熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

中国切手を鑑定して見たら

2014年09月20日 | 海外生活と旅
   1980年の夏に、出張で、北京に行ったことがあり、その頃、長女が切手集めをしていたので、少し買って帰った。
   昨年末、鎌倉への移転で、色々なものを整理していたら、その一部が出て来たので、最近、中国の切手に人気が出ていると聞いていたので、どんなものか、鑑定して貰おうと思って、新宿の専門店へ持ち込んだ。

   100枚ほどの切手を、店主が非常に丁寧に一枚一枚、1時間ほどかけて鑑定してくれた。
   結果的には、〆て8000円くらいで、多少、高ければ、買い取って貰おうとしたのだが、1枚100円以下と言うことは、原価にもならないし、面白い切手もあるので、孫には記念になると思って、感謝して持ち帰った。

   
   文革の頃、すなわち、1966年から1977年頃までの、中国切手品薄時代の特別な切手は高いようなのだが、それを外れると二束三文のようである。
   私の場合には、この口絵写真の切手のような1977年の切手など、文革終期の切手が大半だったので、ダメだったのであろう。
   しかし、私の持ち込んだ切手は、中国切手コムの、
   価値の高い可能性のある切手は、・・・T1~103、J1~99になります。と書いてあるのだが、それに該当する切手が、大半であったことは確かである。

   偶々、切手のことで、その頃のことを思い出したので、中国の思い出を記しておきたい。
   
   丁度、文革後の混乱期が終息して、中国政府が海外に門戸を開き、日本企業が中国にオフイスを開き始めて、中国との商談で日本からの出張が認められた頃である。
   しかし、中国には、オフィス・スペースなどなかったので、商社など日本企業の事務所は、ホテルの部屋が使われていた。
   また、出張の場合には、入国ビザが中々下り難くて、長い間待たされた。
   聞くところによると、宿泊施設がないので、ホテルの部屋が空くのを待って、その空きスペースによって、ビザを発給していたようであり、入国前から部屋が決められていて、私の場合には、同僚とツインであった。

   我々は、シンガポールの強力な華僑ビジネスマンに誘われて、ホテルプロジェクトの建設許可の可能性打診に出かけた。
   商談は、当然、政府の役人とで、彼らは、事務所が貧弱なので、我々の部屋にやって来てネゴをした。
   一回で終わらず、何回かにわたるのだが、いつ来るのか分からず、殆どホテルに釘付け状態であったが、万里の長城には行けなかったものの、合間を見て、紫禁城や天壇、頤和園などには、行くことが出来、貴重な経験をした。
   写真撮影には制限がなかったので、紫禁城など、当時の中国の姿を随分写真に撮ったのだが、どこにあるのか。
   余談ながら、まだ、北京随一の目抜き通り王府井を、荷馬車が走っていた頃なので、空気は綺麗であったし、良き時代であった。

   さて、買い物だが、我々外人は、入国時に、外人と華僑に特定された兌換紙幣と交換させられて、その紙幣で、主に、外人及び華僑用の特別な指定店で買い物をさせられていた。
   その紙幣の一部が、次の口絵写真の右半分である。
   
   尤も、同じ店で、1階が華人用、2階が我々様と言った店が多くて、普通の店でも買い物は出来た。
   百貨店に行って、商品を見たが、勿論、交換レートで換算しても、物価は非常に安くて、最高級の胡弓でも非常に安かったので、まがい物だと思ってしまって買えなかったのだが、買えば記念になったのにと思って、今になって後悔している。
   当時買った景徳鎮の鶴首の花瓶が、残っていて懐かしい。

   さて、この時、これらの切手も、確か、外人用の店で買ったと思うのだが、その時買った切手で、梅蘭芳の切手セットだけは異常に高かったの覚えており、大切だと思って別に保管していたのが仇となって、なくしてしまった。
   もう35年も前の話で、オランダやイギリスや、あっちこっち宿替えを続けて来たのだから、少しでも、中国切手が残っているだけでも、奇跡と言うべきだと思っている。
   
   とにかく、中国がこれだけ成長発展するなどとは夢にも思わなかったのだが、私にとっては、終戦時代のどん底からの人生のスタートであったので、天変地異でなければ、それ程の驚きでもないことも事実である。
コメント
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