熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

杉本 秀太郎 著「平家物語」 (2)

2020年06月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   次に、気になるのは、源頼政の最期、やはり、能「頼政」を鑑賞する機会があるからであろう。
   能「頼政」は、宇治を舞台にした文武両道に秀でた源頼政を主人公にした世阿弥の格調高い修羅能。
   平氏政権下でありながら、源氏の長老として従三位に叙せられ75歳まで生を全うした数奇な運命を辿った頼政の最期については、平家物語の 巻第四・宮御最期 『三位入道七十に余つて…』に描かれており、能はその部分を脚色した作品で、「平家物語」のそのラスト部分は、
   「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける」
   これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、俯様に貫かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより強ちに好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七唱が取つて、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてけり。
   能「頼政」では、後シテの源頼政の霊が、合戦への経緯を語り、宇治川の合戦の修羅場を再現してみせて、最後に、自らの最期を語って、ワキ旅の僧に供養を頼んで消えてゆく。

   私は、京大の宇治分校時代に、1年間宇治の茶問屋に下宿をしていて、宇治河畔は何時もの散歩道であり、平等院には何度も行っていたが、当時は、源頼政が自刃した扇の芝のことには無関心であった。
   ただ、宇治川の最初の印象だが、琵琶湖に源を発して、天ヶ瀬ダムを経由して、一気に山際の渓流を流れ下る急流の水の勢いが凄いのにびっくりした。

   この宇治川渡河については、義仲追討に向かった鎌倉方の佐々木高綱と梶原景季の宇治川の先陣争いが有名だが、この頼政の最期の前に、源平最初の合戦を物語る壮絶な「橋合戦」が描かれていて、橋桁を外され先陣200余騎が溺れたり、浄妙坊や一来法師の派手な戦いぶりを野球観戦のように敵も味方も見物する描写があれば、専門家に知恵を得て描写した馬筏で300余騎無事に渡河する様子など興味津々。
  何時も思うのだが、何故、この山間部から一気に下ってきた直後の急流の激しい宇治川の平等院畔で、宇治川合戦をしたのか、もうすこし、下流の茶畑のある木幡あたりで渡河しても良いのではないかと、不思議に思っているのだが、そう言えば、世界の大戦でも、大体、本舞台で戦って突破することが多いので、裏をかいたのは、義経の鵯越くらいであろうから面白い。
   それにしても、この後、奈良炎上が展開されるのだが、良くも、直近の河畔での戦争でありながら、平等院が無傷で残ったのを奇蹟だと感嘆する以外にはない。

   さて、歴史として興味深いのは、この頼政と宮の敗死が引き金となって、その後、三井寺焼打ち、福原遷都、頼朝の挙兵、富士川の平家敗北、遷都と、歴史は大きく旋回して、平家に暗雲が漂う。
   そして、断末魔ととも言うべき「奈良炎上」。
   高倉宮に味方した三井寺に同心した興福寺に怒り、南都の不穏に苛立った清盛が、重衡を大将軍にして、平家の大軍を奈良焼き打ちに送り込み南都に乱入して、
   興福寺の堂塔伽藍、仏像、経巻ことごとく一夜にして灰と化し、聖武帝の盧舎那仏も崩壊して焼けただれ・・・
   火勢強く、興福寺から元興寺、法華寺、薬師寺を焼いた猛火は、大仏殿に「まさしう押しかけたり。をめき叫ぶ声、大焦熱、無間阿毘の底の罪人も、これにはすぎじとぞみえし。」
   重衡上洛後、堀を南都の大衆の首で埋め尽くし、それを見て、一天四海貴賤男女嘆き悲しみけれど、入道相国ばかりは、南都の衆徒ら、さて懲りよ、と宣いける。後世いかならんと、聞くも身の毛よだちたる。

   この「平家物語」は、清盛の悪行オンパレードであるが、山門にも三井寺にも興福寺にも、一顧だにせずに兵を送って平気で攻撃して焼き討ちなどを行っているが、信長同様に、清盛にも、微塵も仏心なり信仰心がなかったのであろうかと思うと不思議である。

   さて、余談だが、この治承4年(1180年)に、平家の奈良焼き打ちで、奈良の東大寺・興福寺が焼亡したので、その再興のために、運慶、快慶など偉大な大仏師が活躍する檜舞台が与えられる。
   興福寺や東大寺に大傑作を残し、最晩年には、運慶は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人のために作品を残したようだが、頼政謀反が、大きく歴史を動かして大転換の先駆けとなったと思うと、もう少し、心して、あの平等院と宇治川を思い出しながら、能「頼政」を鑑賞しようと思っている。
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