四月の歌舞伎座は、中村鴈治郎の襲名披露公演である。
夜の部で、襲名披露口上があるのだが、大阪では従来の形式で行われたようだが、東京では、「成駒屋歌舞伎賑」の「木挽町芝居前の場」で、幹部役者が勢揃いした舞台の後、藤十郎と鴈治郎を筆頭に成駒屋一家四人が、鴈治郎を真ん中にして一列に並んで正座して口上を述べた。


すでに、大阪松竹座で1月と2月に襲名披露興行を行っているので、鴈治郎を、道頓堀の座元の仁左衛門が案内して江戸に乗り込み、木挽町の座元である菊五郎、太夫元の吉右衛門、芝居茶屋亭主の梅玉らに引き合わせると言う形式を取っている。
そこに、男伊達と女伊達が、二列になって登場し、両花道にずらりと並んで、男女交互に鴈治郎へご祝儀のツラネを述べ、それに応えて鴈治郎が一人ひとりに頭を下げる。
茶屋女房の秀太郎に案内されて江戸奉行の幸四郎が登場して、お祝いを述べながら、鴈治郎のファンだからサインが欲しいと言って紙を取り出すと鴈治郎がサインをして返すと言うサービス・シーンがある。
この幸四郎は、昼の部の「廓文章」の中で、吉田屋喜左衛門として登場し、久しぶりに店を訪れた藤屋伊左衛門の鴈治郎を、口上に代えて、披露すると言う役割も演じている。
1月の公演では、橋之助など同じ成駒屋の役者たちが加わっていたようだが、東京では、平成中村座の公演で、重なっていて登場できないようで、一寸寂しい感じがする。
夜の部では、やはり、最高の舞台は、襲名披露狂言「心中天網島」の「河庄」である。
紙屋治兵衛は鴈治郎、紀の國屋小春は芝雀、粉屋孫右衛門は梅玉、河内屋お庄は秀太郎、江戸屋太兵衛は染五郎と言う素晴らしい布陣である。
もう、10年ほども前になるであろうか、先代の鴈治郎(現藤十郎)の治兵衛と雀右衛門の小春の素晴らしい「河庄」の舞台を観て感激したことがある。
今度の舞台は、その次の世代の子息たちの舞台であり、改めて、懐かしい芝居を反芻させて貰った。
その少し後に、同じく藤十郎の治兵衛で、時蔵の小春の舞台を観たが、今回、鴈治郎の治兵衛を観ていると、当然かも知れないのだが、生き写しと言っても良い程の舞台で、懐かしさと言うよりも、びっくりしてしまった。
藤十郎も鴈治郎もそうだが、治兵衛の仕草や語り口などは、今でも、大阪人が、生身そのままで舞台に登場して、そのまま語っているような、極めてリアルで、臨場感たっぷりの実際の人生劇場そのものであり、芝居をはるかに越えており、どっぷりとその舞台に引きずり込まれてしまって、歌舞伎を観ているのを忘れてしまうのである。
後で振り返ってみて、上手いなあ! あれが、近松の世界なのだ、と思って、感激する。
鴈治郎が、何かで、顔は父親似だが、芸は祖父似だと言っていたが、この河庄の舞台に関する限り、YouTubeで、先々代の鴈治郎の治兵衛と藤十郎の小春の舞台を観ることができるのだが、先々代の治兵衛とは、全く芝居もニュアンスも異なっていて、異次元の世界である。
余談ながら、この動画の、水も滴る好い女で、実に健気で女らしい小春を演じている若き頃の藤十郎の素晴らしい芝居が感動的である。
さて、この舞台は、語り口そのものも芝居の雰囲気も、近松門左衛門、そして、改作者の近松半二にしろ、心底どっぷりと大坂に浸かり切った浄瑠璃であり歌舞伎であるから、住大夫が常に語っていたように、絶対に訛ってはダメで、こてこての大阪弁、大阪気質、大阪文化で語り演じなければならないと思っているのだが、その意味では、正に、前述したように藤十郎や鴈治郎の世界なのである。
扇雀の子息虎之介さえ東京人に成ってしまって、大阪弁の勉強に大阪に語学留学したいと言うほどだから、鴈治郎の子息で善六を演じた壱太郎も努力して大阪弁を駆使したのかも知れないが、今回、素晴らしい芝居を演じている小春の芝雀や粉屋孫右衛門の梅玉や江戸や太兵衛の染五郎も、私には、一寸、ニュアンスが違っていて、近松ではなく、和事の歌舞伎の舞台を観るつもりで鑑賞させて貰った。
