久しぶりに吉右衛門の喜劇で、日頃観ている渋い舞台とは打って変った人間吉右衛門の魅力全開の芝居で、楽しませてくれる。
この歌舞伎「隅田川続俤」は、お家騒動ものの形態を取っており人殺しや幽霊も登場して来るが、これはあくまで、ストーリー展開上のスケルトンで、特に、この「法界坊」は、金と女が大好きな愛嬌あふれる乞食坊主・法界坊(吉右衛門)を主人公にした世話物、早く言えばドタバタ喜劇である。
古希を迎えた人間国宝が、悪巧みに成功すると、可愛い童顔に戻って潤んだ眼差しで子供のように喜んで、舞台上で、バレエのように手を広げて軽快にステップを踏んで踊ったり、縄跳びまで披露するのであるから、楽しくない筈がない。
産経の”「体力的に最後かな」吉右衛門「法界坊」演じ納めの覚悟”と言う記事で、吉右衛門は、
法界坊は浅草竜泉寺の釣鐘建立の勧進をして歩くこじき坊主。滑稽味と、人殺しもいとわぬ残酷さが共存する人物だ。「若いころは愛嬌を出すのも難しかったですが、今はわざとらしくなく出せます。むしろすごみが足りなくなる。愛嬌とすごみの変わり目をもっと出したい。勘三郎のおじさん(初代の弟、十七代目中村勘三郎)の法界坊が素晴しかったですね」
と語っているのだが、心なしか、コミカルタッチのアクションが目立ち過ぎて愛敬たっぷりで、人殺しを平気でしながらも、悪の権化とも言うべき残忍な破戒僧の印象は、殆ど消えてしまって、客は、吉右衛門が、如何に面白い演技をするか、それを期待しながら、一挙手一投足を追っ駆けている感じである。
私自身も、吉右衛門の醸し出す遊び心たっぷりの上質な、しみじみとしたアイロニー人生の可笑しさ悲しさを感じて爽快であった。
凄みは、終幕の「双面水照月」で、殺された法界坊と、法界坊が殺した野分姫が合体した霊を演じる舞踊劇で、綺麗な赤姫スタイルで、スッポンからせり上がって登場してきた野分姫から、踊っている間に、おどろおどろしい法界坊に変身して行く舞台で見せてくれる。
久しぶりの女形だと言うのだが、どう見ても、チャーミングな種之助の野分姫とは落差が大きすぎるものの、真顔に戻った吉右衛門の真赤な舌を突き出して凄さを示す法界坊の霊の迫力は、流石である。
私の2007年05月09日に書いた「中村吉右衛門の「法界坊」・・・新橋演舞場」のブログを見ると、
「浄瑠璃 双面水照月」の常磐津連中と竹本連中の楽に乗せての華麗な舞踊劇は、
墨田川で待っていた甚三の妹・女船頭おしづ(福助)の協力で災難から逃げようとした二人(要助とおくみ)の前に、忽然とおくみの姿をした女(染五郎)が現われて遮る。この女は、殺した野分姫と殺された法界坊が合体した双面の霊で、3人(二人と甚三)をいたぶり大暴れする。結局最後は負けるのだが、二人の悪霊を表情を変えて踊り分ける染五郎の芸達者ぶりも見事である。
と書いていて、吉右衛門の代わりに染五郎が舞っていた。
今回は、産経の言うように、一世一代と言うことで、オリジナル版に戻して、吉右衛門が演じたのであろう。
余談ながら、13歳の時に、勘三郎の法界坊で野分姫を勤めたのが(昭和32年6月新橋演舞場)、この演目に出た最初だったと言うのだから面白い。
さて、法界坊と人気を二分するのが、片岡仁左衛門演じる道具屋甚三。前述の前の舞台では、富十郎が演じていたようだが、颯爽と登場して、手代要助(錦之助)とおくみ(芝雀)を助け、法界坊を殺す颯爽としたいい男で、おっぱわれて花道を逃げる吉右衛門が、手を振り上げて威嚇する仁左衛門に向かって、良い男で若く見えるが同い年だとバラして客を喜ばせていた。
