国立演芸場の定席・中席のトリは、三遊亭圓丈のかぶき噺:文七元結だと言うので、文句なしに出かけた。
最近は、能・狂言・落語と、これまで楽しんできた歌舞伎や文楽の作品のルーツとも言うべき他のジャンルの古典芸能に触れようと、積極的に劇場へ通っているのだが、特に、落語の圓朝噺が、結構、歌舞伎の舞台に展開されていて、その接点なり違いが面白いのである。
今回の「文七元結」は、来月の新橋演舞場の歌舞伎で、菊五郎や菊之助が演じるし、圓朝の「塩原太助一代記」は、三津五郎主演で、今月の国立劇場で上演されていて、近く行くことになっている。
三遊亭圓朝の作品は、青空文庫をクリックすれば、大体読めるので、参考になるのだが、実際に語られる落語は、噺家によってかなりバリエーションがあり、それに、歌舞伎の舞台なども、圓朝の原作とは多少違っていて、その扱い方に興味をそそられるのである。
この「文七元結」は、圓朝の人情噺で、
左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きで、仕事もせずに借金を抱え、年末、賭場で負け続けて身ぐるみ剥がれて半纏一枚で帰って来て、娘お久が居なくなったと泣く女房のお兼との派手な夫婦喧嘩から噺が始まる。
この取り込み中、吉原の女郎屋の大店角海老から呼び出しの使い藤助が来て、その娘のお久が、角海老の女将の所に身を寄せていると言う。
女房の着物を剥がして一枚羽織って、しどけない恰好で角海老へ行くと、お久は、父の改心を願って、身売りをして金を工面するために、お角のところへ頼み込んだのだと言って、女将に散々説教される。女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないが、ただし大晦日を一日でも過ぎたら、女郎に出して客を取らせると言って、長兵衛に五十両の金を貸し与える。
長兵衛が、帰り道に吾妻橋のたもとで、身投げ寸前の男に出くわす。白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人文七で、回収に行った売り上げを掏られたので、死んでお詫びをするのだと言う。死ぬ、死ぬなの押し問答の末、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って得た身代金の五十両だと話して、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、”仕方がねえ、其の代り己の娘が悪い病を引受けませんよう、朝晩凶事なく達者で年期の明くまで勤めますようにと、お前心に掛けて、ふだん信心する不動様でも、お祖師様でも、何様へでも一生懸命に信心して遣っておくれ”と言って、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰って行く。
文七が、主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、「それはおかしい、お前が遣いにやった先で碁に熱中するあまり、売り上げを碁盤の下に忘れてきたので、先方が届けてくれて金はここにある。一体その金は、どうしたのだと主人に問い詰められて、文七は、長兵衛との次第を打ち明ける。
翌日、卯兵衛は万端段取りを整えて、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴き、これまでの経緯を説明し、五十両を長兵衛に返そうとすると、江戸っ子だ受け取れないと長兵衛ともめた挙句に、結局長兵衛が受け取る。卯兵衛は、これをご縁に、身寄りのない文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをお願いしたいと、祝いの盃を交わすこととし、肴をと、表から、近江屋が身請けをして着飾ったお久を呼び寄せる。
この後、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾分けして貰って、麹町六丁目に文七元結の店を開いたと言う芽出度い話である。
圓朝噺と大きく違っているのは、吾妻橋での金のやり取りの後、歌舞伎では、文七が、店に帰って、主人に50両を渡す鼈甲問屋「近江屋」の場は省略されていて、すぐに、長兵衛が、金を持たずに帰って来て、女房お兼と派手な喧嘩をするところからスタートする。
歌舞伎では、近江屋の主人が、暖簾分けしてお久を文七の嫁にと語る目出度し目出度しの会話が交わされるが、圓朝噺では、その点は、さらりと流して淡泊である。
圓丈の噺は、非常にキメ細かく語られれていて、当然一幕物であり、実質50分と、実に密度が高い。