昨年3月に観た「封印切り」の舞台では、忠兵衛が藤十郎、梅川が扇雀、秀太郎がおゑん、八右衛門が翫雀、槌屋治右衛門が我當と言うオール上方役者で演じられたが、恐らく、本物の近松門左衛門の芝居は、これが最期かも知れないと思っている。
玉男も逝き、巨星米朝も去ってしまった。
日本文化の誇りであった筈の古典芸能の世界から、どんどん、上方文化が消えて行くような気がして、寂しい。
今回の鴈治郎襲名は、その危機を強烈に実感させてくれているような気がして、私には、印象的である。
初日に歌舞伎座に出かけたのだが、空席が結構あったし、松竹の歌舞伎美人で空席状況をチェックしたら、貸切日以外は、チケットが大分残っているようである。
住大夫引退公演チケットが瞬時に完売した余韻が残っているのか、文楽の二代目玉男襲名公演のチケット(口上のある部)は、今月の大阪公演では残っているが、東京公演は、あぜくら会分は、即日完売であった。(一般売り出しは、4月7日から)
文楽協会や日本芸術文化振興会などの必死の努力が効を奏したのであろう、
放漫財政の結果の辻褄合わせに、補助金カットで、最後の砦として大阪に残っている世界文化遺産の文楽まで、文化衰退の標的にした地元で育った政治家がいる世の中であるから、仕方がないのかも知れないが、実に寂しい。
一寸古いので、手元にある岩波講座の「歌舞伎・文楽」や「能・狂言」には、まだ、少し、上方文化の余韻らしきものが残っているのだが、このままでは、何時か、古典芸能、日本文化の世界も、東京一極に集中してしまうのであろう。
日本史や日本文化史に、昔、上方文化と言うものがあったと言う歴史上の記述だけが残るような気がしている。

夜の部で、襲名披露口上があるのだが、大阪では従来の形式で行われたようだが、東京では、「成駒屋歌舞伎賑」の「木挽町芝居前の場」で、幹部役者が勢揃いした舞台の後、藤十郎と鴈治郎を筆頭に成駒屋一家四人が、鴈治郎を真ん中にして一列に並んで正座して口上を述べた。


すでに、大阪松竹座で1月と2月に襲名披露興行を行っているので、鴈治郎を、道頓堀の座元の仁左衛門が案内して江戸に乗り込み、木挽町の座元である菊五郎、太夫元の吉右衛門、芝居茶屋亭主の梅玉らに引き合わせると言う形式を取っている。
そこに、男伊達と女伊達が、二列になって登場し、両花道にずらりと並んで、男女交互に鴈治郎へご祝儀のツラネを述べ、それに応えて鴈治郎が一人ひとりに頭を下げる。
茶屋女房の秀太郎に案内されて江戸奉行の幸四郎が登場して、お祝いを述べながら、鴈治郎のファンだからサインが欲しいと言って紙を取り出すと鴈治郎がサインをして返すと言うサービス・シーンがある。
この幸四郎は、昼の部の「廓文章」の中で、吉田屋喜左衛門として登場し、久しぶりに店を訪れた藤屋伊左衛門の鴈治郎を、口上に代えて、披露すると言う役割も演じている。
1月の公演では、橋之助など同じ成駒屋の役者たちが加わっていたようだが、東京では、平成中村座の公演で、重なっていて登場できないようで、一寸寂しい感じがする。
夜の部では、やはり、最高の舞台は、襲名披露狂言「心中天網島」の「河庄」である。
紙屋治兵衛は鴈治郎、紀の國屋小春は芝雀、粉屋孫右衛門は梅玉、河内屋お庄は秀太郎、江戸屋太兵衛は染五郎と言う素晴らしい布陣である。
もう、10年ほども前になるであろうか、先代の鴈治郎(現藤十郎)の治兵衛と雀右衛門の小春の素晴らしい「河庄」の舞台を観て感激したことがある。
今度の舞台は、その次の世代の子息たちの舞台であり、改めて、懐かしい芝居を反芻させて貰った。
