夜の部は、「絵本太功記 尼ヶ崎閑居の場」「連獅子」「曽我綉俠御所染 御所五郎蔵」で、ポピュラーな演目だが、吉右衛門は、冒頭の「太十」には、これまで2度しか演じておらず、今回の光秀(武智光秀 )は、平成5(1993)年5月の大阪中座以来だと言う。
吉右衛門ともなれば、例え初演であっても、誰にも負けない重厚かつ威厳と風格のある光秀を演じられるので、むしろ、どのような新しい光秀像を見せて魅せるのか、その方の期待の方が大きい筈。
「夕顔棚のこなたより、現れいでたる武智光秀・・・」の浄瑠璃に乗って、笠で顔を隠した吉右衛門の光秀が、裏庭の茂みから現れて、竹藪から竹を切って先をそぎ落とした竹槍を持って、座敷にいる筈の久吉を殺しにいく見せ場が始まるのだが、このシーンからして、実録の歴史とは全く違っていて、創作の妙が面白い。
まして、光秀の三日天下を阻止した秀吉(ここでは、真柴久吉 歌六 )が、旅僧として、昨晩からこの母の庵室に身を寄せていて、それを追ってきた光秀が、竹槍で刺し殺そうとするのだが、誤って、母皐月 (東蔵)をついてしまうと言う話になっていて、史実に多少近いとすれば、母が光秀の謀反を心良しとはしていなかったと言うことくらいであろうか。
舞台の冒頭は、光秀の嫡男武智十次郎(染五郎 )が、傷心し切って、祖母に、初陣の許しを得るために訪れる。
討死の覚悟を悟った皐月と母操(魁春)が勧めて、許婚の初菊(米吉)と祝言を挙げて出陣して行くのだが、染五郎の清楚で凛々しい十次郎と初々しい米吉の初菊の別れが中々雰囲気があって良い。
若手女形を育成しようと言う強い意欲があるのであろう。米吉は、昼の部の「菊畑」でも、皆鶴姫を演じていて、最近重要な役柄を演じながら、めきめき力をつけて来ており、癖のない爽やかな演技が冴えていて素晴らしい。
一方、染五郎の方も、水も滴る良い男を演じ、鏡獅子の小姓弥生を踊れば、今回の御所五郎蔵でヤクザまがいの大啖呵を切り、今度は、勧進帳の弁慶を演じると言う、八面六臂の活躍が出来る素晴らしい役者で、それが総て、遥かに水準を越えた演技の連続だと言うから見上げたものである。
最初に染五郎の舞台に接したのは、ロンドンで、ハムレットの歌舞伎版「葉武列土倭錦絵」の葉叢丸と実刈屋姫を演じた時で、その後、関東オリジンでありながら、近松門左衛門の心中ものを実に器用に演じているのを見てから、非常に注目しており、幸四郎と吉右衛門の薫陶よろしく、益々、芸道に精進しているのであるから、楽しみである。
光秀の暴挙を諌める母皐月の「これ見給え、光秀殿・・」のクドキの東蔵、皐月を介抱し、十次郎をみとって嘆き悲しむ操の魁春、風格のある久吉の歌六、佐藤正清の又五郎、役者揃っていて華麗な舞台を見せてくれて素晴らしい。
私としては、勘十郎の襲名披露公演で、玉男はじめ文楽界総出演の素晴らしい舞台が、一番印象に残っている。
ところで、天邪鬼かもしれないが、このような決定版とも言うべき完全に伝統を踏襲した古典歌舞伎で、結晶し昇華した錦絵の様な舞台ばかりを見ていると、多少、消化不良を感じる。
早い話、シェイクスピア戯曲は、たったの37曲しかなく、同じ台詞で何度も何度も演じられてはいるのだが、その度毎に、役者は勿論、演出や舞台も変わっていて、見る方の解釈の仕方も変わって行くなど変化がある。
オペラでもそうだが、モーツアルトやベルディの舞台が、現在のニューヨークやラスベガスに代わり、スカートを履いた麗人や背広姿の行かれポンチが登場するなど、結構面白い。
日本には、伝統だから(なんでも?)尊いのだと言った学者がいたのだが、さて、そうであろうかと思うことがある。
昨日、文楽の「不破留寿之太夫」について書いたが、作曲の鶴澤清治師が、新作文楽について、「昔はすべて新作だったわけで、お客さまに喜んでいただくために大変な仕掛けを行っていたようです。文楽は、昔からそうしてきたんですよ。現代のお客さまに『喜んでいただけるものを一つでも多く作りたい。」と言っている。
シェイクスピアの時代には、新作がどんどん出て、翌日には、同じ演目が別の劇場で演じられていると言った状態で、剽窃や真似や編曲は日常茶飯事であり、どんどん、昇華されて行って良い作品が生まれてきた。
この前の新作文楽シェイクスピアの「テンペスト」も、非常に意欲的な面白い作品で、楽しませて貰った。
