようで面白い。
英勝寺の中へは入らずに、先を急いだ。

寿福寺は、総門から中門までの参道は歩けるが、中門から内側の境内は一般公開されておらず、左手の横道から回り込んで、境内裏手の墓地には上れる。
ここには、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥の横穴式墓所には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があるのだが、実に質素でびっくりするほどである。
この寿福寺は、源氏山を背負っているので、その直下にあって、険しい山道を下れば、頼朝像から、ほんの2~3百メートルの距離なのであるが、私は、まだ、通ったことがない。

鎌倉駅へ向かう途中、小町通りに出て、途中にある能・狂言関連本を沢山集めている古書店に立ち寄ろうと思って出かけたのだが、消えてしまっていた。
もう一軒、小町通りにもあったのだが、これも、なくなってしまっていた。
鎌倉の古書店は、土地柄か、並んでいる古書が、どことなく違っていて、文化の香りがすると言うのか、一寸、古風な感じの味のある本が、並んでいたりするので見るだけでも興味深かったのだが、やはり、時代の流れか、或いは、観光地にそぐわないのか、一寸、残念な感じがして、仕方なく、佐助に帰って行った。
古書店も、神保町にある夫々歴史の重みを感じさせる専門を持った古書店の味は、やはり捨てがたく、皆ブックオフの様になってしまえば、タダの古本を売っている店と言うだけで、古書文化が廃れてしまうのだが、街の電気屋が消えて、量販店ばかりになるのと同じで、何か大切なものを、どんどん失って行く感じであり、寂しい。
ところで、余談だが、鎌倉駅から、銭洗弁天に向かう観光客が多いが、観光案内には、二つ行き方が書かれているが、紀ノ国屋(スーパー)前で、右折れして北方向に向かってトンネルを通って行く道よりも、もう一方の紀ノ国屋を右手にまっすぐ直進して市役所の前を法務局に向かう道の方が、かなり短くて坂も楽である。
それに、法務省手前道路右手に見えてくる、福来鳥(レストラン)の看板手前で、右手に入り込むショートカット道を辿るともっと良い。
もう一つ、源氏山を抜けて、北鎌倉と、鎌倉や長谷両方を歩く人にとっては、北鎌倉から上るよりも、鎌倉側の弁財天や長谷から、源氏山を経て、北鎌倉に下る方が楽である。
いずれにしても健脚向きだとは思うが、これから、涼しくなってくると良い観光ルートではあると思う。