熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「川上」

2014年09月04日 | 能・狂言
   「川上」とは、吉野の奥の川上村にある金剛寺の本尊の地蔵菩薩だとか。
   この狂言は、次のような話で、40分の大作を、男を野村萬、女を野村万蔵で、呼吸の合った素晴らしい舞台を披露した。

   吉野の盲人が、川上の地蔵に願をかけて、目が見えるようになるのだが、その条件が、妻とは悪縁であるから別れるようにと言うこと。目が見えるようになって帰ると、妻は、喜ぶのだが、別れ話を聴いて激怒して、悪し様に地蔵を罵倒し、夫に分かれないと言い張る。夫は、折れて今まで通り連れ添うと言う。折角開けた目であるから潰しはしまいと言って帰りかけると、夫の目は再び悪くなり、宿縁と諦めて、妻は夫の手を取って帰って行く。

   この男の目は、眼病を患っての病気なので、生まれてスグの疱瘡で盲目になった壷坂霊験記の沢市とは違うのだが、お里と同様に夫に献身的に仕えた妻にしてみれば、理不尽も良い所で、自分の目が開くことを優先して、夫が分かれることを承諾したと言うのだから、頭に来るのは当然で、二人の掛け合いが面白い。
   狂言では、女房は、わわしい女と相場が決まっているのだが、わわしいのはここまでで、最後は、目が見えなくなって腰折れ状態の夫の手を引いて、橋掛を消えて行くところなどは、しんみりとさせて温かい。

   ところで、慈悲深い地蔵菩薩が、まさか、理由もないのに、開眼か離別か二者択一を何故迫ったのかと言うことだが、不自由をかこっていた見えなかった目が開くと、一気に心変わりする夫の心情を炙り出そうとしたのであろうか。
   古い大蔵流の本では、目が開いて元気に帰って来た夫を見て、妻が、他の女が見舞いに行ったのではないかと疑って夫を引き回すので夫が再び盲目になったと言うことになっているようだが、そのあたりの夫の魂胆が見え隠れしているようで面白い。

   分かれろと言う地蔵も地蔵だが、分かりました別れますと言って応える夫も夫で、最後の”宿執に目のつぶるるとは、今身の上に知られたり””最前の杖をば捨てまいものを”と言って、妻が夫の手を引いて帰ると言うラストシーンを導くための導線なら納得と言うところであろうか。

   川上に行く途中石段に躓いて転んだり、境内で通夜をしようとしながら、同じく眼病快癒祈願にきた人やお礼参りに来た客などとの会話を器用に語り分けたり、喜び勇んで杖を捨ててしゃきっとするなど、萬の独り舞台が面白くて楽しませてくれる。

   とにかく、ただの笑いだけの狂言の舞台ではなくて、一寸複雑な骨組みの狂言と言う感じがするのだが、人間のアイロニー人生や泣き笑いが表出しているようで考えさせる面白い曲であった。

   
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