普段の様に高座は置いてあるが、背後のバック・スクリーンが、舞台展開に合わせて4度変わり、照明など舞台効果に工夫が凝らされていて、舞台展開毎に、圓丈は、舞台を出入りしながら、高座に座って語っているので、いわば、シンプルな芝居噺と言うところで、一人芝居にも近い雰囲気であり、噺に奥行が出て来て非常に面白い。
語りは、勿論、超ベテランの噺家であり、非常に歯切れの良いメリハリの利いた語り口であるから、聞いていて正に感動的で、エスプリの利いた落語のほろ苦い味が随所に見え隠れしていて、しんみりとした笑いを誘って爽やかでさえある。
私は、この文七元結の落語は初めてなので、良く分からないのだけれど、恐らく、圓丈噺のバリエーションだろうと思うのだが、面白い脚色がなされていた。
詳細は忘れたが、文七が、不動だったか願掛けに通う社で、博打狂いのダメ親父を改心させるために熱心に通い詰めている乙女に恋をして、その逢瀬の約束の時間が気になって気も漫ろで碁を打ったと言う設定で、その話を吾妻橋で長兵衛に語るのである。
芝居の最後に、身請けされて帰って来たお久が、その娘であったと分かったことで、色恋はご法度の使用人である文七は、追放の身に合うのだが、除夜の鐘を聞いた卯兵衛は、心を変えて、文七を番頭に格上げして許すと言う話になっている。
この芝居の泣き笑いは、身包み剥がれて帰って来た長兵衛が、子供の半纏だけを借りて来て、これを妻のお兼の着物に取り換えたのだが、お兼は、既に、襦袢なども売ってしまっているので、下半身殆ど裸で、近江屋の卯兵衛と文七が来た時には、隠れていた二つ折れの衝立に坊主頭が見え隠れしたと言う話だから、実に切ない。
圓朝の原作だと、幕切れは、
”兼「オヤお久、帰ったかえ」
と云いながら起つと、間が悪いからクルリと廻って屏風の裡へ隠れました。”となるのだが、圓丈は、ストレートで、笑いを誘う。
来月の顔見世の舞台で、菊五郎の長兵衛と時蔵のお兼が、この貧乏夫婦を熱演するのだが、前回もそうだったが、その丁々発止の泣き笑いが、今から、楽しみである。
ところで、疑問なのは、時は大晦日、極寒の江戸では、下帯と子供の半纏で夜道を帰った長兵衛や裸同然のお兼は、病気にならなかったのであろうか。
それに、後先も考えずに悲惨な生活を送っていた長兵衛が、命大切と言って、娘を身売りした大枚50両を、ポンと文七にやれますかねえ。
まあ、こんなことは、下司の勘繰りであって、圓朝噺を、スラッと受け入れて楽しめば良いのだろうが、お久の健気さ可愛さに、いくら極道で徹頭徹尾ダメ親父でも、堪えたのであろうと思うとしんみりとしてしまう。
(追記)圓丈の口絵写真は、公演チラシをコピーさせて貰った。
最近は、能・狂言・落語と、これまで楽しんできた歌舞伎や文楽の作品のルーツとも言うべき他のジャンルの古典芸能に触れようと、積極的に劇場へ通っているのだが、特に、落語の圓朝噺が、結構、歌舞伎の舞台に展開されていて、その接点なり違いが面白いのである。
今回の「文七元結」は、来月の新橋演舞場の歌舞伎で、菊五郎や菊之助が演じるし、圓朝の「塩原太助一代記」は、三津五郎主演で、今月の国立劇場で上演されていて、近く行くことになっている。
三遊亭圓朝の作品は、青空文庫をクリックすれば、大体読めるので、参考になるのだが、実際に語られる落語は、噺家によってかなりバリエーションがあり、それに、歌舞伎の舞台なども、圓朝の原作とは多少違っていて、その扱い方に興味をそそられるのである。
この「文七元結」は、圓朝の人情噺で、
左官の長兵衛は、腕は立つのだが、無類のばくち好きで、仕事もせずに借金を抱え、年末、賭場で負け続けて身ぐるみ剥がれて半纏一枚で帰って来て、娘お久が居なくなったと泣く女房のお兼との派手な夫婦喧嘩から噺が始まる。
この取り込み中、吉原の女郎屋の大店角海老から呼び出しの使い藤助が来て、その娘のお久が、角海老の女将の所に身を寄せていると言う。
女房の着物を剥がして一枚羽織って、しどけない恰好で角海老へ行くと、お久は、父の改心を願って、身売りをして金を工面するために、お角のところへ頼み込んだのだと言って、女将に散々説教される。女将は、自身の身の回りをさせるだけで店には出さないが、ただし大晦日を一日でも過ぎたら、女郎に出して客を取らせると言って、長兵衛に五十両の金を貸し与える。
