荒れ模様の天気が危ぶまれたのだが、奉納國神社 夜桜能第三夜が、神社の能楽堂で執り行われた。
天気予報では、開演時間中は雨の予報で、風が強いと言うことで、会場が、國神社か、日比谷公会堂か、直前の電話テレドームで確認するまで分からなかった。
幸い、天候にも恵まれて、満開の桜の下で、桜吹雪を受けて、松明の炎が揺れ動く野外の能楽堂で、質の高い素晴らしい能舞台を楽しむことが出来た。
上演中は、撮影禁止で撮れなかったのだが、桜吹雪が、能舞台に向かって激しく舞う光景は、次の休憩時のショットで分かるであろう。
終演後には、うっすらと、月影が見えていた。


舞台は、松明への火入れ式で始まった。
最初は、梅若長左衛門師の舞舞台 胡蝶。
電光に映えた舞台は鮮やかで、喧噪から程遠い静かな野外の能舞台で厳かに舞われる能の荘厳さは、室内の能舞台とは違った特別な雰囲気を醸し出す。
狂言の「文荷」は、人間国宝野村萬が太郎冠者、万蔵が次郎冠者
これまでに、2~3回観ているのだが、舞台を一寸見上げる感じなので、雰囲気が大分違う。
私の席は、脇正面寄りの、中正面の前の方であった。
この狂言「文荷」は、主人の恋文を、次郎冠者と太郎冠者が、命じられて、主人の思い人に、いやいや届けに行くと言う話で、能の「恋重荷」のパロディ版であるから、恋の文は、恋し恋し(小石小石)で重いと言って、竹に結び付けて二人で担って行く。途中で休憩して、好奇心を起こして文を開いて読み、奪い合っているうちに引き裂いてしまう。千切れた文を扇で仰ぎ、風の便りに届け届けと小唄を歌っているところに、帰りが遅いので心配して出てきた主人に出くわして怒られるのだが、お返事ですとあぶり返す太郎冠者の惚けぶり。
この話は、当時、かなり、普通にあったと言うお稚児趣味をテーマにしたもので、主人のラブレターのあて先は、左近三郎殿と言う少年であり、他の狂言にも、このように少年に恋するテーマがあって、世相を感じて面白い。
いくら、流行っていたと言っても、二人にとっては、奥さんに悪いだとか、一寸悪趣味だとかと言った気持ちがあっての悪戯心か・・・
女御に恋焦がれた庭男が騙されて重荷を背負わされて苦しんで死んで行くと言う深刻なストーリーの能の「恋重荷」を、面白おかしく茶化した狂言のしたたかさが、興味深い。
ギリシャ時代、プラトンも落ちたと言うこの少年愛だが、真面な大人が抱く少年への恋愛関係で、性的関係も普通であったようで、これこそが本来のプラトニックラブで、今で言う意味とは全く違う。
日本ではどうだったか分からないのだが、信長と蘭丸、義満と世阿弥などの間にも、噂が残っている。
去年9月に、茂山七五三ほかの「文荷」を観たが、今回は、和泉流で、野村萬・万蔵父子の軽妙洒脱で、ほのぼのとした可笑しみとユーモアの滲み出た舞台が秀逸であった。

