熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

芸術祭十月大歌舞伎・・・幸四郎・弁慶と團十郎・富樫の「勧進帳」

2012年10月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の新橋演舞場の歌舞伎の目玉は、何と言っても、昼夜、幸四郎と團十郎が入れ替わって弁慶と富樫を演じ分ける勧進帳であろう。
   私が観たのは夜の部で、幸四郎が弁慶、團十郎が富樫の舞台であった。
   これまで、弁慶だけでも、團十郎、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門、橋之介、それに、文楽で、勘十郎と、随分、勧進帳の舞台を観ており、折々に、このブログで感想文を書き続けているので、今回は、富樫が、いつ、弁慶たちを、問題の義経一行と気付いたのか、この点に焦点を絞って、考えてみたいと思っている。

   私は、3年前に、幸四郎と吉右衛門の勧進帳観劇記に、
   初めて対面した当初から、富樫は、義経一行だと思っていて、何時、弁慶たちがボロを出して、見破ることが出来るのか、その為に、詮議を進めたのであろうと、次のように書いたことがあるが、今も殆ど同じ考えである。
   吉右衛門が、「中村吉右衛門の歌舞伎ワールド」で、この武蔵坊弁慶を解説していて、
   ”白紙の巻物を手に、難解な勧進文を堂々と暗誦してピンチを脱すると言う、ここにこそ弁慶と言う男の真骨頂がある。無から有を生み、不可能を可能にする。それを実現せしめたのは、主君・義経を何としてしても守り抜く気迫と信念でしょう。”
   このことを考えれば、富樫は、当初から義経一行を見破っており、従って、偽勧進帳が如何なる物かと言うのが富樫の最大の関心事であり、白紙巻物を読む弁慶の手元を覗き込む富樫の視線をとっさに隠す「天地の見得」の段階では、白紙だと分かってしまったと解釈した方が、素直であり、その後の、富樫の詮議が熾烈を極めれば窮めるほど、逆に、富樫の弁慶への心の傾斜が理解出来る。
   事実、幸四郎弁慶も、巻物を巻きながら読む仕種など全くしていない。
   それに、僧として修行を積んだ荒法師の弁慶には、山伏問答など、素人の富樫とは格段の知識の差があり、最初から勝負が着いている。
   山伏問答までは、弁慶に対して非常に気迫の篭った対応をするが、番卒の耳打ちにはそれなりのきりっとした対応を示すものの、その後の富樫の心は非常に澄み切っており、富樫・吉右衛門は、泰然自若とした姿で殆ど無表情で押し通して、本当の主従の強い絆を眼前にして感動さえ覚えながら富樫の運命を噛み締めている風情であった。
   自害を覚悟して義経一行を送り出す富樫こそが、この世との別れを噛み締めており、義経たちの悲壮感との対極にある。

   市川團十郎も、私のニュアンスとは大分違うが、「團十郎の歌舞伎案内」で、「富樫はいつ義経が本物だと気づくのか?」と設問して、「わたくしはもうはなっから、「あの強力は義経ではないか」と疑っているのだと思います。本物かどうかは、弁慶を見れば、その問答のなかでわかるはずなんですよね。これほどの人物がそばにいるということは、只者であるわけがない。でも富樫は家来の手前、義経だと知ってか知らずかの顔をせざるをえないわけです。」と書いている。
   「大事なのは、富樫は問答の時点で、最初から弁慶という堂々たる偉丈夫の存在を通して、義経に気づいているべきだと、わたくしは思っております。」とも言っており、「ですから、「かかる尊き客僧を、暫時も疑い申せしは、目あって無きが如き我が不念」といって、「こいつはすごいや、参った」と感心するところに富樫の真実があるんですよ。」とも言っている。
   ついでながら、私などは、弁慶や富樫ばかりを見ているが、團十郎は、山川静夫さんと同じように、この狂言の主人公は、義経だと書いている。今回の義経は、人間国宝の藤十郎であったが、これまで、芝翫、玉三郎、梅玉、染五郎の義経を見ているのだが、流石に名優ぞろいである。

   ところで、この「勧進帳」は、能「安宅」の劇場版と言ったところだが、筋は殆ど同じながら、歌舞伎では弁慶と富樫が丁々発止で演じる迫力ある山伏問答が追加されているようで、能にはないと言う。
   私は、残念ながら、「安宅」をまだ観たことがないので何とも言えないのだが、富樫を演じれば最高峰だと言われているワキ方の人間国宝宝生閑が、「幻視の座」で非常に興味深い話をしているので、他の能楽関係の本なども参考にして、能楽での富樫像について、一寸、触れておきたいと思う。
   
   「宝生新自伝」に、「安宅」は、情けによって義経主従を通すというやり方は駄目だと書いてあるのを受けて、宝生閑は、
   「能というのはそういうつくり方をしていない。能では富樫がこの山伏は弁慶だと知ってしまったら、どうしても弱くなってしまう。・・・能では、弁慶一人が何でもやっちゃうわけだから、そこで富樫が迷ったりするところを見せちゃうと芯が通らなくなってくる。」と言っている。
   また、新(閑の祖父)時代には、強引に力で押すシテばかりで、義経主従ではないと言う路線を貫き通すシテが多かったわけで、ワキの富樫が情けで通しては拮抗できないから駄目だと言ったのだと付け加えている。

