今月2回目の国立能楽堂主催公演で、「普及公演」。上演前に、浅見和彦教授の能楽案内「京都から読み解く鉄輪の世界」と言う解説があり、面白い。
この「鉄輪」については、先月訪れたので、、京都での能舞台の旅紀行で「貴船神社」について書いた。
今回は、公演のことではなく、鉄輪の鬼の不思議について考えてみたいと思う。
この能は、
下京あたり(浅見さんは五条あたりだと言う)に住む女が、夫の心変わりに怒って、恨みを晴らすべく思い知らせてやろうと、貴船神社に丑刻参りをしている。明神に霊夢を授けられた社人が、女に、鉄輪の3本の足に松明を灯して頭に頂き、顔に丹を塗り赤い着物を着て怒りの心を保ったなら鬼になると、お告げを伝える。
夢見が悪くて悩んだ下京あたりの男が、安倍清明に会って命は今夜限りと言われたので、恐怖に慄いて救命すべく祈祷を頼み、祭壇を整え調伏を試みてもらう。
霊夢を信じて鬼と化して生霊となった女が現れて、夫と後妻の命を奪おうと祭壇に襲い掛かるのだが、清明の祈祷によって現れた三十番神に阻まれて殺せず、「時節を待つ」と言って退散する。
と言ったストーリー展開である。
浅見さんが語っていたので調べたら、京都市下京区堺町通松原下る鍛冶屋町に命婦稲荷社(鉄輪社 鉄輪の井戸)があって、ここに、”「鉄輪塚」と呼ばれる塚と井戸があり、これは或る女が自分を捨てた亭主を祈り殺そうと、貴船へ丑の刻詣りをしたが満願を前に志を遂げず、この辺りで亡くなったのを葬った塚で身投げをした井戸だといわれている。”と言うことで、能「鉄輪」と同じである。
さて、これが実話となると、五条から貴船神社までは、ほぼ、15~6キロだと言うとかなり遠い山道を、深夜に女が通ったことになる。
この能の詞章の道行を辿ると、下鴨神社のある糺の森から、深泥池、市原野を通って歩いているので、今の40号線から38号線を経て361号線あたりを真っすぐに北上して、鞍馬川の支流貴船川に沿って貴船神社に達している。
今、鞍馬へ通じている叡電は、深泥池よりもずっと八瀬・比叡山に近い宝ヶ池の方へ大きく東に迂回しており、バスルートがないので、私は、このルートしか知らない。
京都観光naviによると、鞍馬街道は、
北区鞍馬口町から賀茂川の出雲路橋を渡り、下鴨中通を北上、鞍馬川の谷をさかのぼって鞍馬寺門前に至る12キロの道。今も消費物資の重要ルート。貴船神社・鞍馬寺への参詣道として平安期から利用され、室町期には軍事街道の一つでもあった。と言うので、女は、この道を辿ったのであろうか。
しかし、下京から糺の森まででも、歩けば1時間で行けるかどうか分からないし、街道と言っても、おそらく、当時の貴船神社への道は、殆ど道なき山道であった筈で、女性の足で、一日で、簡単に往復できるとは、一寸、思えないのである。
さて、それよりも、もっと、気になるのは、これほどまでの難行苦行を重ねてまで、貴船神社への丑刻参りを続けようと言う、この主人公の女の怨念と言うか執念と言うか、その強烈さである。
女性の強さ逞しさは、随所で、経験していて知っているつもりだが、恐らく、男には、あり得ない様な激しい精神状態ではないかと思う。
しかし、馬場あき子さんは、「能・よみがえる情念」で、「鉄輪」は、女が一つの情念、念力によって鬼になると言う話であり、鬼になれば、生殺与奪の権を全部手中に収めていながら、元夫を殺せなかったのは、夫にまだ愛の未練を残していたからだと言う。
激しい怒りによって、女を捨て、人間を捨て、この世を捨てて鬼の世界に入ったのだが、人間的な悲しみ、夫に対する愛を土壇場になっても捨てきれなかった形だけの鬼であった。「鉄輪」の鬼の特質は、未練な愛を残した哀れさ、悲しさにあると言うのである。