休憩後の能は、源氏物語に題材を取った「葵上」。
しかし、タイトルロールの葵上は、登場せず、舞台中央正先に広げられた小袖が、物の怪に憑かれて病床にある葵上を象徴しており、シテは、嫉妬に狂う六条御息所の生霊である。
さて、この六条御息所だが、夫の東宮が死去したので皇后にはなれなかったが、教養豊かで風流を解し、趣味がよくて、才色兼備の非の打ちどころのない高貴な女性だったのだが、7歳も歳上で、藤壺に振られた寂しさを紛らすために、口説いて靡かせたものの、生来浮気の光源氏には、多少煙たい存在で、他の女性に目移りして足が遠のく。
孤閨を託つ六条御息所が最初に嫉妬したのは、身分の低い夕顔で、こんな女性にうつつをぬかすなど許しがたいと、生霊となって夕顔をとり殺してしまう。
葵上に怨みを持ったのは、賀茂斎院の御禊の見物に行った時に、偶然に、葵上の家来が六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を壊して大恥をかかせた事件がきっかけで、まして、正妻の葵上が懐妊したと言うのだから、益々嫉妬に狂い恨み骨髄に徹して、葵上に、物の怪としてとりついて悩ませて臥せさせる。床を見舞った源氏の前に現われたので、生霊の正体を端無くも源氏に見せてしまう。苦しみながらも、結局は、男児を産み落とした葵上の命を奪ってしまうのである。
今回の舞台は、勿論、光源氏などは出て来ずに、青女房に伴われた六条御息所の生霊が、葵上の病床に現われて恨み辛みを叩きつけて、後場では、悪鬼となって登場して連れ去ろうとするのだが、横川の小聖に祈り伏せられて、成仏すると言う話になっている。
般若の面を付けて悪鬼となった人間国宝梅若玄祥とワキ小聖の宝生欣哉との激しくも流れるような戦いが、魅せて見せる見せ場を展開して素晴らしい。
前シテでは、嫉妬の激しさや抑えきれない怒りや苦しみを必死にセーブしていたのだが、後場では、衣を被いて悪鬼と化して登場する六条御息所の生霊は、舞台で暴れまわり、橋懸りの奥まで走り込んでの激しい怨みの爆発で凄まじく、それだけに、幕切れの合掌して穏やかな成仏の静けさが印象的であった。
これまでに、観世宗家の葵上など、何度か、「葵上」を観る機会があったが、古式の上演は、昨年11月の国立能楽堂での観世流のシテ坂井音重師の舞台で、これが二回目である。
この古式の舞台では、常の上演では出ない作り物の車を舞台中央に出し、青女房の登場も、この舞台だけだと言う。
国立能楽堂で観ることが多いので、屋内の音響や設備など総て至れり尽くせりに完備した能楽堂で、能・狂言を観ることに慣れているのだが、今回は、野外での鑑賞だったので、非日常の素晴らしい経験が出来て幸いであった。
ロンドンで、初めて、シェイクスピア時代そっくりの青天井のグローブ座で、シェイクスピア劇を鑑賞した、あの時の素晴らしい思い出が蘇ってきた。
風雨の中での鑑賞は経験なかったが、太陽がかんかん照りつけるグローブ座のシェイクスピアは、また、格別であった。
シェイクスピアも聴きに行く、文楽も浄瑠璃を聴きに行く、観るよりも聴くと言う舞台芸術鑑賞、そんな、本来の昔ありきの舞台での観劇も、新鮮な面白さがあって良い。
最初に野外劇場で、素晴らしい経験をしたのは、フィラデルフィのロビンフッドデルのフィラデルフィア管弦楽団の野外コンサートで、その後、ヨーロッパへ渡って、宮殿や古城、綺麗な公園での野外コンサート劇場などで、色々と、昔ではあたりまえであった野外での芸術鑑賞を楽しんで来たが、夫々に、特別な感慨があって面白かった。
この今回の、國神社能楽堂の能舞台は、新しい新鮮な芸術鑑賞機会を与えてくれて、楽しかった。
尤も、これは、私自身の勝手な感想で、能・狂言の鑑賞とは、殆ど、何の関係もないことは、勿論ではある。
能舞台の写真は、次の通り。
舞ってきた桜の花びらが、舞台上に残っている。



天気予報では、開演時間中は雨の予報で、風が強いと言うことで、会場が、國神社か、日比谷公会堂か、直前の電話テレドームで確認するまで分からなかった。
幸い、天候にも恵まれて、満開の桜の下で、桜吹雪を受けて、松明の炎が揺れ動く野外の能楽堂で、質の高い素晴らしい能舞台を楽しむことが出来た。
上演中は、撮影禁止で撮れなかったのだが、桜吹雪が、能舞台に向かって激しく舞う光景は、次の休憩時のショットで分かるであろう。
終演後には、うっすらと、月影が見えていた。


舞台は、松明への火入れ式で始まった。
最初は、梅若長左衛門師の舞舞台 胡蝶。
電光に映えた舞台は鮮やかで、喧噪から程遠い静かな野外の能舞台で厳かに舞われる能の荘厳さは、室内の能舞台とは違った特別な雰囲気を醸し出す。
狂言の「文荷」は、人間国宝野村萬が太郎冠者、万蔵が次郎冠者
これまでに、2~3回観ているのだが、舞台を一寸見上げる感じなので、雰囲気が大分違う。
私の席は、脇正面寄りの、中正面の前の方であった。
この狂言「文荷」は、主人の恋文を、次郎冠者と太郎冠者が、命じられて、主人の思い人に、いやいや届けに行くと言う話で、能の「恋重荷」のパロディ版であるから、恋の文は、恋し恋し(小石小石)で重いと言って、竹に結び付けて二人で担って行く。途中で休憩して、好奇心を起こして文を開いて読み、奪い合っているうちに引き裂いてしまう。千切れた文を扇で仰ぎ、風の便りに届け届けと小唄を歌っているところに、帰りが遅いので心配して出てきた主人に出くわして怒られるのだが、お返事ですとあぶり返す太郎冠者の惚けぶり。
この話は、当時、かなり、普通にあったと言うお稚児趣味をテーマにしたもので、主人のラブレターのあて先は、左近三郎殿と言う少年であり、他の狂言にも、このように少年に恋するテーマがあって、世相を感じて面白い。
いくら、流行っていたと言っても、二人にとっては、奥さんに悪いだとか、一寸悪趣味だとかと言った気持ちがあっての悪戯心か・・・
女御に恋焦がれた庭男が騙されて重荷を背負わされて苦しんで死んで行くと言う深刻なストーリーの能の「恋重荷」を、面白おかしく茶化した狂言のしたたかさが、興味深い。
ギリシャ時代、プラトンも落ちたと言うこの少年愛だが、真面な大人が抱く少年への恋愛関係で、性的関係も普通であったようで、これこそが本来のプラトニックラブで、今で言う意味とは全く違う。
日本ではどうだったか分からないのだが、信長と蘭丸、義満と世阿弥などの間にも、噂が残っている。
去年9月に、茂山七五三ほかの「文荷」を観たが、今回は、和泉流で、野村萬・万蔵父子の軽妙洒脱で、ほのぼのとした可笑しみとユーモアの滲み出た舞台が秀逸であった。

