「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か おぼつかなくはおもへども、駒をはやめて行程に、片折戸したる内に、・・・ 」。
平家物語の一節で、黒田節の歌詞でもあるこの流麗な名調子が、地謡で流れる能「小督」を、初めて観る機会を得て感激であった。
私は、学生の頃、平家物語や源氏物語が愛読書で、大学のある東一条に向かわずに、良く、途中の桂駅で乗り換えて嵐山に行って、物語の故地を散策していた。
特に、若かりし頃なので、平家物語のこの小督や、祇王祇女、滝口入道と横笛の恋物語りなどのくだりが好きで、京都とは一味違った王朝時代の文化の香りらしきものを訪ねて嵯峨野を歩いていた。
今でこそ、観光銀座のように人が溢れかって、当時の鄙びた雰囲気は完全に消えてしまったが、私の青春時代には、あの祇王寺も滝口寺も、奥深い林間の奥にあって草を踏み分けて訪れ、それなりの感慨があった。
この能「小督」は、前半は、平家物語に忠実である。
高倉天皇の寵愛を受けた小督の局(ツレ/上野雄三)が、平清盛の怒りを恐れて隠れ住んでいる嵯峨野を、天皇の命を受けた源仲国(シテ/上野朝義))が、名月の元、馬を歩ませ、訪ねて行く。
八月十五日の夜、琴の名手の小督であるから、月に誘われ、必ず琴を弾いているであろうと、琴の音を頼りに嵯峨野を訪ね歩き、方々探しあぐねた後、丁度、嵐山の麓法輪寺の側で、微かに琴の音が聞こえて来る。
このシーンが冒頭の文章で、能では、”嶺の嵐か松風かそれかあらぬか、尋ぬる人の琴の音か、楽は何ぞと聞きたれば、夫を想ひて、恋ふる名の、想夫恋なるぞ嬉しき。”となっている。
小督の住む片折れ戸の賤が屋のあったと言う今の小督塚は、法輪寺から少し下って渡月橋を渡って河畔を少し川上に上ったところにあり、かなり距離があるのだが、少し小高いところから大堰川越しに遠望する位置にあり、殆ど人家などない全くの田舎であったので、風音や水音以外は聞こえない静寂そのものの世界であったから、笛の名手仲国には聞こえたと言う想定であろう。
平家物語の方では、散々嵯峨野を歩き回った末に、法輪へは、近くに来たので、月の光に誘われて小督が参っているかも知れないと思って出かけて行くのであって、川を渡って取って返したのであろう、”亀山のあたり近く、松の一むらある方に、微かに琴ぞ聞こえける。”と、はっきりと小督の賤が屋に近づいて琴の音を聞いている。
嵐山の片折戸のある家だから探して来いと言う高倉天皇の命も無茶だが、今夜は8月の十五夜だから必ず琴を弾いている筈だからと琴の音だけを頼りに探索に出る仲国も常識離れしていて面白く、この「駒の段」のシーンは、想像するだけでも、実に優雅で美しい情景である。
煌々と明月が川面を照らし、亀山を浮かび上がらせて彼方から微かに聞こえ来る想夫恋の琴の音の優雅さは如何ばかりか、喜び勇んで駒を早める仲国の気持ちが良く分かる。
この能の舞台には、片折戸の門に左右に柴垣をつけた簡単な作り物が、目付柱から笛柱方向に湾曲におかれて、内と外を示していて、これを隔てて仲国と小督の対話が交わされる。
結界とも言うべきこの片折戸から、入室を許された仲国が、中に入って、小督に天皇の手紙を手渡して返書を受け取り、名残を惜しむ酒宴の供応を受けて、「男舞」を舞う。
この酒宴のシーンは、平家物語にはなく、余人を拒否して隠れ里でひっそりと暮らしている小督には不可能だと思うのだが、仲国の舞う「男舞」を導くための禅竹の作曲上の特別な意図があったのであろうか。
従って、平家物語の方は、少しストーリーが違っていて極めてシンプル。
小督は、翌日大原の奥へ隠棲しようとしていてその名残に、夜も更けたので聴く人もあるまいと宿の主に乞われて琴を爪弾いたのを仲国に聞かれた。仲国は、小督が大原へ移られると困るので、家来を残して小督を見張らせて、急いで御所に取って返して事情を奏上する。
主上は、仲国に命じて小督を都へ連れ帰えし、密かに住まわせて通い詰め姫宮を成すのだが(平家原文は、内裏へまいりたりければ、幽かなる所にしのばせて、よなよな召されける程に、姫宮一所出来させ給いけり)、これを漏れ聞いて激怒した清盛は、小督を尼にして追放し、儚く嵯峨野で逝く。
小督は、始めは、清盛の4女の夫冷泉隆房の愛人であり、更に、清盛の娘中宮建礼門院徳子の夫高倉帝の思い人と言うことで、二人の聟を取られた恋敵であるから、清盛は、怒り心頭に達していて、小督を目の敵にしているから、小督は生きた心地がしない。