今月の文楽でも、第一部の意欲的な通し狂言「双蝶々曲輪日記」と第三部の新作「不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)」は、満員御礼であっても、第二部の「近江源氏先陣館/日高川入相花王」は空席が目立つことを見ても、古典の一部を並べたアラカルト的公演への客の醒めた対応が分かろうと言うものである。
伝統を重んじる歌舞伎の世界にも新作歌舞伎が結構沢山あるし、何とも言えないのだが、初代吉右衛門所縁の素晴らしいプログラムだろうと思いながらも、今回の秀山祭の舞台の古色蒼然とした出し物を見ていると、同じ舞台を何時も観続けていると言う思いとマンネリズムを感じたのである。
さて、「連獅子」だが、仁左衛門 の狂言師右近後に親獅子の精と、孫の千之助の狂言師左近後に仔獅子の精が踊る華麗な舞台が、素晴らしかった。
親獅子と仔獅子の情愛を描いた舞踊で、最後の毛振りが呼び物だが、仁左衛門の毛が、途中で絡まって中断はしたものの、千之助に負けないくらいの、古希を迎えたとは思えない迫力で、立ち台に、寸分の乱れも呼吸の乱れもなくすっくと立った姿は流石であった。
先日、落語と狂言の「宗論」について書いたが、この狂言の宗論を取り入れて、法華僧の日門と浄土僧の専念が清涼山を訪れ、途中で巡り合って、お互いの宗派が違うところから口論するも、おどろおどろしい山風が吹いて退散し、その後、素晴らしい井出達の親獅子と仔獅子の精が現れ、勇壮に毛を振って舞う。
浄土僧専念を錦之助が、法華僧日門を又五郎が、コミカルに演じて、狂言とは違った可笑しみがあって良い。
最後の「曽我綉俠御所染」は、”男伊達の粋と意地を黙阿弥の名せりふで彩る絢爛の舞台”と言うことだが、
御所五郎蔵を染五郎、星影土右衛門を松緑、傾城皐月を芝雀、傾城逢州を高麗蔵、甲屋女房お松を秀太郎と言う役者陣で、
五郎蔵の元妻皐月を巡って、五郎蔵と土右衛門が恋の鞘当。
五郎蔵に200両の金を工面するために、皐月は土右衛門に靡いた風を装うが、誤解した五郎蔵が、土右衛門に付き添っての花魁道中に、皐月を闇討ちするのだが、身替りになっていた逢州を誤って殺すと言う惨劇。
若い染五郎と松緑の持ち味を生かした芝居をベテランが支えたと言う感じで、勢いのある芝居で面白かった。
吉右衛門ともなれば、例え初演であっても、誰にも負けない重厚かつ威厳と風格のある光秀を演じられるので、むしろ、どのような新しい光秀像を見せて魅せるのか、その方の期待の方が大きい筈。
「夕顔棚のこなたより、現れいでたる武智光秀・・・」の浄瑠璃に乗って、笠で顔を隠した吉右衛門の光秀が、裏庭の茂みから現れて、竹藪から竹を切って先をそぎ落とした竹槍を持って、座敷にいる筈の久吉を殺しにいく見せ場が始まるのだが、このシーンからして、実録の歴史とは全く違っていて、創作の妙が面白い。
まして、光秀の三日天下を阻止した秀吉(ここでは、真柴久吉 歌六 )が、旅僧として、昨晩からこの母の庵室に身を寄せていて、それを追ってきた光秀が、竹槍で刺し殺そうとするのだが、誤って、母皐月 (東蔵)をついてしまうと言う話になっていて、史実に多少近いとすれば、母が光秀の謀反を心良しとはしていなかったと言うことくらいであろうか。
舞台の冒頭は、光秀の嫡男武智十次郎(染五郎 )が、傷心し切って、祖母に、初陣の許しを得るために訪れる。
討死の覚悟を悟った皐月と母操(魁春)が勧めて、許婚の初菊(米吉)と祝言を挙げて出陣して行くのだが、染五郎の清楚で凛々しい十次郎と初々しい米吉の初菊の別れが中々雰囲気があって良い。
若手女形を育成しようと言う強い意欲があるのであろう。米吉は、昼の部の「菊畑」でも、皆鶴姫を演じていて、最近重要な役柄を演じながら、めきめき力をつけて来ており、癖のない爽やかな演技が冴えていて素晴らしい。
一方、染五郎の方も、水も滴る良い男を演じ、鏡獅子の小姓弥生を踊れば、今回の御所五郎蔵でヤクザまがいの大啖呵を切り、今度は、勧進帳の弁慶を演じると言う、八面六臂の活躍が出来る素晴らしい役者で、それが総て、遥かに水準を越えた演技の連続だと言うから見上げたものである。