長兵衛が、帰り道に吾妻橋のたもとで、身投げ寸前の男に出くわす。白銀町の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人文七で、回収に行った売り上げを掏られたので、死んでお詫びをするのだと言う。死ぬ、死ぬなの押し問答の末、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って得た身代金の五十両だと話して、その金でお前の命が助かるのなら、娘は死ぬわけではないのでと、”仕方がねえ、其の代り己の娘が悪い病を引受けませんよう、朝晩凶事なく達者で年期の明くまで勤めますようにと、お前心に掛けて、ふだん信心する不動様でも、お祖師様でも、何様へでも一生懸命に信心して遣っておくれ”と言って、無理矢理五十両を押し付けて、逃げるように帰って行く。
文七が、主人卯兵衛の元に帰り、長兵衛からもらった金を差し出すと、「それはおかしい、お前が遣いにやった先で碁に熱中するあまり、売り上げを碁盤の下に忘れてきたので、先方が届けてくれて金はここにある。一体その金は、どうしたのだと主人に問い詰められて、文七は、長兵衛との次第を打ち明ける。
翌日、卯兵衛は万端段取りを整えて、文七をお供に長兵衛の長屋へと赴き、これまでの経緯を説明し、五十両を長兵衛に返そうとすると、江戸っ子だ受け取れないと長兵衛ともめた挙句に、結局長兵衛が受け取る。卯兵衛は、これをご縁に、身寄りのない文七を養子に、近江屋とも親戚付き合いをお願いしたいと、祝いの盃を交わすこととし、肴をと、表から、近江屋が身請けをして着飾ったお久を呼び寄せる。
この後、文七とお久が夫婦になり、近江屋から暖簾分けして貰って、麹町六丁目に文七元結の店を開いたと言う芽出度い話である。
圓朝噺と大きく違っているのは、吾妻橋での金のやり取りの後、歌舞伎では、文七が、店に帰って、主人に50両を渡す鼈甲問屋「近江屋」の場は省略されていて、すぐに、長兵衛が、金を持たずに帰って来て、女房お兼と派手な喧嘩をするところからスタートする。
歌舞伎では、近江屋の主人が、暖簾分けしてお久を文七の嫁にと語る目出度し目出度しの会話が交わされるが、圓朝噺では、その点は、さらりと流して淡泊である。
圓丈の噺は、非常にキメ細かく語られれていて、当然一幕物であり、実質50分と、実に密度が高い。
普段の様に高座は置いてあるが、背後のバック・スクリーンが、舞台展開に合わせて4度変わり、照明など舞台効果に工夫が凝らされていて、舞台展開毎に、圓丈は、舞台を出入りしながら、高座に座って語っているので、いわば、シンプルな芝居噺と言うところで、一人芝居にも近い雰囲気であり、噺に奥行が出て来て非常に面白い。
語りは、勿論、超ベテランの噺家であり、非常に歯切れの良いメリハリの利いた語り口であるから、聞いていて正に感動的で、エスプリの利いた落語のほろ苦い味が随所に見え隠れしていて、しんみりとした笑いを誘って爽やかでさえある。
私は、この文七元結の落語は初めてなので、良く分からないのだけれど、恐らく、圓丈噺のバリエーションだろうと思うのだが、面白い脚色がなされていた。
詳細は忘れたが、文七が、不動だったか願掛けに通う社で、博打狂いのダメ親父を改心させるために熱心に通い詰めている乙女に恋をして、その逢瀬の約束の時間が気になって気も漫ろで碁を打ったと言う設定で、その話を吾妻橋で長兵衛に語るのである。
芝居の最後に、身請けされて帰って来たお久が、その娘であったと分かったことで、色恋はご法度の使用人である文七は、追放の身に合うのだが、除夜の鐘を聞いた卯兵衛は、心を変えて、文七を番頭に格上げして許すと言う話になっている。
この芝居の泣き笑いは、身包み剥がれて帰って来た長兵衛が、子供の半纏だけを借りて来て、これを妻のお兼の着物に取り換えたのだが、お兼は、既に、襦袢なども売ってしまっているので、下半身殆ど裸で、近江屋の卯兵衛と文七が来た時には、隠れていた二つ折れの衝立に坊主頭が見え隠れしたと言う話だから、実に切ない。
圓朝の原作だと、幕切れは、
”兼「オヤお久、帰ったかえ」
と云いながら起つと、間が悪いからクルリと廻って屏風の裡へ隠れました。”となるのだが、圓丈は、ストレートで、笑いを誘う。
来月の顔見世の舞台で、菊五郎の長兵衛と時蔵のお兼が、この貧乏夫婦を熱演するのだが、前回もそうだったが、その丁々発止の泣き笑いが、今から、楽しみである。
ところで、疑問なのは、時は大晦日、極寒の江戸では、下帯と子供の半纏で夜道を帰った長兵衛や裸同然のお兼は、病気にならなかったのであろうか。
それに、後先も考えずに悲惨な生活を送っていた長兵衛が、命大切と言って、娘を身売りした大枚50両を、ポンと文七にやれますかねえ。
まあ、こんなことは、下司の勘繰りであって、圓朝噺を、スラッと受け入れて楽しめば良いのだろうが、お久の健気さ可愛さに、いくら極道で徹頭徹尾ダメ親父でも、堪えたのであろうと思うとしんみりとしてしまう。
(追記)圓丈の口絵写真は、公演チラシをコピーさせて貰った。