面白いのは、おくみとの恋が露見して窮地に立った要助を前に、この恋愛騒動の証拠だと、法界坊が拾って持っていたおくみから要助あての恋文を懐から出して、皆の前で、読めと言うくだりである。法界坊は、客席に近づいて、愛嬌たっぷりに手紙の表の宛名を、客に見せて確認させていた。勘三郎は、花道まで出て座り込んで客に見せていたように思う。
その手紙を受け取った甚三は、法界坊が書いておくみに差し出したが投げ捨てられていた恋文とすり替えて、皆の面前で大声で読み始めたのだが、途中で自分の手紙だと気付いた法界坊は、周章狼狽大慌て。
この意気揚々として証拠を示そうとしたのが、一気に逆転して、恥を晒す自分の醜態に、衣で頭を隠して逃げようとする落差の激しい演技を、吉右衛門は、実に軽妙洒脱なコミカルタッチで演じて客を爆笑させる。
さて、前の法界坊の舞台も、錦之助と芝雀が、要助とおくみを演じていたが、吉右衛門会心の適役なのであろう。
実に爽やかで上手い。
おくみの母親役おくらの秀太郎や、ベテランの橘三郎、由次郎などの脇役たちも人を得ていて、特に、丁稚長吉の玉太郎が、しっかりとした達者な演技を披露していて出色であった。
欲と意地と虚飾に満ちた庶民の生活を舞台に、金と女に目のない桁外れの惚けた悪僧を主人公にして、ぼんさん、ぼんさん、と揶揄して、尊敬の一かけらもないキャラクターに仕立てあげて泳がせる。
これも、日本歌舞伎の一側面なのであろうが、人間国宝吉右衛門の喜劇には、しみじみした味があって実に良い。
それを受けて、さらりと流しながら、芝居の醍醐味を堪能させる仁左衛門の芸も冴えていて、非常に楽しませてくれた。
この歌舞伎「隅田川続俤」は、お家騒動ものの形態を取っており人殺しや幽霊も登場して来るが、これはあくまで、ストーリー展開上のスケルトンで、特に、この「法界坊」は、金と女が大好きな愛嬌あふれる乞食坊主・法界坊(吉右衛門)を主人公にした世話物、早く言えばドタバタ喜劇である。
古希を迎えた人間国宝が、悪巧みに成功すると、可愛い童顔に戻って潤んだ眼差しで子供のように喜んで、舞台上で、バレエのように手を広げて軽快にステップを踏んで踊ったり、縄跳びまで披露するのであるから、楽しくない筈がない。
産経の”「体力的に最後かな」吉右衛門「法界坊」演じ納めの覚悟”と言う記事で、吉右衛門は、
法界坊は浅草竜泉寺の釣鐘建立の勧進をして歩くこじき坊主。滑稽味と、人殺しもいとわぬ残酷さが共存する人物だ。「若いころは愛嬌を出すのも難しかったですが、今はわざとらしくなく出せます。むしろすごみが足りなくなる。愛嬌とすごみの変わり目をもっと出したい。勘三郎のおじさん(初代の弟、十七代目中村勘三郎)の法界坊が素晴しかったですね」
と語っているのだが、心なしか、コミカルタッチのアクションが目立ち過ぎて愛敬たっぷりで、人殺しを平気でしながらも、悪の権化とも言うべき残忍な破戒僧の印象は、殆ど消えてしまって、客は、吉右衛門が、如何に面白い演技をするか、それを期待しながら、一挙手一投足を追っ駆けている感じである。
私自身も、吉右衛門の醸し出す遊び心たっぷりの上質な、しみじみとしたアイロニー人生の可笑しさ悲しさを感じて爽快であった。