殺そうと息巻いて二人の閨に乗り込んでおきながら、枕上に立って、「いかに殿御よ、珍しや(お久しぶり)」などと言って、愛を交わした日々をかき口説くのであるから、さもあろう。
安倍清明の祈祷調伏の結果だけではなく、作者の意図だったのであろうか、先の「鉄輪塚」の満願を果たせず入水したとの言い伝えとはニュアンスが違っていて面白い。
貴船神社のHPによると、
貴船神社が「恋を祈る神社」として知られるようになったのは、今から千年もの昔、宮廷の女流歌人として名高い和泉式部が、夫の心変わりに悩んだ末に貴船神社に参詣し、夫との復縁を祈願したところ、願いが叶えられたという話に始まる。
ウィキペディアによると、和泉式部は、”恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。”と言うことであるから、どこまで、真面目に考えれば良いのか分からないが、愛に悶え恋に悩む平安女性たちが、賀茂川を遡って、貴船神社へ参っていたことは、確かなようである。
当時は、男がほかの女性に心変わりをした場合、同性の恋敵に恨みの矛先を向けるのが普通で、後妻打ち(うらなりうち)と言う風習があって、日本の中世から江戸時代にかけて、夫が妻を離縁して後妻と結婚すると、先妻が予告した上で後妻の家を襲ったと言う。
能の「葵上」や「夕顔」などで、六条御息所が生霊として現れて、葵上や夕顔に祟って、問題の浮気男(?)の源氏に、恨みをぶっつけないのだが、この能「鉄輪」は、珍しく、元夫を標的にして苦しめるところが面白い。
尤も、この能では、後シテの女の生霊が、祭壇に形代として載せた後妻を示す鬘を手に巻き付けて打ち据えて、放り捨てると言う激しくも鬼気迫るシーンが展開されて、怒りの激しさを示す。
この日の能・金春流「鉄輪」は、
前シテ/女(泥眼)、 後シテ/女の生霊(橋姫) 本田光洋
ワキ/安倍清明 大日方寛、ワキツレ/男 御厨誠吾、アイ/社人 松本薫
この「鉄輪」については、先月訪れたので、、京都での能舞台の旅紀行で「貴船神社」について書いた。
今回は、公演のことではなく、鉄輪の鬼の不思議について考えてみたいと思う。
この能は、
下京あたり(浅見さんは五条あたりだと言う)に住む女が、夫の心変わりに怒って、恨みを晴らすべく思い知らせてやろうと、貴船神社に丑刻参りをしている。明神に霊夢を授けられた社人が、女に、鉄輪の3本の足に松明を灯して頭に頂き、顔に丹を塗り赤い着物を着て怒りの心を保ったなら鬼になると、お告げを伝える。
夢見が悪くて悩んだ下京あたりの男が、安倍清明に会って命は今夜限りと言われたので、恐怖に慄いて救命すべく祈祷を頼み、祭壇を整え調伏を試みてもらう。
霊夢を信じて鬼と化して生霊となった女が現れて、夫と後妻の命を奪おうと祭壇に襲い掛かるのだが、清明の祈祷によって現れた三十番神に阻まれて殺せず、「時節を待つ」と言って退散する。
と言ったストーリー展開である。
浅見さんが語っていたので調べたら、京都市下京区堺町通松原下る鍛冶屋町に命婦稲荷社(鉄輪社 鉄輪の井戸)があって、ここに、”「鉄輪塚」と呼ばれる塚と井戸があり、これは或る女が自分を捨てた亭主を祈り殺そうと、貴船へ丑の刻詣りをしたが満願を前に志を遂げず、この辺りで亡くなったのを葬った塚で身投げをした井戸だといわれている。”と言うことで、能「鉄輪」と同じである。
さて、これが実話となると、五条から貴船神社までは、ほぼ、15~6キロだと言うとかなり遠い山道を、深夜に女が通ったことになる。
この能の詞章の道行を辿ると、下鴨神社のある糺の森から、深泥池、市原野を通って歩いているので、今の40号線から38号線を経て361号線あたりを真っすぐに北上して、鞍馬川の支流貴船川に沿って貴船神社に達している。