ところが面白いのは、高倉帝の女性との関わりで、
徳子に召し使われている「葵の前」を寵愛し、夜な夜な召すので、色々周りの取沙汰が煩わしくなり、葵の前は郷へ帰り、心労の為幾程なく亡くなる。天皇は、葵の前への切ない恋慕の思いに沈んで腑抜け状態になったので、気を効かせた徳子が、慰めようと、宮中一の美人で琴の上手である桜町の中納言の娘小督の局をお側に差し出したと言うのである。
中宮徳子が、姉様女房で、煩い清盛の娘と言うのであるから、高倉帝も、気が休まらず、綺麗で若い女房に惚れるのも故なしとしないところだろうが、清盛が知ってか知らずか、徳子が差し出した女房に帝が心底恋焦がれてしまうと言うのが、如何にも人間的で興味深い。
これが小督事件の発端だが、平家物語には、もっと詳しく書いてあって、ヘタな小説を読んでいるより面白い。
さて、平家物語で、感動的なのは、小督の片折戸の前で、仲国が、腰より横笛を抜き出して、笛をピーと鳴らして、門をほとほとと叩くと、琴の音が止むと言うところである。
宮中では、琴の名手の小督と笛の名手の仲国とは合奏した思い出があって旧知の間柄であり、この能では、門前払いを食った仲国が、帝の命で来たので対面できなければここを動かないと、柴垣の側に坐して夜露に身を任せると言う、何となく、恋心を匂わせるシーンがあって情趣を呼ぶ。
小督をテーマにしながら、シテを仲国にしたのは、高倉帝の思いをブリッジするために仲国を泳がせて、小督をより一層際立たせようとしたのであろうか。
いずれにしろ、嵯峨野の絵のように美しい情景をバックに展開される王朝の雅で切ない恋物語、優雅さと哀愁に満ちた情感豊かな能舞台が感動を呼ぶ。
仲国は、直面であるが、シテの上野朝義師は、非常に整った凛々しい表情で、颯爽とした精悍な出立ながら、情感豊かなスタイルでツレの小督に対していて、素晴らしい舞台を見せてくれた。
嶺の嵐か松風か、もそうだが、この能では、地謡の醸し出す世界が、私には、非常に印象的であった。
(追記)私が、岩波の日本古典文学大系のこの平家物語上下を読んだのは、メモ書きを見ると、1963年4月、半世紀前のことである。何千冊もあった蔵書の内、今でも、座右にある数少ない本の一つである。
平家物語の一節で、黒田節の歌詞でもあるこの流麗な名調子が、地謡で流れる能「小督」を、初めて観る機会を得て感激であった。
私は、学生の頃、平家物語や源氏物語が愛読書で、大学のある東一条に向かわずに、良く、途中の桂駅で乗り換えて嵐山に行って、物語の故地を散策していた。
特に、若かりし頃なので、平家物語のこの小督や、祇王祇女、滝口入道と横笛の恋物語りなどのくだりが好きで、京都とは一味違った王朝時代の文化の香りらしきものを訪ねて嵯峨野を歩いていた。
今でこそ、観光銀座のように人が溢れかって、当時の鄙びた雰囲気は完全に消えてしまったが、私の青春時代には、あの祇王寺も滝口寺も、奥深い林間の奥にあって草を踏み分けて訪れ、それなりの感慨があった。
この能「小督」は、前半は、平家物語に忠実である。
高倉天皇の寵愛を受けた小督の局(ツレ/上野雄三)が、平清盛の怒りを恐れて隠れ住んでいる嵯峨野を、天皇の命を受けた源仲国(シテ/上野朝義))が、名月の元、馬を歩ませ、訪ねて行く。
八月十五日の夜、琴の名手の小督であるから、月に誘われ、必ず琴を弾いているであろうと、琴の音を頼りに嵯峨野を訪ね歩き、方々探しあぐねた後、丁度、嵐山の麓法輪寺の側で、微かに琴の音が聞こえて来る。
このシーンが冒頭の文章で、能では、”嶺の嵐か松風かそれかあらぬか、尋ぬる人の琴の音か、楽は何ぞと聞きたれば、夫を想ひて、恋ふる名の、想夫恋なるぞ嬉しき。”となっている。
小督の住む片折れ戸の賤が屋のあったと言う今の小督塚は、法輪寺から少し下って渡月橋を渡って河畔を少し川上に上ったところにあり、かなり距離があるのだが、少し小高いところから大堰川越しに遠望する位置にあり、殆ど人家などない全くの田舎であったので、風音や水音以外は聞こえない静寂そのものの世界であったから、笛の名手仲国には聞こえたと言う想定であろう。
平家物語の方では、散々嵯峨野を歩き回った末に、法輪へは、近くに来たので、月の光に誘われて小督が参っているかも知れないと思って出かけて行くのであって、川を渡って取って返したのであろう、”亀山のあたり近く、松の一むらある方に、微かに琴ぞ聞こえける。”と、はっきりと小督の賤が屋に近づいて琴の音を聞いている。