凄みは、終幕の「双面水照月」で、殺された法界坊と、法界坊が殺した野分姫が合体した霊を演じる舞踊劇で、綺麗な赤姫スタイルで、スッポンからせり上がって登場してきた野分姫から、踊っている間に、おどろおどろしい法界坊に変身して行く舞台で見せてくれる。
久しぶりの女形だと言うのだが、どう見ても、チャーミングな種之助の野分姫とは落差が大きすぎるものの、真顔に戻った吉右衛門の真赤な舌を突き出して凄さを示す法界坊の霊の迫力は、流石である。
私の2007年05月09日に書いた「中村吉右衛門の「法界坊」・・・新橋演舞場」のブログを見ると、
「浄瑠璃 双面水照月」の常磐津連中と竹本連中の楽に乗せての華麗な舞踊劇は、
墨田川で待っていた甚三の妹・女船頭おしづ(福助)の協力で災難から逃げようとした二人(要助とおくみ)の前に、忽然とおくみの姿をした女(染五郎)が現われて遮る。この女は、殺した野分姫と殺された法界坊が合体した双面の霊で、3人(二人と甚三)をいたぶり大暴れする。結局最後は負けるのだが、二人の悪霊を表情を変えて踊り分ける染五郎の芸達者ぶりも見事である。
と書いていて、吉右衛門の代わりに染五郎が舞っていた。
今回は、産経の言うように、一世一代と言うことで、オリジナル版に戻して、吉右衛門が演じたのであろう。
余談ながら、13歳の時に、勘三郎の法界坊で野分姫を勤めたのが(昭和32年6月新橋演舞場)、この演目に出た最初だったと言うのだから面白い。
さて、法界坊と人気を二分するのが、片岡仁左衛門演じる道具屋甚三。前述の前の舞台では、富十郎が演じていたようだが、颯爽と登場して、手代要助(錦之助)とおくみ(芝雀)を助け、法界坊を殺す颯爽としたいい男で、おっぱわれて花道を逃げる吉右衛門が、手を振り上げて威嚇する仁左衛門に向かって、良い男で若く見えるが同い年だとバラして客を喜ばせていた。
面白いのは、おくみとの恋が露見して窮地に立った要助を前に、この恋愛騒動の証拠だと、法界坊が拾って持っていたおくみから要助あての恋文を懐から出して、皆の前で、読めと言うくだりである。法界坊は、客席に近づいて、愛嬌たっぷりに手紙の表の宛名を、客に見せて確認させていた。勘三郎は、花道まで出て座り込んで客に見せていたように思う。
その手紙を受け取った甚三は、法界坊が書いておくみに差し出したが投げ捨てられていた恋文とすり替えて、皆の面前で大声で読み始めたのだが、途中で自分の手紙だと気付いた法界坊は、周章狼狽大慌て。
この意気揚々として証拠を示そうとしたのが、一気に逆転して、恥を晒す自分の醜態に、衣で頭を隠して逃げようとする落差の激しい演技を、吉右衛門は、実に軽妙洒脱なコミカルタッチで演じて客を爆笑させる。
さて、前の法界坊の舞台も、錦之助と芝雀が、要助とおくみを演じていたが、吉右衛門会心の適役なのであろう。
実に爽やかで上手い。
おくみの母親役おくらの秀太郎や、ベテランの橘三郎、由次郎などの脇役たちも人を得ていて、特に、丁稚長吉の玉太郎が、しっかりとした達者な演技を披露していて出色であった。
欲と意地と虚飾に満ちた庶民の生活を舞台に、金と女に目のない桁外れの惚けた悪僧を主人公にして、ぼんさん、ぼんさん、と揶揄して、尊敬の一かけらもないキャラクターに仕立てあげて泳がせる。
これも、日本歌舞伎の一側面なのであろうが、人間国宝吉右衛門の喜劇には、しみじみした味があって実に良い。
それを受けて、さらりと流しながら、芝居の醍醐味を堪能させる仁左衛門の芸も冴えていて、非常に楽しませてくれた。