休憩後の能は、源氏物語に題材を取った「葵上」。
しかし、タイトルロールの葵上は、登場せず、舞台中央正先に広げられた小袖が、物の怪に憑かれて病床にある葵上を象徴しており、シテは、嫉妬に狂う六条御息所の生霊である。
さて、この六条御息所だが、夫の東宮が死去したので皇后にはなれなかったが、教養豊かで風流を解し、趣味がよくて、才色兼備の非の打ちどころのない高貴な女性だったのだが、7歳も歳上で、藤壺に振られた寂しさを紛らすために、口説いて靡かせたものの、生来浮気の光源氏には、多少煙たい存在で、他の女性に目移りして足が遠のく。
孤閨を託つ六条御息所が最初に嫉妬したのは、身分の低い夕顔で、こんな女性にうつつをぬかすなど許しがたいと、生霊となって夕顔をとり殺してしまう。
葵上に怨みを持ったのは、賀茂斎院の御禊の見物に行った時に、偶然に、葵上の家来が六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を壊して大恥をかかせた事件がきっかけで、まして、正妻の葵上が懐妊したと言うのだから、益々嫉妬に狂い恨み骨髄に徹して、葵上に、物の怪としてとりついて悩ませて臥せさせる。床を見舞った源氏の前に現われたので、生霊の正体を端無くも源氏に見せてしまう。苦しみながらも、結局は、男児を産み落とした葵上の命を奪ってしまうのである。
今回の舞台は、勿論、光源氏などは出て来ずに、青女房に伴われた六条御息所の生霊が、葵上の病床に現われて恨み辛みを叩きつけて、後場では、悪鬼となって登場して連れ去ろうとするのだが、横川の小聖に祈り伏せられて、成仏すると言う話になっている。
般若の面を付けて悪鬼となった人間国宝梅若玄祥とワキ小聖の宝生欣哉との激しくも流れるような戦いが、魅せて見せる見せ場を展開して素晴らしい。
前シテでは、嫉妬の激しさや抑えきれない怒りや苦しみを必死にセーブしていたのだが、後場では、衣を被いて悪鬼と化して登場する六条御息所の生霊は、舞台で暴れまわり、橋懸りの奥まで走り込んでの激しい怨みの爆発で凄まじく、それだけに、幕切れの合掌して穏やかな成仏の静けさが印象的であった。
これまでに、観世宗家の葵上など、何度か、「葵上」を観る機会があったが、古式の上演は、昨年11月の国立能楽堂での観世流のシテ坂井音重師の舞台で、これが二回目である。
この古式の舞台では、常の上演では出ない作り物の車を舞台中央に出し、青女房の登場も、この舞台だけだと言う。
国立能楽堂で観ることが多いので、屋内の音響や設備など総て至れり尽くせりに完備した能楽堂で、能・狂言を観ることに慣れているのだが、今回は、野外での鑑賞だったので、非日常の素晴らしい経験が出来て幸いであった。
ロンドンで、初めて、シェイクスピア時代そっくりの青天井のグローブ座で、シェイクスピア劇を鑑賞した、あの時の素晴らしい思い出が蘇ってきた。
風雨の中での鑑賞は経験なかったが、太陽がかんかん照りつけるグローブ座のシェイクスピアは、また、格別であった。
シェイクスピアも聴きに行く、文楽も浄瑠璃を聴きに行く、観るよりも聴くと言う舞台芸術鑑賞、そんな、本来の昔ありきの舞台での観劇も、新鮮な面白さがあって良い。
最初に野外劇場で、素晴らしい経験をしたのは、フィラデルフィのロビンフッドデルのフィラデルフィア管弦楽団の野外コンサートで、その後、ヨーロッパへ渡って、宮殿や古城、綺麗な公園での野外コンサート劇場などで、色々と、昔ではあたりまえであった野外での芸術鑑賞を楽しんで来たが、夫々に、特別な感慨があって面白かった。
この今回の、國神社能楽堂の能舞台は、新しい新鮮な芸術鑑賞機会を与えてくれて、楽しかった。
尤も、これは、私自身の勝手な感想で、能・狂言の鑑賞とは、殆ど、何の関係もないことは、勿論ではある。
能舞台の写真は、次の通り。
舞ってきた桜の花びらが、舞台上に残っている。