その少し後に、同じく藤十郎の治兵衛で、時蔵の小春の舞台を観たが、今回、鴈治郎の治兵衛を観ていると、当然かも知れないのだが、生き写しと言っても良い程の舞台で、懐かしさと言うよりも、びっくりしてしまった。
藤十郎も鴈治郎もそうだが、治兵衛の仕草や語り口などは、今でも、大阪人が、生身そのままで舞台に登場して、そのまま語っているような、極めてリアルで、臨場感たっぷりの実際の人生劇場そのものであり、芝居をはるかに越えており、どっぷりとその舞台に引きずり込まれてしまって、歌舞伎を観ているのを忘れてしまうのである。
後で振り返ってみて、上手いなあ! あれが、近松の世界なのだ、と思って、感激する。
鴈治郎が、何かで、顔は父親似だが、芸は祖父似だと言っていたが、この河庄の舞台に関する限り、YouTubeで、先々代の鴈治郎の治兵衛と藤十郎の小春の舞台を観ることができるのだが、先々代の治兵衛とは、全く芝居もニュアンスも異なっていて、異次元の世界である。
余談ながら、この動画の、水も滴る好い女で、実に健気で女らしい小春を演じている若き頃の藤十郎の素晴らしい芝居が感動的である。
さて、この舞台は、語り口そのものも芝居の雰囲気も、近松門左衛門、そして、改作者の近松半二にしろ、心底どっぷりと大坂に浸かり切った浄瑠璃であり歌舞伎であるから、住大夫が常に語っていたように、絶対に訛ってはダメで、こてこての大阪弁、大阪気質、大阪文化で語り演じなければならないと思っているのだが、その意味では、正に、前述したように藤十郎や鴈治郎の世界なのである。
扇雀の子息虎之介さえ東京人に成ってしまって、大阪弁の勉強に大阪に語学留学したいと言うほどだから、鴈治郎の子息で善六を演じた壱太郎も努力して大阪弁を駆使したのかも知れないが、今回、素晴らしい芝居を演じている小春の芝雀や粉屋孫右衛門の梅玉や江戸や太兵衛の染五郎も、私には、一寸、ニュアンスが違っていて、近松ではなく、和事の歌舞伎の舞台を観るつもりで鑑賞させて貰った。
昨年3月に観た「封印切り」の舞台では、忠兵衛が藤十郎、梅川が扇雀、秀太郎がおゑん、八右衛門が翫雀、槌屋治右衛門が我當と言うオール上方役者で演じられたが、恐らく、本物の近松門左衛門の芝居は、これが最期かも知れないと思っている。
玉男も逝き、巨星米朝も去ってしまった。
日本文化の誇りであった筈の古典芸能の世界から、どんどん、上方文化が消えて行くような気がして、寂しい。
今回の鴈治郎襲名は、その危機を強烈に実感させてくれているような気がして、私には、印象的である。
初日に歌舞伎座に出かけたのだが、空席が結構あったし、松竹の歌舞伎美人で空席状況をチェックしたら、貸切日以外は、チケットが大分残っているようである。
住大夫引退公演チケットが瞬時に完売した余韻が残っているのか、文楽の二代目玉男襲名公演のチケット(口上のある部)は、今月の大阪公演では残っているが、東京公演は、あぜくら会分は、即日完売であった。(一般売り出しは、4月7日から)
文楽協会や日本芸術文化振興会などの必死の努力が効を奏したのであろう、
放漫財政の結果の辻褄合わせに、補助金カットで、最後の砦として大阪に残っている世界文化遺産の文楽まで、文化衰退の標的にした地元で育った政治家がいる世の中であるから、仕方がないのかも知れないが、実に寂しい。
一寸古いので、手元にある岩波講座の「歌舞伎・文楽」や「能・狂言」には、まだ、少し、上方文化の余韻らしきものが残っているのだが、このままでは、何時か、古典芸能、日本文化の世界も、東京一極に集中してしまうのであろう。
日本史や日本文化史に、昔、上方文化と言うものがあったと言う歴史上の記述だけが残るような気がしている。