今、鞍馬へ通じている叡電は、深泥池よりもずっと八瀬・比叡山に近い宝ヶ池の方へ大きく東に迂回しており、バスルートがないので、私は、このルートしか知らない。
京都観光naviによると、鞍馬街道は、
北区鞍馬口町から賀茂川の出雲路橋を渡り、下鴨中通を北上、鞍馬川の谷をさかのぼって鞍馬寺門前に至る12キロの道。今も消費物資の重要ルート。貴船神社・鞍馬寺への参詣道として平安期から利用され、室町期には軍事街道の一つでもあった。と言うので、女は、この道を辿ったのであろうか。
しかし、下京から糺の森まででも、歩けば1時間で行けるかどうか分からないし、街道と言っても、おそらく、当時の貴船神社への道は、殆ど道なき山道であった筈で、女性の足で、一日で、簡単に往復できるとは、一寸、思えないのである。
さて、それよりも、もっと、気になるのは、これほどまでの難行苦行を重ねてまで、貴船神社への丑刻参りを続けようと言う、この主人公の女の怨念と言うか執念と言うか、その強烈さである。
女性の強さ逞しさは、随所で、経験していて知っているつもりだが、恐らく、男には、あり得ない様な激しい精神状態ではないかと思う。
しかし、馬場あき子さんは、「能・よみがえる情念」で、「鉄輪」は、女が一つの情念、念力によって鬼になると言う話であり、鬼になれば、生殺与奪の権を全部手中に収めていながら、元夫を殺せなかったのは、夫にまだ愛の未練を残していたからだと言う。
激しい怒りによって、女を捨て、人間を捨て、この世を捨てて鬼の世界に入ったのだが、人間的な悲しみ、夫に対する愛を土壇場になっても捨てきれなかった形だけの鬼であった。「鉄輪」の鬼の特質は、未練な愛を残した哀れさ、悲しさにあると言うのである。
殺そうと息巻いて二人の閨に乗り込んでおきながら、枕上に立って、「いかに殿御よ、珍しや(お久しぶり)」などと言って、愛を交わした日々をかき口説くのであるから、さもあろう。
安倍清明の祈祷調伏の結果だけではなく、作者の意図だったのであろうか、先の「鉄輪塚」の満願を果たせず入水したとの言い伝えとはニュアンスが違っていて面白い。
貴船神社のHPによると、
貴船神社が「恋を祈る神社」として知られるようになったのは、今から千年もの昔、宮廷の女流歌人として名高い和泉式部が、夫の心変わりに悩んだ末に貴船神社に参詣し、夫との復縁を祈願したところ、願いが叶えられたという話に始まる。
ウィキペディアによると、和泉式部は、”恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。”と言うことであるから、どこまで、真面目に考えれば良いのか分からないが、愛に悶え恋に悩む平安女性たちが、賀茂川を遡って、貴船神社へ参っていたことは、確かなようである。
当時は、男がほかの女性に心変わりをした場合、同性の恋敵に恨みの矛先を向けるのが普通で、後妻打ち(うらなりうち)と言う風習があって、日本の中世から江戸時代にかけて、夫が妻を離縁して後妻と結婚すると、先妻が予告した上で後妻の家を襲ったと言う。
能の「葵上」や「夕顔」などで、六条御息所が生霊として現れて、葵上や夕顔に祟って、問題の浮気男(?)の源氏に、恨みをぶっつけないのだが、この能「鉄輪」は、珍しく、元夫を標的にして苦しめるところが面白い。
尤も、この能では、後シテの女の生霊が、祭壇に形代として載せた後妻を示す鬘を手に巻き付けて打ち据えて、放り捨てると言う激しくも鬼気迫るシーンが展開されて、怒りの激しさを示す。
この日の能・金春流「鉄輪」は、
前シテ/女(泥眼)、 後シテ/女の生霊(橋姫) 本田光洋
ワキ/安倍清明 大日方寛、ワキツレ/男 御厨誠吾、アイ/社人 松本薫