嵐山の片折戸のある家だから探して来いと言う高倉天皇の命も無茶だが、今夜は8月の十五夜だから必ず琴を弾いている筈だからと琴の音だけを頼りに探索に出る仲国も常識離れしていて面白く、この「駒の段」のシーンは、想像するだけでも、実に優雅で美しい情景である。
煌々と明月が川面を照らし、亀山を浮かび上がらせて彼方から微かに聞こえ来る想夫恋の琴の音の優雅さは如何ばかりか、喜び勇んで駒を早める仲国の気持ちが良く分かる。
この能の舞台には、片折戸の門に左右に柴垣をつけた簡単な作り物が、目付柱から笛柱方向に湾曲におかれて、内と外を示していて、これを隔てて仲国と小督の対話が交わされる。
結界とも言うべきこの片折戸から、入室を許された仲国が、中に入って、小督に天皇の手紙を手渡して返書を受け取り、名残を惜しむ酒宴の供応を受けて、「男舞」を舞う。
この酒宴のシーンは、平家物語にはなく、余人を拒否して隠れ里でひっそりと暮らしている小督には不可能だと思うのだが、仲国の舞う「男舞」を導くための禅竹の作曲上の特別な意図があったのであろうか。
従って、平家物語の方は、少しストーリーが違っていて極めてシンプル。
小督は、翌日大原の奥へ隠棲しようとしていてその名残に、夜も更けたので聴く人もあるまいと宿の主に乞われて琴を爪弾いたのを仲国に聞かれた。仲国は、小督が大原へ移られると困るので、家来を残して小督を見張らせて、急いで御所に取って返して事情を奏上する。
主上は、仲国に命じて小督を都へ連れ帰えし、密かに住まわせて通い詰め姫宮を成すのだが(平家原文は、内裏へまいりたりければ、幽かなる所にしのばせて、よなよな召されける程に、姫宮一所出来させ給いけり)、これを漏れ聞いて激怒した清盛は、小督を尼にして追放し、儚く嵯峨野で逝く。
小督は、始めは、清盛の4女の夫冷泉隆房の愛人であり、更に、清盛の娘中宮建礼門院徳子の夫高倉帝の思い人と言うことで、二人の聟を取られた恋敵であるから、清盛は、怒り心頭に達していて、小督を目の敵にしているから、小督は生きた心地がしない。
ところが面白いのは、高倉帝の女性との関わりで、
徳子に召し使われている「葵の前」を寵愛し、夜な夜な召すので、色々周りの取沙汰が煩わしくなり、葵の前は郷へ帰り、心労の為幾程なく亡くなる。天皇は、葵の前への切ない恋慕の思いに沈んで腑抜け状態になったので、気を効かせた徳子が、慰めようと、宮中一の美人で琴の上手である桜町の中納言の娘小督の局をお側に差し出したと言うのである。
中宮徳子が、姉様女房で、煩い清盛の娘と言うのであるから、高倉帝も、気が休まらず、綺麗で若い女房に惚れるのも故なしとしないところだろうが、清盛が知ってか知らずか、徳子が差し出した女房に帝が心底恋焦がれてしまうと言うのが、如何にも人間的で興味深い。
これが小督事件の発端だが、平家物語には、もっと詳しく書いてあって、ヘタな小説を読んでいるより面白い。
さて、平家物語で、感動的なのは、小督の片折戸の前で、仲国が、腰より横笛を抜き出して、笛をピーと鳴らして、門をほとほとと叩くと、琴の音が止むと言うところである。
宮中では、琴の名手の小督と笛の名手の仲国とは合奏した思い出があって旧知の間柄であり、この能では、門前払いを食った仲国が、帝の命で来たので対面できなければここを動かないと、柴垣の側に坐して夜露に身を任せると言う、何となく、恋心を匂わせるシーンがあって情趣を呼ぶ。
小督をテーマにしながら、シテを仲国にしたのは、高倉帝の思いをブリッジするために仲国を泳がせて、小督をより一層際立たせようとしたのであろうか。
いずれにしろ、嵯峨野の絵のように美しい情景をバックに展開される王朝の雅で切ない恋物語、優雅さと哀愁に満ちた情感豊かな能舞台が感動を呼ぶ。
仲国は、直面であるが、シテの上野朝義師は、非常に整った凛々しい表情で、颯爽とした精悍な出立ながら、情感豊かなスタイルでツレの小督に対していて、素晴らしい舞台を見せてくれた。
嶺の嵐か松風か、もそうだが、この能では、地謡の醸し出す世界が、私には、非常に印象的であった。
(追記)私が、岩波の日本古典文学大系のこの平家物語上下を読んだのは、メモ書きを見ると、1963年4月、半世紀前のことである。何千冊もあった蔵書の内、今でも、座右にある数少ない本の一つである。