最初に染五郎の舞台に接したのは、ロンドンで、ハムレットの歌舞伎版「葉武列土倭錦絵」の葉叢丸と実刈屋姫を演じた時で、その後、関東オリジンでありながら、近松門左衛門の心中ものを実に器用に演じているのを見てから、非常に注目しており、幸四郎と吉右衛門の薫陶よろしく、益々、芸道に精進しているのであるから、楽しみである。
光秀の暴挙を諌める母皐月の「これ見給え、光秀殿・・」のクドキの東蔵、皐月を介抱し、十次郎をみとって嘆き悲しむ操の魁春、風格のある久吉の歌六、佐藤正清の又五郎、役者揃っていて華麗な舞台を見せてくれて素晴らしい。
私としては、勘十郎の襲名披露公演で、玉男はじめ文楽界総出演の素晴らしい舞台が、一番印象に残っている。
ところで、天邪鬼かもしれないが、このような決定版とも言うべき完全に伝統を踏襲した古典歌舞伎で、結晶し昇華した錦絵の様な舞台ばかりを見ていると、多少、消化不良を感じる。
早い話、シェイクスピア戯曲は、たったの37曲しかなく、同じ台詞で何度も何度も演じられてはいるのだが、その度毎に、役者は勿論、演出や舞台も変わっていて、見る方の解釈の仕方も変わって行くなど変化がある。
オペラでもそうだが、モーツアルトやベルディの舞台が、現在のニューヨークやラスベガスに代わり、スカートを履いた麗人や背広姿の行かれポンチが登場するなど、結構面白い。
日本には、伝統だから(なんでも?)尊いのだと言った学者がいたのだが、さて、そうであろうかと思うことがある。
昨日、文楽の「不破留寿之太夫」について書いたが、作曲の鶴澤清治師が、新作文楽について、「昔はすべて新作だったわけで、お客さまに喜んでいただくために大変な仕掛けを行っていたようです。文楽は、昔からそうしてきたんですよ。現代のお客さまに『喜んでいただけるものを一つでも多く作りたい。」と言っている。
シェイクスピアの時代には、新作がどんどん出て、翌日には、同じ演目が別の劇場で演じられていると言った状態で、剽窃や真似や編曲は日常茶飯事であり、どんどん、昇華されて行って良い作品が生まれてきた。
この前の新作文楽シェイクスピアの「テンペスト」も、非常に意欲的な面白い作品で、楽しませて貰った。
今月の文楽でも、第一部の意欲的な通し狂言「双蝶々曲輪日記」と第三部の新作「不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)」は、満員御礼であっても、第二部の「近江源氏先陣館/日高川入相花王」は空席が目立つことを見ても、古典の一部を並べたアラカルト的公演への客の醒めた対応が分かろうと言うものである。
伝統を重んじる歌舞伎の世界にも新作歌舞伎が結構沢山あるし、何とも言えないのだが、初代吉右衛門所縁の素晴らしいプログラムだろうと思いながらも、今回の秀山祭の舞台の古色蒼然とした出し物を見ていると、同じ舞台を何時も観続けていると言う思いとマンネリズムを感じたのである。
さて、「連獅子」だが、仁左衛門 の狂言師右近後に親獅子の精と、孫の千之助の狂言師左近後に仔獅子の精が踊る華麗な舞台が、素晴らしかった。
親獅子と仔獅子の情愛を描いた舞踊で、最後の毛振りが呼び物だが、仁左衛門の毛が、途中で絡まって中断はしたものの、千之助に負けないくらいの、古希を迎えたとは思えない迫力で、立ち台に、寸分の乱れも呼吸の乱れもなくすっくと立った姿は流石であった。
先日、落語と狂言の「宗論」について書いたが、この狂言の宗論を取り入れて、法華僧の日門と浄土僧の専念が清涼山を訪れ、途中で巡り合って、お互いの宗派が違うところから口論するも、おどろおどろしい山風が吹いて退散し、その後、素晴らしい井出達の親獅子と仔獅子の精が現れ、勇壮に毛を振って舞う。
浄土僧専念を錦之助が、法華僧日門を又五郎が、コミカルに演じて、狂言とは違った可笑しみがあって良い。
最後の「曽我綉俠御所染」は、”男伊達の粋と意地を黙阿弥の名せりふで彩る絢爛の舞台”と言うことだが、
御所五郎蔵を染五郎、星影土右衛門を松緑、傾城皐月を芝雀、傾城逢州を高麗蔵、甲屋女房お松を秀太郎と言う役者陣で、
五郎蔵の元妻皐月を巡って、五郎蔵と土右衛門が恋の鞘当。
五郎蔵に200両の金を工面するために、皐月は土右衛門に靡いた風を装うが、誤解した五郎蔵が、土右衛門に付き添っての花魁道中に、皐月を闇討ちするのだが、身替りになっていた逢州を誤って殺すと言う惨劇。
若い染五郎と松緑の持ち味を生かした芝居をベテランが支えたと言う感じで、勢いのある芝居で面白かった。