   この点については、梅原猛は、
   「梅原猛の授業・能を観る」のなかで、歌舞伎の「勧進帳」は、重い笈を背負った「強力」が義経だと知っていて、激しく打擲しながらも主を守ろうとする弁慶の忠誠に感動して見逃すと言う、富樫の表と裏の心の動きを表しているが、能「安宅」は、表と裏、すなわち、義理と人情の対立ではなく、弁慶の一途な気持ちをひたすら強調している。
   歌舞伎では、富樫は、はっきり情の人だが、能ではそのあたりの表現は曖昧で、どちらかと言うと、最後まで富樫対弁慶という「対立構造」を保ちつつ、「緊張感」を保ったまま幕となる、と書いている。

   さて、宝生閑の富樫像だが、強引に押し通ろうとするシテもあれば、お願いだから通してと言うシテもあり、また、同じシテでも、あるところは強引に、あるところでは実は通して!と言う部分が見えてくる場合があるので、作品は、シテとの関係で動いて行く可動体であると言うことのようである。
   シテによって違って来るので、ワキは非常にやり難く、知ってて通すか、知らないで通すか、決めなくちゃならない。それに僕は、富樫は関守をやりたくはなかったんじゃないかと思っている。とまで言っている。

   興味深いのは、二度目に酒を振る舞いに出て来る時、どういう気持ちで出て来るのかと聞かれて、「二度目に出る時は、あとの無事を祈ってだね。つまり富樫は弁慶に心酔いちゃっうってことじゃないかな。」「勧進帳の読み上げもそうだし、ちゃんとした水準の教養を持って通ろうとしている、と言う世界が分かるわけだよ。」と答えていることである。
   團十郎が、弁慶が只者ではない知勇に長けた偉丈夫だと言っているのと同じで、この舞台は、弁慶の凄さをもサブテーマにしたものであると言うことなのであろうが、要するに、宝生閑のワキ/弁慶も、この俄山伏たちを、間接的ながらも、義経一行だと認めていると言うことであろう。


   シテ方弁慶側の「安宅」だが、観世銕之丞が、「能のちから」の中で、「最大のピンチだからこそ露呈する人間の本質」と言う表現で、弁慶の危機を乗り越えて行く意志の強さ、窮地に立たされれば立たされるほど腹を括って冷静に醒めて行く弁慶を、プロセスを追いながら、弁慶の目的、弁慶にとって大切なものを示そうとしており、それをみんなが見たがっているのだと言う。
   義経を、とにかく、守ろうと言う思いが主なので、義経が子方であることが、子供は守るべきだと言う思いと子方の義経への思いが重なって、幸いだとも言っているが、相方のワキ/弁慶については言及していない。
   

   一方、観世清和宗家は、「一期初心」で、「安宅」の心理劇と言うところで、
   「安宅」は、(勧進帳と違って)偽山伏がひとつ間違えば全員首をとられるという状況のもと、気迫で圧倒し押し通ってゆく力の舞台で、ぴんと張りつめた心理劇で、富樫の届けた酒を煽って勇壮な舞を舞うが、一刻も早く立ち去りたい心境で、「虎の尾を踏み、毒蛇の口を、逃れたる心地して、陸奥の国へと下りける」と言う終曲が信実。
   しかし、富樫は、山伏の一行が到着した時から、それが義経一行であることを見破っており、元々、禅問答を好むような教養人である富樫は、弁慶の読み上げる勧進帳もおかしいことにも気が付いており、部下が強力の義経を見咎めても、「心得てある」と答えるに過ぎない。一方、弁慶の方も、見破らていることに気付いており、山伏として懸命に勤行して、勧進帳も読んだのだから、富樫よ通せと言う心境。
   お互いに相手の心を読みながら、もうこの先は刀を抜いて切り合うしかないと言うギリギリのところでぶつかり合っている。表舞台で派手なやり取りがあり、裏でもう一つのドラマが展開する、この二重構造が「安宅」の特徴であり、演者にとっての醍醐味だと語っている。 

   演者によって、識者によって、思いはまちまちだが、この観世清和説が、この「安宅」、そして、「勧進帳」の本質だと思っている。 
   実際には、歌舞伎の筋書きのような経緯であったようで、富樫泰家は、頼朝の不興を買って守護職を解かれて出家し、その後奥州に至って義経に再会したと言われている。

   ところで、肝心の舞台の「勧進帳」であるが、1000数十回も弁慶を演じ続けている幸四郎の弁慶であり、お家の藝である團十郎の富樫であり、人間国宝で最高峰の歌舞伎界の至宝である藤十郎の義経であり、他に、可愛い太刀持ちの金太郎、そして、友右衛門、翫雀、高麗蔵、錦吾と言う錚々たる巧者の登場している舞台であるから、素晴らしいのは当たり前で、蛇足に過ぎるので、観劇記は端折ることにする。
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